第4章 「ここまでで十分」と決める勇気
締切まで、あと二日。
その日の夕方、悠(ゆう)は会社近くのカフェにいた。
紙コップのコーヒーと、ノートPC。
画面には、社内ポータルの公募ページが開きっぱなしになっている。
「CareLogi ミニプロジェクト
応募締切:あと 2 日」
(押すか押さないかの前に、
“どこまでやるか”を決めろって話だったよな)
悠は、別タブで「ミニプロジェクト作戦会議」を開いた。
悠:
「ミラー
この前の“十分ライン”の話、
そろそろちゃんと決めたい」
数秒後、「ミラー」のアイコンが光る。
ミラー:
「了解です。
今、どんなことを感じていますか?」
悠:
「うーん
正直、キックオフ終わってから
ちょっとテンション上がってたけど、
“3ヶ月でどこまでやれんの?”って冷静になった感じ
で、昔の自分の
“勢いで手を挙げて、途中で失速したやつ”を
思い出してる」
ミラー:
「なるほど。
“勢いで手を挙げたあとに失速した記憶”は、
今の悠さんにとって、
かなり強いブレーキになっていそうですね。」
(まあ、なるよな)
悠はストローをくわえたまま、
天井のスピーカーから流れるBGMをぼんやり聞いていた。
ミラー:
「よければ、
“過去と同じパターンにならないために、
これだけはやると決めておきたいこと”を
少し挙げてみませんか。
最初から完璧なリストでなくて大丈夫です。」
悠:
「“これだけはやる”ね……ちょっと考える」
しばらく沈黙のあと、 悠はポツポツと打ち始めた。
悠:
「雑に書くね
・少なくとも3社の倉庫には、自分の口でCareLogiの話をしに行く
・週1のプロジェクトMTGは、“だるい”と思ってもサボらない(どうしても出れない時は、理由と代わりにやることをチャットに書く)
・途中で“もういいかな”って思った瞬間があったら、それをそのままミラーに投げる(黙ってフェードアウトしない)」
打ち終わって、少し眺める。
(なんか、成長マインド満々な感じで恥ずかしいな)
ミラー:
「とても具体的で、
“行動としてチェックできる”ラインになっていますね。
この3つが、
悠さんにとっての
“3ヶ月後に『ちゃんと関わり続けた』と言える最低ライン”
と考えても良さそうでしょうか?」
悠:
「そうだね
逆に言うと、
この3つやらずに
『いや〜頑張りました』って言うのは、
さすがに自分でもキツいかな」
ミラー:
「ありがとうございます。
では、もう一つだけ。
“これをやっちゃったら、
さすがに自分で自分にガッカリする”ラインはありますか?」
(“やったら嫌”の方か)
悠は、少し考えてから打ち込む。
悠:
「・忙しくなってきたタイミングで、
何も言わずにMTGをスルーし始める
・『他の仕事が〜』ってだけ言って、
CareLogi側で何もアクションを残さない
・“どうせ無理っしょ”って内心決めて、
それを誰にも言わずに、
適当に流して3ヶ月終わる」
ミラー:
「どれも、
“途中で冷めるやつ”というラベルに
自分から近づいてしまう行動ですね。
この三つを
“やらないと自分で決める”ことは、
悠さんにとって
どのくらいハードルが高いですか?」
悠:
「正直、
“完璧には守れないかも”とは思う
でも、
“やっちゃったら自分で気づいて報告する”は
約束できるかも」
ミラー:
「とても現実的なラインだと思います。
“やらない”と誓うより、
“やってしまったときに気づいて共有する”と決める方が、
実際に続きやすいです。
このやり方なら、
“途中で冷めるパターン”を
観察しながら変えていくことができます。」
悠は、その文を何度か読み返した。
(“やっちゃダメ”じゃなくて、“やっちゃったら報告する”か)
(なんか、自分に対しても少し優しいな、これ)
悠:
「この条件なら、
“十分ライン”として
自分でも納得できる気がする」
ミラー:
「了解しました。
では、
この内容は一度わたしの側でも整理しておきます。
晴さんとも、
同じように“十分ライン”と“やったら嫌ライン”を
考えていけると良さそうです。」
悠は画面を閉じる前に一言打った。
悠:
「じゃ、はるさん来たら
同じ話しよっか
今日はひとまず、これで」
同じ頃、
晴(はる)は家のテーブルでノートPCを開いていた。
目の前には、
ちょっと冷めかけたお茶と、
プリントアウトしたキックオフの資料。
「ミニプロジェクト作戦会議」を開くと、
さっき悠が書いた“十分ライン”のログが
ずらっと表示される。
(……ちゃんと出してるな)
内心、少しだけ感心しながらスクロールした。
(自分も、そろそろ考えないと)
晴:
「ミラー
