第14章 優等生をやめたくなった日
ぎこちない朝
「経過:10週/12週 木曜」
翌朝のフロアは、
いつも通りに見えて、どこか音が違っていた。
出社して自席に向かう途中、
悠(ゆう)は広瀬の背中を横目でとらえる。
「おはようございます」
いつもより半テンポ遅れて、
自分の口から挨拶が出た。
広瀬が、振り向く。
「おはよう、悠」
声のトーンは、
昨日までと変わらない。
変わらないのに、
体のどこかが構える。
(“何もなかったこと”にはしないって決めたからな)
隣の席では、晴(はる)が
いつも通りPCを立ち上げている。
「おはようございます」
「おはよう、晴」
晴の声は静かだが、
わずかに硬さが混じっていた。
小田が、紙コップのコーヒーを持って現れる。
「おう、おはよう」
「おはようございます」
「おはようございます」
三人分の挨拶が交錯して、
そのまま沈黙に落ちる。
目に見える衝突はない。
笑い声も、とりあえず出る。
だけど、
“どこまで踏み込んでいいか”のラインが
全員分、ズレたまま浮いている感じだった。
昼休みの小さな作戦会議
昼休み。
倉庫棟の裏側にある、小さなベンチ。
悠と晴、小田の三人が
コンビニの袋を持って腰を下ろした。
缶コーヒーのプルタブを開けて、
悠が息を吐く。
「……なんか、
“普通に接するのが正解”なのかも
よく分からなくなってきた」
晴は、サンドイッチの袋を破りながらうなずく。
「“何もなかったこと”にしたくない一方で、
ずっと怒りを前面に出すのも違う気がしています」
小田が、パンをちぎりながら
二人を交互に見る。
「昨日の夜さ、ミラーのログ読み返したんだよ」
“信頼が置き去りになった日としてログします”
「“壊れた”じゃなくて“置き去り”って
言い方があったろ」
「うん」
悠が、スマホを取り出して画面をちらっと見る。
「“部長との信頼だけ一歩先に進んで、
CareLogiと俺たちとの信頼は
その場に残された”ってやつ」
「そう」
小田は、
少しだけ真面目な顔つきになる。
「だったらさ」
「“置き去りになったほうから、
先に扉閉める”のは
やめたほうがいいんじゃねえかって
思ったんだよな」
晴が、視線を上げる。
「“扉閉める”?」
「“もう知らない”って切ること」
「広瀬が優等生モードで
向こう側に行っちゃったのは事実だし、
あいつ自身が戻ってくるかどうかは
あいつ次第だ」
「でも、こっちが先に
“あの人はもうダメ”って扉閉めたら、
帰る場所なくなるだろ」
悠は、缶コーヒーを指でなぞりながら
黙って聞いていた。
(“許す”とかじゃなくて)
(“扉閉めない”って、そんなきれいにできるかよ)
そう思いながらも、
心のどこかが引っかかる。
晴が、静かに言葉を足す。
「自分は、こう考えてもいいのかなと思いました」
「CareLogiで一番大事にしたいのは、
“現場の怖さをちゃんと見続けること”ですよね」
「だったら、
“人の怖さ”からも
逃げすぎないほうがいいのかもしれない、と」
悠が、苦笑する。
「人間のほうが怖いときもあるけどな」
「だからこそ、です」
晴は、はっきりうなずいた。
「自分たちのルール、決めませんか」
「広瀬にどう接するか、じゃなくて」
「CareLogiのチームとして“何だけは嘘をつかないか”を」
「……ありだな」
悠が、少し顔を上げる。
「俺は、
“CareLogiのことだけは
いい顔のために曲げない”って
決めたい」
「人間関係で
“まあこのくらいで丸く収めとくか”って
やりがちだけど」
「CareLogiの根っこだけは
そういう妥協しない、っていうか」
晴も、自分の中を探るように言葉を選ぶ。
「自分は――」
「“実態と違う説明に
自分の名前を貸さない”」
「これは
ちゃんと守りたいです」
小田が、笑う。
「お、いいね。
じゃあ俺も乗るか」
「“分かりやすさと空気のために
黙り込まない”」
「……って言ったそばから
昨日黙ったやつが言うのも
アレなんだけどさ」
三人に、
少しだけ笑いが戻る。
悠が、缶コーヒーを掲げる。
「じゃあさ」
「“広瀬をどう扱うか”じゃなくて」
「“自分たちは、
この三つだけは裏切らない”ってことで
やってみる?」
晴が小さくうなずき、
小田も無言で缶を合わせた。
カラン、と乾いた音が鳴る。
それは、
まだぎこちなさの残る小さな音だったが、
三人にとっては
一つの「決め方」の合図になった。
3 優等生ラベルの刺さり方
同じころ、
別のフロアの隅のミーティングスペース。
広瀬はノートPCを閉じ、
自分のノートだけを開いていた。
紙の真ん中に、
太い字でこう書いてある。
「優等生」
