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中世山城・谷山本城跡散策(20260215)

2026年2月15日日曜日の午後から鹿児島市西谷山にある中世山城・谷山本城跡を散策してきました。最寄りの駅は慈眼寺駅です。谷山本城跡は住宅地帯の奥にある山の中にあります。ですが、周辺に駐車場が無いので慈眼寺駅の近くの住宅地の中にあるコインパーキングか慈眼寺公園の駐車場に停めて、谷山本城跡に向かうしかありません。コインパーキングに止められるとラッキーですが、慈眼寺公園の駐車場だと結構歩くことになります。健康のためと思って頑張りましょう。


入口にあった看板の内容

谷山本城跡

谷山本城は千々輪城(ちぢわじょう)、又は、 愛宕城(あたごじょう)とも呼ばれている。 建仁3年(1203) 谷山氏の祖、谷山信忠が郡司職になって以来、 谷山氏は約200年間、 この城を根城とした。南北朝時代、谷山氏は南朝方につき、北朝方の島津氏と戦うが、ついに応永4年(1397)、 谷山氏は、島津元久に敗れて谷山を去った。 その後、大永7年(1527年) 出水の島津実久は、本家にそむいて、 谷山本城にこもったが、島津貴久に追われた。城内は、本城、弓場城、 陣之尾城の三区域から成り立ち、互いに空堀や浸食された谷によって区切られ本城は上下二段からなり、上段の本丸には守護神の勝軍地蔵をまつる愛宕神社があり、土塁の跡も残っている。下段の武者溜の近くには、伊勢神社がまつられている。

谷山城のあった当時の谿山郡の説明

谿山郡(赤)、谷山郡司だった谷山氏(図面はイラレで制作しました)
最寄りの駅は慈眼寺駅。慈眼寺駅の近くに民家の中に駐車場があるけど、そこは満車で仕方なく慈眼寺公園に停め歩きで谷山城跡にむかいました。カメラを持って歩いたので、それなりの運動になりました。
山城散策は基本、登山と同じです。靴はなるべく登山靴を履くようにしています。

谷山城の登山口〜山城探検開始

谷山城の登山口は閑静な住宅街の中にあります。なお周囲にはコインパーキングなどは無いので、駅の近くのコインパーキングか慈眼寺公園の駐車場にとめるしかありません。なお、カメラ持参でウロウロしていたら不審者に間違われました。

山城入口
案内板があります。
案内板があります。
民家を横目に前に進みます。

山城らしい景色になってきました。

民家を他所目に進んでいくと山を掘って出来たと思われる道が出てきます。

地面はコンクリートで歩き易くなっています。
地面はコンクリートで歩き易くなっています。

第一ポイント〜空堀〜武者溜り

登り始めて10分も経たないうちに第一ポイントが出てきます。いきなり空堀や武者溜りなどの場所が現れます。先ほどまで住宅街だったのが嘘のように異次元の空間になっていきます。

この右側に石の階段があります。
右側にある石の階段
階段を登ると平地が出てきます。これはなんだろう?乗馬場か?
元に戻ると通路の右側に何かあります。
通路の右側は空堀の跡でした。
空堀の跡
空堀を右手に過ぎその先には通路があります。
見張り台なのかな?そんな感じです。
進行方向の左側は武者溜りです。平地になっています。

武者溜(むしゃだまり)の跡、草が生い茂っていますが、館が一軒とか建っていてもおかしくない平地です。ここに館があり戦の時は武者達が詰めていたんでしょうね。武者溜から見張り場所、空堀のパトロール、下の方から年貢を運んで登ってくる領民とのやり取り、城主との取次等をしていたのだろうと思います。

第二ポイント〜伊勢神社

謎の平地、空堀跡、武者溜りの跡を見たあと先に進むと神社が見えてきます。

坂を登っていきます。左が武者溜まりです。
神社が見えてきます。
鳥居の柱の跡。何が書いてあるのか読めない。
伊勢神社となっています。右側には本丸への階段があります。
伊勢神社

