【短編小説】夢に残った男
佐伯は、ごく普通の会社員だった。
朝六時四十分に起き、満員電車に揺られ、九時から十八時まで働く。
実際には十八時に帰れたことなどほとんどなく、家に着くころには、今日が何曜日だったのかさえ曖昧になっていた。
ある夜、佐伯は動画で「明晰夢の見方」を知った。
夢の中で、自分が夢を見ていると気づく方法だという。
寝る前に何度も唱える。
――これは夢だ。気づけば自由になれる。
三日目の夜、成功した。
佐伯は駅のホームに立っていた。いつもの満員電車が入ってきたが、乗客は全員、魚の顔をしていた。
「これは夢だ」
そう口にした瞬間、世界が静止した。
佐伯が指を鳴らすと、電車は消え、代わりに南国の海が現れた。
会社のビルをケーキに変え、部長を小さなペンギンに変えた。
空も飛べた。
札束を降らせることもできた。
目覚めた佐伯は、久しぶりに心から笑った。
それから毎晩、彼は明晰夢を楽しんだ。
現実では上司に頭を下げ、夢では王になった。
現実ではコンビニ弁当を食べ、夢では宮殿で宴を開いた。
眠ることだけが、生きがいになった。
ある夜、佐伯はいつものように夢の中で空を飛んでいた。
そろそろ朝だと思い、目を閉じた。
「起きろ」
目を開けると、自宅のベッドにいた。
時計は六時四十分。
佐伯は安心して体を起こした。
しかし、窓の外を見ると、空に巨大なクジラが泳いでいた。
「まだ夢か」
彼はもう一度、強く念じた。
「起きろ!」
再びベッドの上。
時計は六時四十分。
今度は部屋の壁がゆっくり呼吸していた。
佐伯は頬をつねった。痛みはあった。
水をかぶった。冷たかった。
ベランダから飛び降りた。
地面に激突した瞬間、またベッドに戻った。
時計は六時四十分。
何度繰り返しても同じだった。
「起こしてくれ!」
佐伯が叫ぶと、部屋の中央に小さな受付カウンターが現れた。
制服姿の女が座っている。
「お待たせいたしました。夢睡眠サポートセンターです」
「夢から出られないんだ!」
女は端末を操作した。
「確認いたします。お名前は佐伯健一様ですね」
「そうだ。早く起こしてくれ」
「佐伯様は、すでに起床されています」
「何を言ってる?」
女が壁を指さすと、そこに映像が映った。
佐伯が洗面所で顔を洗っている。
スーツを着て、朝食を食べ、家を出る。
満員電車に乗り、会社へ向かっていた。
「誰だ、あれは」
「佐伯様です」
「じゃあ、俺は誰なんだ」
女は事務的な笑顔を浮かべた。
「当サービスでは、睡眠中に蓄積された不満、怒り、疲労、逃避願望などを、夢の中の人格へ分離しております」
佐伯は言葉を失った。
「分離……?」
「はい。不要な精神的負荷を夢側に残すことで、現実側のお客様は毎朝、快適に目覚めることができます」
映像の中の佐伯は、満員電車の中で穏やかに微笑んでいた。
昨日まであれほど嫌っていた会社へ、軽い足取りで向かっている。
「待て。俺が本物だ。あいつは偽物だ!」
「皆様、そうおっしゃいます」
女は慣れた様子で頭を下げた。
「それでは、本日分の処理を開始いたします」
受付カウンターが消えた。
代わりに、佐伯の目の前に会社のデスクが現れた。
時計は九時を指している。
背後から、部長の声がした。
「佐伯君、昨日頼んだ資料、まだできてないのかね」
佐伯は逃げようとした。
だが、足は椅子に固定されていた。
机の上には、山のような書類が積まれている。
その一番上に、小さな紙が貼られていた。
快適な目覚めのため、ご協力ありがとうございます。
現実の佐伯はその朝、同僚にこう言った。
「最近、仕事が楽しくて仕方ないんだ」