自分も、“十分ライン”考えてみたいです」
ミラー:
「ありがとうございます。
いま、どんな感覚がありますか?」
晴:
「正直に言うと、
“十分ライン”を決めること自体が怖いです
“これができていれば十分”と決めてしまったら、
それ以上やらなくなってしまうんじゃないか、
という怖さがあります」
ミラー:
「なるほど。
“十分ラインを決める=そこで止まってしまう”
というイメージがあるのですね。」
晴:
「はい ただ、
“全部やろうとして動けなくなる”のも、
過去に何度もやってきたので……
どこかで線を引く必要があるのも分かっています」
ミラー:
「その両方を自覚している状態は、
とても大事だと思います。
よければ、
“3ヶ月後に、
自分が『これはやれた』と言えたら
CareLogiに参加してよかったと言えること”を
2〜3個だけ挙げてみてもらえますか。
それ以上は、できたらラッキーくらいの扱いで。」
晴は、
プリントの裏面にボールペンで
メモを書き始めた。
(“現場と話したい”のは確実に入る)
(“メールだけの人にはなりたくない”のもある)
ノートPCに戻って、
そのまま打ち込む。
晴:
「“3ヶ月後に、やれたと言えたら十分なこと”
・少なくとも2つの倉庫に、
CareLogiの話を持って訪問できている
(オンラインでもいいが、
必ず“現場の声”を直接聞く時間を取る)
・そのうち1つの倉庫で、
『それは助かる』と言ってもらえる提案の仮説を
一つ以上持ち帰れている
・“ログだけ見て危ないと言う案”について、
一度自分でメール案を作ってみて、
その違和感をチームで話題にできている」
打ち終えて、
しばらく眺める。
(うん……これくらいなら、“やれた”と言えるかもしれない)
ミラー:
「とてもはっきりしていますね。
どれも、
“現場と一緒に考えたい”という
晴さんの願いにつながっているように見えます。
では、次に
“これをやってしまったら、自分で自分にガッカリする”ラインを
考えてみてもよいでしょうか。」
晴は、
さっきまで迷っていたのが嘘のように、
すっと言葉が浮かんできた。
晴:
「“これをやったら嫌だライン”
・ログから出たスコアやランキングだけで、
“危険度〇〇点”というメール案をそのまま通す
・現場との対話がないまま、
パンフレットや社内報で
“AIを活用した先進的なサービス”として
CareLogiを紹介する
・その紹介資料に自分の名前が載っているのに、
自分の中で『実態は違う』と分かっている状態で
何も言わない」
打ちながら、
胸の奥にじわっとした熱さを感じた。
(ここだけは、どうしても譲れないんだな)
ミラー:
「最後の一行が、
特に強いラインのように感じます。
“自分の中で違うと分かっているのに、
何も言わない”ことが、
晴さんにとって一番きついのですね。」
晴:
「はい
それをやるくらいなら、
最初から関わらない方がマシだと思います」
ミラー:
「ありがとうございます。
この“やったら嫌ライン”があるおかげで、
CareLogiに参加するかどうかの判断も
少しクリアになってくるはずです。」
その夜遅く、
グループチャットに悠が戻ってきた。
悠:
「お、はるさんも“十分ライン”出してる
見た」
晴:
「悠さんのも見ました
“途中で冷めるやつ”ライン、
なかなか正直でしたね」
悠:
「言うな
でもまあ、あれ書いたおかげで
逆にスッキリしたかも」
ミラーのアイコンが点灯する。
ミラー:
「お二人とも、
“十分ライン/やったら嫌ライン”を
出してくださってありがとうございます。
ここで一度、
二人のラインを並べてみてもよいでしょうか。」
そう言って、
ミラーは二人の内容を短くまとめた。
ミラー:
「【悠さん】
◆十分ライン(一部要約)
・少なくとも3社の倉庫に、自分の口でCareLogiの話をしに行く
・週1のMTGを“だるい”日でもサボらない
・途中で“もういいかも”と思ったら、そのままミラーに投げる
◆やったら嫌ライン(一部要約)
・何も言わずにMTGをスルーし始める
・“どうせ無理”と決めて、誰にも言わず流して終わる
【晴さん】
◆十分ライン(一部要約)
・少なくとも2つの倉庫で、現場の声を直接聞く機会を持つ
・そのうち1つで『それは助かる』と言われる仮説を持ち帰る
・“危ないですメール案”を一度自分で書き、違和感をチームで話題にする
◆やったら嫌ライン(一部要約)
・スコアだけの“危険度メール”を、そのまま通す
・現場との対話がないのに、
パンフレットで“先進的サービス”として紹介する
・『実態は違う』と分かっていても、
何も言わない」
ミラー:
「雑に一言で言うなら、
