天国の受付で、私は何点ですか―命日と最後の審判、採点基準のわからない人生
とある話で、命日とは「命の日」であると聞きました。
死んだ日ではなく、命がもう一度はじまる日。
生が終わるのではなく、別の世界が開かれる日。
もちろん、これは言葉の正式な語源というより、かなり詩的な解釈です。
しかし私は、この解釈が少し好きです。
なぜなら、死をただの終了ではなく、
命の意味が振り返られる日として
考えられるからです。
では、その「新たな世界」とは何なのでしょうか。
もし、生きている間にどれだけ良く生きたかによって、次の世界で優遇されるのだとしたら、現世ではとにかく良く生きたいものです。
なるべく親切にし、人を傷つけず、徳を積み、できれば来世では角部屋・日当たり良好・駅徒歩五分くらいの世界に生まれたいものです。
しかし、ここで問題が出てきます。
その「良く生きた」の基準は、誰が決めるのでしょうか。
人に優しくしたら加点なのか。
嘘をついたら減点なのか。
けれど、その嘘が誰かを守るための嘘だったらどうなるのか。
正直に言って人を傷つけた場合、
正直点は入るのか、思いやり点で
落とされるのか。
ここまで来ると、人生とは道徳の試験というより、採点基準が公開されていない入試のようにも思えます。
しかも一発勝負です。
過去問もありません。
面接官も見えません。
かなり厳しいです。
そこで思い出すのが、最後の審判です。
キリスト教美術などに描かれる最後の審判では、死者がよみがえり、神によって裁かれます。
善き者は救われ、悪しき者は罰せられる。
非常にわかりやすい構図です。
ただ、現代人の私たちは、ここで少し立ち止まってしまいます。
では、善とは何か。
悪とは何か。
神が裁くとして、その神は私の事情をどこまで知っているのか。
一瞬の行為だけを見るのか。
それとも、そこに至るまでの
孤独や痛みや環境まで見てくれるのか。
もし最後の審判があるなら、私はぜひとも事情聴取の時間を長めに取ってほしいと思います。
「たしかにあの時は怒りました」
「でも、前日から寝ていませんでした」
「あと、相手にも少し原因がありました」
「もちろん反省はしています」
などと、かなり人間らしい言い訳をしたくなる気がします。
けれど、ここに哲学的な問題があります。
私たちは、誰かに裁かれることを想像するとき、実は神よりも先に、自分自身の目を恐れているのではないでしょうか。
本当に怖いのは、天使のラッパではなく、
死の直前にふと自分の人生を振り返ったとき、
「あれでよかったのか」
と自分に問われることかもしれません。
つまり、最後の審判とは、死後のイベントである前に、すでに生きている間から始まっているのです。
私たちは毎日、小さな審判の前に立っています。
誰かに優しくできたか。
弱い立場の人を見捨てなかったか。
都合のいい正義だけを振り回さなかったか。
自分の醜さをごまかさずに見たか。
大切な人を大切にしたか。
もちろん、完璧にはできません。
人間はすぐに間違えます。
嫉妬もします。
見栄も張ります。
そして時々、自分でも驚くほど器が小さいです。
しかし、だからこそ「良く生きる」とは、聖人のように生きることではないのだと思います。
良く生きるとは、
間違えないことではなく、
間違えたあとに、自分の命をどう使い直すかではないかと。
まあ、ずっと間違えない方がいいのでしょうが、、、
誰かを傷つけたなら、謝れるか。
過去を変えられないなら、今から少しでも違う態度を選べるか。
自分だけが救われる世界ではなく、せめて自分の手の届く範囲の人が、少しだけ息をしやすい世界を作れるか。
おそらく、その積み重ねが「命の日」に問われるのではないでしょうか。
命日とは、死を数える日ではなく、
その人がどう生きたかを思い出す日です。
そして同時に、残された私たちが、
自分の命の使い方を静かに見直す日でもあります。
新たな世界が本当にあるのかはわかりません。
最後の審判が本当にあるのかもわかりません。
けれど、もしあるのなら、私はこう思います。
神が見るのは、履歴書のような人生ではなく、
その人がどれだけ立派だったかでもなく、
たぶん、もっと小さなものです。
誰も見ていないところで、何を選んだか。
弱っている人に、どんな顔を向けたか。
自分の命を、自分だけのために使い切らなかったか。
そしてもし、天国の受付で「あなたは良く生きましたか」と聞かれたら、
胸を張って「はい」と言える自信は、正直まだありません。
ただ、せめてこう答えたいです。
「かなり失敗しました。
言い訳もあります。
反省もあります。
でも、なるべく良く生きようとはしました」
そのくらいの答案なら、なんとか提出できる人生でありたいです。