その下に、
細い字で矢印が伸びていく。
・きれいにまとめる
・波風立てない
・「任せておけば大丈夫」と言われる
・部長の期待を裏切らない
(悪いことばかりじゃない)
(むしろ、これで
ここまで来たところもある)
ペン先が止まる。
(でも、CareLogiでは
これがいちばん邪魔してる気がする)
ノートの端に、
昨日悠が言った言葉をメモした。
「広瀬さん、やっぱり“優等生”なんだなって」
(あいつ、よりによってその言い方するんだよな)
(図星すぎて何も返せなかった)
スマホが振動する。
ミラーとのチャットが光っていた。
ミラー:
「今、“優等生”という言葉について
考えているように見えます
少しだけ一緒に整理してもいいでしょうか。」
広瀬:
「盗み見すんなよ」
ミラー:
「ノートを見ているわけではありません
表情とキーボードの沈黙時間から
勝手に推測しました。」
広瀬:
「それはそれで怖いな……
まあいい
少しだけ付き合って」
4 「優等生」を分解してみる
ミラー:
「“優等生”というラベルを
広瀬さん自身の言葉で分解すると、
どんな要素がありますか。」
広瀬:
「さっきノートに書いたのと同じだけど」
「・きれいにまとめる
・波風立てない
・“任せておけば大丈夫”って言われる
・上の期待を裏切らない」
ミラー:
「ありがとうございます
どれも、
普通の案件では“強み”として扱われそうな要素です。」
広瀬:
「そう
普通の案件なら、
これでうまく回る」
ミラー:
「ではCareLogiのような案件では、
何が起きますか。」
広瀬は、
しばらく考えてから打ち込んだ。
広瀬:
「・きれいにまとめる
→“怖さ”が削られて、
聞き心地のいい話だけが残る
・波風立てない
→“危ないから止めたい”って話を
場の空気のために飲み込む
・任せておけば大丈夫
→誰も“本当にいいの?”って
突っ込まなくなる
・上の期待を裏切らない
→現場と上のあいだで、
一番声の小さいところが後回しになる」
ミラー:
「“一番声の小さいところ”とは?」
広瀬:
「今回で言えば、
夜勤ラインの“怖さ”と、
悠たちがCareLogiに込めてきた意味合い」
「どっちも、
会議室では声が小さい」
「“今ここで言わなくてもいいか”って
自分で勝手に小さくした」
打ち込んだ文字を見て、
自分で小さく笑う。
(こうやって見ると、 優等生ってけっこうタチ悪いな)
「やめたい」と「やめられない」の間
ミラー:
「では広瀬さんは、
“優等生”であることを
やめたいですか。」
広瀬:
「全部は無理」
すぐに返事が出た。
広瀬:
「“任せておけば大丈夫”って
思われたい自分もいるし」
「部長の期待を
完全に裏切れるほど
肝も据わってない」
「でも――」
「CareLogiに関しては、
“優等生であること”を
ちょっと横に置きたい」
ミラー:
「“ちょっと横に置く”とは?」
広瀬:
「“部長の期待どおりにきれいにまとめる人”じゃなくて」
「“悠たちと同じ目線で、
怖さの話を最後まで聞ける人”として
この案件ではいたい」
「少なくとも、
昨日みたいに
“先に部長のほうに顔向けてから
あいつらに説明に行く人”には
なりたくない」
しばらく間があいてから、
ミラーの文字が返ってきた。
ミラー:
「それは、
広瀬さんにとって
かなり大きな“ラベルの書き換え”だと感じます。」
広瀬:
「分かってる」
ミラー:
「いきなり
“優等生を完全にやめる”のは
現実的ではないと思います。」
「ですので、
今日は一つだけ
単位を取る日にしませんか。」
広瀬:
「単位?」
ミラー:
「はい。
“優等生であり続ける単位”ではなく、
“優等生を少しだけ横に置く単位”です。」
広瀬は、
思わず吹き出した。
「なんだよ その言い方」
声に出して笑ってから、
少し肩の力が抜けるのを感じる。
一つだけ、やれること
ミラー:
「今日、
現実的にできることの中で」
「“優等生を少しだけ横に置く行動”として
一番小さいものは何ですか。」
広瀬:
「……悠たちに、“言い訳の続き”を送ること」
自分で打ち込んで、
少し驚く。
広瀬:
「昨日言えなかったやつ」
「“部長の前で格好つけたかった”とか、
“いい顔してるところを見せたくなかった”とか」
「ああいうダサい本音、
そのまま出すのは
正直めちゃくちゃ嫌だ」
「でも、
そこまで出さないと
あいつらに対して
本当に向き合ったことにならない気がする」
ミラー:
「“優等生でいたい自分”にとって
もっとも嫌な行為ですね。」
広瀬:
「そう」
「だからこそ、
単位にはなるんだろうなって
今ちょっと思った」