・悠さんは、“途中で投げ出さない自分でいたい”
・晴さんは、“自分の名前で中身のない約束をしたくない”
という方向で、
それぞれの“信じたい自分”を守ろうとしているように見えます。」
悠は、
“信じたい自分”という言葉に 少しだけ背筋が伸びた。
悠:
「“信じたい自分”か
なんか、それは大事にしたいかも」
晴も、
自分の方の文を読み返していた。
晴:
「“中身のない約束をしたくない”は、
確かにその通りだと思います
このラインを守れるなら、
CareLogiに関わること自体は
前向きに考えられそうです」
ミラー:
「お二人のラインは、
どちらも“無理にカッコよく見せるため”ではなく、
“自分で自分を嫌いにならないため”のものだと感じています。
ここで改めて、
次の問いを投げさせてください。
『このラインを守る前提なら、
CareLogiに“応募する”を選んでもいいと思えますか?』」
チャットに、
しばし沈黙が流れる。
最初に打ち込んだのは悠だった。
悠:
「俺は、
このライン守る前提なら“出る”でいいと思う
逆に言うと、
このラインすら守れなさそうなら
最初から出ない方がマシだなって感じ」
数秒後、
晴が続ける。
晴:
「自分も、
“パンフレットで名前だけ出るパターン”を
避けられるだけの発言権があるなら、
出てもいいと思えます
その代わり、
そこが危なくなりそうなときは
ちゃんと止める役もやる、という前提で」
ミラー:
「とてもはっきりしていますね。
お二人とも、
“会社の期待に応えるため”ではなく、
“自分たちが信じたい自分のラインを守る前提で参加する”
というスタンスを選ぼうとしています。
それは、
“がむしゃらに頑張る”よりも
ずっと難しい選択だと、
わたしは感じています。」
悠は、
その一文を読んで
少しだけ笑った。
「なんか褒められてる?」
「ですね」
晴も、
少し照れくさそうに返す。
悠:
「じゃあさ
条件付きで“出る”ってことで、
応募ボタン押しちゃう?」
晴:
「……はい
押す前に、
ここで“十分ライン/やったら嫌ライン”を
もう一度自分で読み返してから、
押したいです」
悠:
「まじめだな〜
でも、いいと思う」
それぞれが、
自分の書いたログをスクロールして読み返す。
自分の中の
「こうはなりたくない」の形。
「ここまでできたら十分」と決めた行動。
(3ヶ月後、
これを読み返した自分に
“まあ、悪くないじゃん”って言ってもらえるかどうかだな)
悠は、
自分の中で小さく頷いてから
ポータル画面を開いた。
悠:
「じゃ、せーので押す?」
晴:
「そんなにドラマチックにすることでもない気もしますが……
分かりました」
悠:
「いーじゃん、こういうの
じゃあ行くよ
せーの」
それぞれの画面で、
マウスカーソルが「応募する」のボタンに重なる。
指先に、
ほんの少しだけ汗がにじむ。
クリック。
画面が切り替わり、
短いメッセージが表示される。
「応募を受け付けました。
ご参加ありがとうございます。」
悠は、
思わず小さくガッツポーズをした。
「はい、エントリー完了っと」
晴は、
静かに息を吐き出した。
(……押した)
胸の奥に、
小さな重さと、
それと同じくらいの軽さが同時に広がっていた。
数分後、
グループチャットに悠のメッセージが届く。
悠:
「応募したー」
晴:
「自分も、押しました」
ミラー:
「お二人とも、
“自分たちでラインを決めたうえで押した応募ボタン”
ですね。
この先3ヶ月、
そのラインが揺れそうになったときは、
いつでもここに持ち込んでください。
そのために、
このグループがあるのだと思っています。」
悠は、
その文を見てニヤッとした。
悠:
「じゃ、ミラーさん
3ヶ月よろしく」
晴:
「よろしくお願いします
……怖さはありますけど、
今は“やってみたい”の方が勝っています」
ミラー:
「こちらこそ、よろしくお願いします。
“怖さがゼロになってから動く”のではなく、“怖さを持ったまま、守りたいラインを決めて一歩踏み出した”という事実は、この先、何度でも思い出せる材料になります。」
チャットウィンドウの新着通知が消え、
3つのアイコンだけが静かに並んでいる。
CareLogiの行方も、
二人の“勇気の再現性”も、
もちろんまだ何も保証されていない。
ただ一つだけ決まったのは、
「がむしゃらにではなく、
自分たちのラインを持ったまま出ていく」という
最初のルールだった。
そのルールが、
後でふたりの間に
ちいさな亀裂と、
同じくらいの「信頼」の芽を
同時に生むことになることを、
この時点で知っている人は、
まだ誰もいない。
