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歴史ウンチク〜右衛門、左衛門、右兵衛、左兵衛

多少間違いがあるかも?ですが、ウンチク「知ったかぶり」をかまします。


明治より前の日本人の男性の名前に

今は殆ど見かけないけど、明治より前の日本人の男性の名前には右衛門、左衛門、右兵衛、左兵衛とかありました。(うえもん、さえもん、うへい、さへい)、焼酎でも利右衛門とかありますし、グロな名前の土左衛門、マンガにもドラえもん、あと映画に出てきそうな 清兵衛、嘉兵衛、吉兵衛とか・・・・仏壇のある家なら過去帳を遡ると右衛門、左衛門、兵衛という名前が一人は出てくると思います。

これって何の由来か?と申しますと、もともとは平安時代の武士の役職(階級)の名前なんです。それが江戸時代まで続きました。時代が下るとともにやがては農民や町民まで使うようになりました。

島津の開祖、島津(惟宗)忠久も鎌倉時代の古文書には「左兵衛尉(さひょうえのじょう)」で記録に出てきます。尉は階級で大尉、少尉とあり、今の軍隊の階級と同じですね。

ほかには左衛門尉=さえもんのじょう、って知っている人いますよね?これって遠山の金さんですねwww

警護番

平安時代の武士は京都の武士であろうと地方の武士であろうと出世を目指すなら、まずは警護番として京都の権門貴族の門番からスタートし、やがては宮中の警護番になることでした。

兵衛府という役所がありまして、内裏(天皇の居所)周囲の警備、行幸・行啓の供奉、雑役、平安京の治安維持などをする役所であり、そこに詰めていたのは武士でした。その中に右衛門、左衛門=門の右と左の門番を指します。兵衛とは衛兵と同一かと。400人からいたようです。京の武士(武者)だけじゃなく全国から集められていたんでしょうね。

※武士=武者=平安時代頃までは武士と言わず、兵(つわもの)とか武者(むしゃ=むさ)といっていたようですが、ここでは便宜上・武士とします。

ライセンス制

当時の武士は今でいうライセンス制でして、誰でもなれるものではありませんでした。地方などで国司が武(剣術、流鏑馬)に長け、読み書きが出来る者を公募し、試験で認められた者(しっかりとした身分の者)が登録され、そのリストを揚げた書状は京都の御所に送られていたので、何処に何と名乗る武士がいるのか?を中央は掴んでいました。国司が交代になり、次の国司が着任した時に歓迎会の宴が催されるときに、リストに載る武士も宴に参加して顔を覚えてもらうよう営業したに違いありません。

また、武士もベテランになると名前を覚えられるように地方の地名を姓(平朝臣「谷山」五郎隆信とか)にしていました。ただし、地名を名乗るためには周囲の認知も必要でした。

以前(僕の中学時代とか)は農民が武装して武士になったという説(歴史教科書でも)もありましたが、無理がありますね。だいたい農民は子供の頃から農業に駆り出され、そんな農民からみたらお金のかかる遊び=剣術、流鏑馬を時間をかけて習っている暇やお金の余裕とか無いんです。(自衛のため簡単な帯刀はしていたようですが。)

武士になるにはある程度の身分と財力のある家に生まれる必要がありました。都市では中級以上の貴族だったり、地方では国司や地方官の郡司の子弟とかになります。武士はそういう身分の家の出になります。

有り得ない免許証イメージ・・・こんなのある訳ないやろ!

牛車シーンに出てくる郎党

大河ドラマの平安ドラマによく出てくる牛車〜貴族が牛車で出かける時に牛車を引いたり牛車の周囲を囲むボディガードの役割もしていました。上司の貴族のライバルの貴族の牛車とかち合うとお互い譲らず、通りで武士同士で喧嘩になることもしばしばでした。貴族は牛車の中から「やれ!やれ!彼奴をもっと懲らしめてやれ!」と扇子を口の前にして囁きながらも、表には出てきません(笑)この喧嘩で盛り上がると刀を抜く者も出てきて死人が出ることも度々あったようです。平安時代と言いながらもちっとも平安ではなかったのが平安時代でした。