第三ポイント〜本丸までの階段

神社右横の階段を登っていきます。
階段は緩やかで登り易いです。
本丸の前の階段

第四ポイント〜本丸跡・愛宕神社に到着

本丸の曲輪に到着。呆気ないほどに簡単に着きました。高山城の半分も距離がありません。結構広く、ここに居館が建っていたのでしょうね。本丸まで来て思ったのは、馬でもここまで登れるんじゃないか?ということです。ただし、馬は武者溜か、その前にあった平地が馬場だったとしたらそこに置いてきたのかも?しれません。

本丸跡は今は桜の木が植えてあり春には花見ができるようです。

本丸の曲輪の端は土塁になっていますが、そこから下を覗くと崖になっています。これを登るには登山道具が必要ですね。武器を持ちながら登るのは至難で、さらに上から石とか弓で射られるのかと思うと、絶望的になる崖です。これは人工で作られたものでしょうか?

あと本丸跡にはトイレがありました。ポットンでした。

パノラマで撮影しました。クリックしてみてください。桜の木が左右に植えてあります。
本丸の周囲は急な崖になっています。薮ですけど、これを登るには登山道具が必要ですね。
土塁
土塁
愛宕神社
本城跡の石碑
愛宕神社の周囲(パノラマ撮影)
桜島、谷山市街地が見えます。ドローンがあれば飛ばし、外から本丸を撮ってみたい気もします。
土塁

第五ポイント〜本丸周囲の崖

草木が生えていて分かりにくいですが、土塁の先は断崖になっています。山城版の武者返しでしょうね。戦さがあった当時、ここを武器を持って登るのは梯子があってもかなり困難・危険だったろうと思います。

土塁(右側)の左側は崖、ほぼ直角に切り立った感じです。落ちると崖の底まで転げ落ちます。底からここまで登るのはロープ等が無いと難しいです。

本丸より下山

愛宕神社の方から本丸入口を見る。桜の木が植えてあり花見が出来そうです。
本丸の入口の階段を下ります。
伊勢神社を通り過ぎ階段を下ります。
下っていきます。
下っていきます。

弓場城、 陣之尾城は次回に

谷山城入口を背にし、左側に歩くとこの道に出ます。これを左の方に行くと今は道路になっていますが元々は谷山城の空堀の跡なのだそうです。谷山城には支城として弓場城、 陣之尾城があったようです。この道の先には陣之尾城跡があるようですけど、また次回の目標とします。

谷山本城跡と陣之尾城跡の間の貯水池の近くへと通る旧道路
Google空撮地図

Google空撮地図をクリックし拡大して見てください。お分かりになるように、右側に谷山本城跡、左側に陣之尾城跡が記載されています。あと半透明の白のラインは旧道路〜谷山本城跡と陣之尾城跡の間の貯水池の近くを通る旧道路〜はもともとは当時築造された空堀と思われます。鎌倉時代当時の土木技術(チープな道具だったと思われる)で山を掘削して、こんなに長い空堀を掘ったということに驚きです。私が推測するに高架道路の下のあたりに弓場城があったんじゃないか?と思います。

番外編1〜これは空堀なのか?〜その1

以下は正規ルートじゃありません。行かれてみるにしても危険箇所に該当するかもしれません。あくまで自己責任でお願いします。

さて、帰る途中に墓地がありまして、そこから上に登る道を見つけました。それが何か?気になり私有地かもしれませんが、上に登ってみました。で、そこで見たのがどうにも空堀か何らかの山城の施設跡に見えるのです

戻り道の右側にあった墓地
墓地。坂口さま、お邪魔します。
絶対何かある筈。
びんびん予感がします。
登り終え、左を向くと、何これ!!!これ空堀跡ですよね?
パノラマ撮影しています。クリックして拡大してみてください。

おそるおそる足を踏み入れて前に進むと、大丈夫みたいです。ここでズブズブと穴とかに落ちてしまったら誰も助けにはこれません。助けを呼んでも聞こえないと思うし。次回からはこういう場所を歩く時でハイキングポール等で地面を突きながら歩こうと思いました。登山用のハイキングポールを用意します。