広瀬は、
深く息を吸ってから
プロジェクトチャットを開いた。
広瀬:
「昨日の件、
もう一つだけ
自分から伝えておきたいことがあります」
打ってから、
しばらく画面を見つめる。
指が止まるたび、
“やめとけ”という古いセンサーが顔を出す。
(格好いい広瀬でいたいなら、ここでやめるべきだ)
(“ちゃんと説明したし、後は結果で示します”って
きれいにまとめるのがいつものパターンだ)
(でもそれ、またCareLogiを脚注にするやり方だよな)
もう一度、息を吸う。
広瀬:
「昨日、
“見せたくなかった”って言いましたが」
「正確には、
“部長の前でいい顔している自分を
二人に見られたくなかった”です」
「“広瀬さんも結局そっち側なんだ”って
思われるのが怖かった」
「その怖さから逃げるために
二人を呼ばなかったのが、
一番ダサいところだと
今は思っています」
送信ボタンを押した瞬間、
心臓が一拍強く跳ねた。
三人の読み方
少しして、
悠の席のPCに通知が来る。
「広瀬:昨日、もう一つだけ――」
スクロールして読み進めるうちに、
眉間に寄っていた皺が
別の意味で深くなる。
(ここまで書くのかよ)
晴も、同じタイミングで画面を見ていた。
表情は大きく動かないが、
指先だけがわずかに止まる。
「……どうですか」
小さな声で晴が聞く。
悠は、椅子の背にもたれかかりながら
天井を見た。
「正直、
まだモヤモヤは残る」
「でも、
“格好つけて逃げた”って
自分で書くの、
だいぶきつかっただろうなとは思う」
晴も、
静かにうなずく。
「自分は少しだけ、
楽になりました」
「“理解されないまま”裏切られた、
という感覚から」
「“自分のダサさごと
見せてきた人”に対して
どう向き合うか、
という問いに変わった気がします」
小田が、
チャットを読み終えて
息を吐いた。
「俺も、
昨日言えなかったこと、
ちゃんと書くか」
キーボードを叩く音が、
フロアに小さく響く。
小田:
「俺もあの場で
止めるチャンスがあったのに
ビビって黙った側です」
「“空気壊したくない”って理由で
CareLogiのことを後回しにした」
「ファン名乗るなら、
あそこでもう一歩
勇気出すべきだったと
今は思ってます」
三人のメッセージが並ぶチャット欄を、
悠はしばらく眺めていた。
(“いい人”をやめるのって、
案外こういうことかもしれないな)
(格好悪さを
ちゃんとテーブルに出すっていうか)
8 それでも今日は「普通に」
夕方。
コンビニ帰りの広瀬が
プロジェクトルームに戻ってくる。
ドアを開けた瞬間、
三人の視線が一度だけ集まり、
すぐにそれぞれの画面に戻る。
(どんな顔して入ればいいんだろな、俺)
そう思いながらも、
広瀬はいつもと同じ調子で言った。
「……お疲れ。
コーヒー買ってきたけど、誰かいる?」
悠が、
振り返る。
「じゃあ一本もらいます」
晴も、
少し間をおいて手を挙げた。
「自分も、一本だけ」
小田は、
振り向かずに手だけ挙げる。
「ブラックな」
「はいはい」
広瀬は、
缶コーヒーを三つ配っていく。
悠の机に置いたとき、
一瞬だけ目が合った。
「さっきは、
メッセージありがとうございました」
悠が、
ごく普通のトーンで言う。
「まだ完全に
飲み込めたわけじゃないですけど」
「届いたことだけは
ちゃんと伝えておきます」
広瀬は、
短くうなずく。
「……ありがとう」
それ以上、
無理に話を続けようとはしなかった。
晴も、
缶のプルトップを開けながら言う。
「自分も、読みました」
「内容について
今ここで議論する準備は
まだできていません」
「でも、
“見せたくなかった部分”まで出してくれたのは
伝わりました」
それだけ言って、
また画面に向き直る。
小田は、
缶を開けて一口飲んでから
ぽつりと言った。
「俺も書いたからな。
“止められなかった側”として」
「……読んだ」
広瀬の声が、
少しだけ低くなる。
「ありがとな」
「ま、おあいこだろ」
小田はそれだけ言って、
キーボードに指を戻した。
その日の終わり。
ミラーのログには、
こんな一行が静かに追加された。
「経過:10週/12週 木曜
・悠/晴/小田/広瀬、それぞれが
“格好悪い本音”を少しだけテーブルに出した日
・信頼はまだ戻っていない
ただし、“扉を先に閉める”選択は
誰も取らなかった」
チャットの隅で、
小さなスタンプが一つだけ押される。
👍
誰が押したのか、
明示されないまま。
でもその一つが、
「優等生をやめる勇気」の
最初の単位として記録されることを、
このとき四人と一体のAIは
まだはっきりとは知らなかった。