護衛をもう少し平服姿にして欲しいけど・・・AIに教えていくしかありません。

門番兵〜国司

門番兵から始まり、そこから名前を覚えてもらい、働きが良ければ貴族から引立てを受け、家人・家司(けいし)となり、そこから国司(受領)の警護の御付き武官(受領郎党)として地方に派遣され、検地をし、年貢を取り立て、治世を学んでいくと同時に、京都の貴族に貢物と一緒に地方の情報をどんどん送ります。貴族に気にいられると、やがては内裏の陣の定めで上司の貴族から国司(受領)として強く推薦されるようになり、国司(受領)として地方に任官し、そこで勢力を広げていったのです。有名どころでは河内源氏(源頼信〜源義家〜源頼朝)だったり伊勢平氏(平貞盛〜平清盛)だったりでした。河内源氏や伊勢平氏は権門貴族の警護番にはじまり宮中の警護番で滝口や北面の武士を務め、一番の出世でした。官位は従五位の上〜下とかいう中級貴族でした。それでも熟国(産物がウハウハ実る)の国司、太宰府の次官(長官は皇族)ともなれば、相当な財を成すことが出来ました。

因幡堂縁起絵巻にある任国に赴く受領の有名な絵です。
国司(受領)郎党として任地に同行する武士達が見えます。
平安時代も中期以降は権門貴族の家人である武士から国司や太宰府役人になることがあった。
武士も文字の読み書きは当然、年貢を納める関係上、計算等のスキルは必須だったでしょうね。

出世を目指し、当時の権門貴族だった藤原忠平の屋敷の警護番になったけど、なかなか出世が叶わなず、帰郷したのが平将門でしたね。

帰郷したらなんと亡き父から自分が受け継ぐべき土地の殆どを伯父たちに横領されていたのでした。その将門が伯父たちへの仕返しで坂東(関東)で起こした私闘が次第に加熱し、ついには朝廷にたいする謀反〜反乱になっていったのですが・・・私闘の段階で将門は京都に呼び出され裁判を受けています。その時に度々将門を庇うのが藤原忠平でした。

平将門イメージ画
藤原忠平のイメージに程遠い。(もう少し強欲な年寄りの筈、口髭も欲しいwww)

開発領主(荘園の開発)

もちろん地方で地方官(在庁官人)=郡司として世襲しながら力をつけ、勢力を広げていく実質的に武士(荘園を開発したりする開発領主)もいました。平安時代も郡司は中期以降は世襲制から次第に実力本位(どれだけ民衆を治め、徴税が上手く出来るか?)になっていました。

郡司クラスは、はるか昔の古墳時代の頃から豪族として朝廷に仕えていたクラスが該当します。その郡司にもさらにクラスがあり大領を頂点に下にいくつも階級があり、そのあらゆる階級に地方に根付く豪族たちの名前がずらりと並んでいました。しかし、世襲ってだけで能力の無い者が郡司になると、その上司である国司は成果を上げられないので、国司が受領として徴税の成果を厳しく求められるようになると、郡司は単に世襲ってだけではなりにくくなっていきます。

地方の武士でも京都に警護番に出る義務がありました。但し、それは義務だけじゃなく、京都に出れば最新事情を知ることが出来るし、いろいろと繋がりを作ることもできます。一番新しい武具なども入手出来ます。メリットもあったのです。憧れの京都(みやこ)に出てみたいという気持ちもかなりあったのではと思います。出たら出たで京童に田舎者扱いされたのでしょうが・・・。

他には国司まで勤め上げてから在任期間が過ぎても任地に残り土着し、開発領主になるコースもありました。人の人生もいろいろとあるように、いろんなコースがあったのでしょう。

多分、武士は墾田には加わらなかったとは思いますが・・・

武士団の形成

そういうことで地方で荘園の開発&武士をやりながら、警護番で中央に出かけたり、中央から国司やその付き人として地方にやってきたりでしたので、頻繁に人的交流がありました。そこで次第に武士団が形成されていったのは想像に難くありません。随所で自分の仕事に従事しながらも、その傍らで主従の関係を結んでいくのです。そうやって人脈が形成され武士団が出来ていったのです。各自が個々に独立しながら主従の関係を結んでいたので、アッサリした関係でした。利で動いていたと思った方が良いでしょう。

言葉の違い

また、当時は地域によって言葉が相当違いがあったと思われます。しかし、地方の武士階級が京都に警護番として出ることにより、言葉の違いを乗り越える必要がありました。それで次第に誰ともコミュニケーションが出来るようになったことで、次の鎌倉時代に御家人たちの移動が容易になったのではないか?と思います。

最後に

武士とは暴力で相手をねじ伏せる存在です。高潔で忠義者という綺麗なイメージは近年出来たようで、実際とは相当かけ離れていると思った方が良いでしょう。暴力団と言っても過言ではありません。というか、当時は国家というもの自体が、民衆を支配することに関しては暴力的でもあったのです

記載・2026年3月30日

参考文献
武士の成長と院政(下向井龍彦)
列島を翔ける平安武士(野口 実)
平の将門(吉川英治)

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