島津荘の荘域図
島津荘の荘域図(中世初期と思われます)
島津荘の荘域図、まだ作成途中ですが、島津荘が薩隅日(薩摩・大隅・日向)にまたがる荘園であったことが分かると思います。尚、荘域図は私のオリジナルではなく、かごしま尚古集成館にパネル展示してあった地図が素晴らしかったのでスマホで撮影し、自分の研究用にイラストレーターでリメイクしたものです。
これに中世初期の地頭や郡司の名前、山城のあった場所等をどんどん加えていくつもりです。また郡や院、郷など一つ一つをピースとして分けられるようにし、ピースごとに情報を載せていければ良いかも?と思っています。


島津荘
島津荘は1024〜1028年に平季基により島津院(都城)が開墾され摂関家の藤原頼道に寄進したのが始まりと言われています。それから約150年間に薩隅日にまたがる国内最大の荘園になっていきました。
ここまで島津荘が大きくなった理由として、摂関家が積極的に島津荘開墾にトータルで関わったことが考えられます。個々の開発領主(豪族や在地勢力)だけの力ではここまでは無理ですし、豪族や在地勢力の横の連携が無くてはここまでの拡大は無理だったと思います。また、平季基が藤原頼道に寄進した頃から時代があがると次第に天皇家が摂関家から距離を置くようになります。院政が始まる頃には摂関藤原家は政治的な影響力を落とし、藤原家は政治より経済活動の方に熱心になっていったようです。島津荘が大きくなっていったのもそのことと無縁では無いと思われます。
惟宗(島津)忠久の島津荘任官
惟宗(島津)忠久が平安末期〜鎌倉初期の1185年以降に源頼朝より惣地頭、守護を命じられた領域がこの島津荘でしたので、地図を見るとスケールが如何に大きかったか分かると思います。当時の忠久は20歳そこそこの若年でした。
尚、本家の藤原家(近衛家)は最初の内は惟宗忠久が島津荘の荘官として赴任することに難色を示したとのことです(※01)
惟宗(島津)忠久は藤原家(近衛家)の家人でしたので、それは何故だろうか?とも思いますが、推測するに、他の家人で島津荘の荘官がすでにいたこと、源頼朝からの命令で赴任していくのは、家人であれ藤原家にとって都合が悪いということだったかもしれませんが、事実は分かりません。
しかし、当時は源平合戦の折、しかも京都は飢饉に見舞われ、崩壊しつつあった平家政権による年貢(全国の荘園からのお米など)の徴収も滞り、食糧難に遭遇した京の朝廷と院は困り果てておりました。そこに源頼朝が全国の地頭の任命権を源頼朝(鎌倉幕府)に認めてくれるなら、直ちに全国に地頭を任命し年貢の徴収と京都へ納付を約束する・・・という条件を出してきました。それは京の朝廷と院にとっては願ったりでしたので、京の朝廷と院は地頭の任命権を源頼朝に認め、院宣を出したのです。
となると、藤原家(近衛家)は源頼朝の意向に逆らえないというか、惟宗忠久が島津荘の荘官になることに同意せざるを得なくなったのでしょう。島津荘は平家政権下で平家の管理下に置かれておりましたが、藤原家に戻ってきたと思ったら、今度は源頼朝の御家人の管理下におかれるという・・・あまり面白く無い話だったかもしれません。
比企能員の変、その後
1203年、島津忠久は比企能員の変に連座したとして一旦は所領を没収されますが、1213年、薩摩国地頭・守護職に還補されます。しかし、大隅・日向守護職は北条氏の手に渡り、復権がなされるのは鎌倉政権が滅んだ後、南北朝以降になります。島津氏は南北朝以降、薩隅日の統一を目指し長い時代を苦労することになります。何故なら、鎌倉時代の間に多くの勢力が北条氏の配下として大隅と日向に根を張っており、それらと対決していくことになります。また鎌倉政権下で大人しくしていた平安時代からの在地勢力層〜郡司層(薩摩平氏・肝付氏など)が島津氏に反旗を翻すようになります。南北朝以降から薩摩・大隅・日向は戦乱が続くようになります。
鹿児島県史の荘域図は薩摩・大隅だけ
さて、地図ですが、鹿児島県史に載っている地図は薩摩・大隅だけですが、こちらは日向まで入っています。島津荘は日向までありました。

尚、地図は私のオリジナルではなく、尚古集成館にパネル展示してあったものをスマホで撮影・元原稿にしトレースしました。トレース作業だけは流石に大変ですので外部に仕事として委託し、そこに尚古集成館パネルを参考に地名などを入れていきました。薩摩・大隅の白い部分は名前が入ってなかったので鹿児島県史の荘域図を見て地名を入れております。
(※01)江平望:島津忠久とその周辺、P10~P21参考

記・2025年9月29日