下の方に行き、そこから振り向き登り口を見てみました。
パノラマ撮影しています。クリックして拡大してみてください。
登り口に戻ると民家が見えます。
登り口の上の方に何があるのかな?登ってみます。
平地です。明らかに更地にしてあります。何か施設があったと思います。畑だったのか?
谷山城の見張り場所の一つだったのか?
墓を出て、再び山を見たところ。

土壌がシラスなのでコンクリートが吹き付けてありますが、その奥には異世界があるのだと分かりました。繰り返しますが、ここは正規ルートじゃありません。行かれてみるにしても危険箇所に該当するかもしれません。あくまで自己責任でお願いします。

番外編2〜これは空堀なのか?〜その2

以下は正規ルートじゃありません。行かれてみるにしても危険箇所に該当するかもしれません。あくまで自己責任でお願いします。

あと、ちょうど高架道路の左下に畑と小川がありますが、その小川の上の方に最近の治水工事をした場所がありますが、その治水工事の側溝を無視してみると、そこは空堀跡だったのではないか?と思います。もしかしたら、弓場城に行く道だったり?近年の治水工事跡はこの山城の空堀跡を利用して施工したように思えます。

この下の写真の小川の左側の方に進んだ高架道路の下にも小さな山があり、上の方に櫓の跡のようにも思えました。また、その下には石垣もあったりしました。櫓らしきものは気になりましたが登山道具が無いと登れないので見るだけにしました。でも登れるように土の階段があったように見えました。

畑と小川のある場所
何やら奥になにかありそうです。山城の施設の跡があるのでは?と予感がしました。
近年の治水工事のあとですね。
先に進むと、左右は掘削された跡のようです。これって空堀じゃないでしょうか?
近年の治水工事の側溝を無視してみてください。
奥まですすむとこんな感じです。近年の治水工事の側溝を無視してみてください。
周囲は竹藪ですけど、明らかに山肌というより掘削した跡です。
これは空堀じゃありませんか?
近年の治水工事の側溝を無視してみてください。
元に戻り、また上を振り返ると、これは空堀の跡ですよね?鎌倉南北朝の頃の土木工事の跡なんじゃないかな?と思います。

繰り返しますが、ここは正規ルートじゃありません。行かれてみるにしても危険箇所に該当するかもしれません。あくまで自己責任でお願いします。

西征将軍・懷良親王の碑

谷山城跡から車で10分以内のところに西征将軍・懷良親王の碑があります。谷山霊園の近くです。谷山氏が南北朝時代に懷良親王を迎え、ここに西征府谷山御所を建てたと言われています。

西征将軍・懷良親王の碑

谷山氏についての説明

(間違等あったらすいません)

谷山信忠は鎌倉時代以前の平安時代後期より南薩摩一帯を治めていた薩摩平氏の一族出身。加世田別府を治めた別府五郎忠明の子孫。別府五郎忠明から谷山を引き継ぎ、谷山の開発領主であった。薩摩平氏は万寿年間(1024〜1028年)に島津荘を開墾した太宰府役人の平季基とも血縁にあると言われている。

しかし、鎌倉政権が発足し島津忠久が総地頭・守護として薩摩の支配に当たり(当時は守護代の本田氏が現地入)、島津分家の山田氏が地頭として皇徳寺近くの山田を治めるようになった。
山田は元は谷山氏の所領であったため、山田氏と谷山氏は所領をめぐって訴訟で争うようになった。ただ谷山氏は鎌倉政権発足時、人手不足を補うため御家人として認められ、同じ御家人同士だったので武力で争うようなことには発展しなかった。

それも鎌倉政権が崩壊し、南北朝に突入するや、島津氏や山田氏と谷山氏は実際に武力で領地をめぐり争うようになった。谷山信忠の子孫の谷山隆信は後醍醐天皇の息子の懷良親王が鹿児島にやってきた時、南朝軍・西征将軍と迎え、臣下となり、熊本の菊池氏とも合流し北朝軍を攻め、勢いを増し、北上していくのである。

撮影・2026年2月15日 記・2月16日


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