卒業アルバムに「社長」と書いた私が、セミファイヤーを目指す理由
## 小学校の卒業アルバムに「社長」と書いた
将来の夢を書く欄に「社長」と書いた小学生がいた。それが私だ。
笑い話のように聞こえるかもしれないけれど、当時の私は本気だった。
祖父が経営する会社を、子供の頃からずっと近くで見てきた。従業員から慕われて、地域の人から感謝されて、腰が低くて、でも存在感がある。お客さんが絶えず、祖父の周りにはいつも人が溢れていた。「大人ってこういうものだ」と思っていたし、「私もあんな大人になりたい」と純粋に憧れていた。
その祖父は、貧しい家庭で育った。3歳で母親を亡くし、継母からは冷たく扱われた。「ここで居場所を作らないと」と感じた幼い祖父は、人の顔色を読むことを覚え、人のことを常に気にかけるようになった。その気質が、後に圧倒的な営業力と人望につながった。地元で小さな会社を起こし、コツコツと積み上げ、株式会社にまで育て上げた。
そんな祖父の背中を見て育った私は、自然と「働いて、人を助けて、感謝される大人になりたい」と思うようになった。
-----
## 女の子らしくなかった私
昔から、いわゆる「女の子らしさ」とは少し違う子供だった。
地域のクラブチームでは、女子はポートボール、男子はソフトボールと分かれていた。でも私はソフトボールがやりたくて、教育委員会に直接お願いして、男子に混ざってプレーするようになった。今思えば、小学生にしてはなかなかの行動力だと思う。
周りに流されず、自分がやりたいことに向かって動く。そういう性格だったから、祖父の「自分で切り開いていく」生き方に余計に憧れたのかもしれない。働いて、人を助けて、慕われて、感謝される。そんな生き方がかっこいいと思っていた。
中学生になってからも、その気持ちは変わらなかった。部活帰りに自転車で友達とぶつかって足を骨折し、1ヶ月入院したことがある。好き嫌いが多くて病院のご飯が食べられない私のために、祖父と祖母は仕事終わりに毎日ご飯を作って届けに来てくれた。1ヶ月間、一日も欠かさず。
当時は当たり前のように受け取っていたけれど、今の私にはその重さがよくわかる。それだけの愛情をもらって育ってきた。
-----
## 高校受験の失敗と、祖父の言葉
高校受験の時、祖父は「会社を継いでほしい」と商業系の高校を勧めてくれた。
でも当時の私はだらけていた。学校でも後ろを向いて友達と話してばかり。内申点も悪く、勉強もろくにしなかった。当然のように受験に失敗した。
祖父は一言も責めなかった。それどころか「わしの考えを押し付けて申し訳なかったな」と言ってくれた。
当時の私は「怒られないんだ」と思っただけだった。でも今になって思う。あれは自分で気づかせるための、深い愛情だったんだと。
その後、大学では心理学を学んだ。地元で一番学費が高い私立大学だったけれど、祖父母も両親も一切の文句を言わず学費を出してくれた。今でも感謝している。
-----
## 実際に会社を手伝ってわかったこと
大人になって、祖父の会社を手伝うようになった。
最初は「ついに会社に関われる」という気持ちもあった。でも実際に中に入ってみると、子供の頃に見えていた景色とは全然違う現実が待っていた。
同族経営の難しさ。家族だからこそ言えないこと、言ってはいけないことがある。経営判断と家族関係が常に絡み合う。従業員との関係も、家族経営特有の複雑さがある。時代が変わり、昔は「家族のようだった」従業員との関係も、少しずつ変化していった。
事業承継の問題も見えてきた。祖父が一代で築いてきたものの大きさを知るほど、それを次の世代に渡すことの難しさも感じるようになった。お金だけでは引き継げないものがある。人脈、信頼、企業文化。それらをどう残すか、どう伝えるか。経営者の悩みは尽きない。
「社長になりたい」という憧れが、「社長の責任を負いたくない」という気持ちに、少しずつ変わっていった。
祖父が72歳で認知症になり、15年近くが経った今、改めてその生き方を近くで見てきて思うことがある。一代で会社を築いて、たくさんの人を養って、地域に貢献した。でも自分が本当に自由に生きられた時間は、思っていたより短かったのかもしれない。60代に祖母と旅行に行った記憶はある。でも「稼いだお金で自由に余生を楽しむ」時間は、あったのだろうか。
その祖父の姿を見てきたからこそ、今の私は思う。お金を稼ぐことより、今この時間をどう生きるかの方が大事だ、と。
-----
## 子供が入院するたびに、仕事を休んだ
転機になったのは、子供たちのことだった。
我が家の子供たちは体が弱く、入院することが珍しくない。長女は生まれた頃から体質的に問題を抱え、発熱のたびにケトン性嘔吐症を起こして入院を繰り返した。長男は学校の心電図検診で引っかかり、卵円孔開存が見つかった。3人それぞれに、心配ごとがある。
雇われて働いていた頃、週に一度しか出勤できない時期があった。職場に迷惑をかけながら、でも子供のそばを離れることもできない。その板挟みが、本当につらかった。どれだけ職場に謝っても、子供の体調は待ってくれない。
「時間とお金、どちらかが欠けてもダメだ」と痛感した。
お金があっても時間がなければ子供と向き合えない。時間があってもお金がなければ子供に経験をさせてあげられない。習い事、医療費、教育費。子育てにはお金がかかる。でもそれ以上に、親が「そこにいる」という時間が必要だと思った。
この経験が、個人事業主になるきっかけになった。自分でスケジュールをコントロールできる働き方をしたかった。子供が熱を出した時に、誰にも遠慮せず病院に連れて行ける状態でいたかった。
-----
## 物販をやってみてわかった「向き不向き」
個人事業主として、トレーディングカードの物販を始めた。
最初はうまくいくこともあった。好きなジャンルだったし、相場感も養われていった。でも続けるうちに、自分には向いていない部分が見えてきた。カードという繊細な商材の保管・管理の難しさ、梱包・発送の手間、評価や鑑定をめぐるトラブルの多さ。体力的にも精神的にも、じわじわと消耗していった。
「好き」と「向いている」は違う。それを実感した。
そのタイミングで、株式投資の利益が物販を上回るようになってきた。チャートを読む、決算を分析する、板を見て判断する。そういった作業が、苦にならない自分がいた。
「自分の強みはこっちかもしれない」と気づいた瞬間だった。
今でも物販を完全にやめたわけではないけれど、メインは株式投資に移行している。人それぞれに向いている稼ぎ方がある。それを早く見つけられた人が、結果的に豊かになれるんだと思う。
-----
## セミファイヤーを目指す三つの理由
今、私がセミファイヤーを目指しているのは、三つの経験から来ている。
**一つ目は、祖父の会社を近くで見てきたこと。**
経営者の責任の重さを知って、「社長になりたい」という夢が「自由に生きたい」という願いに変わった。大きな組織を動かすことより、自分と家族の時間を守ることの方が大切だと気づいた。
**二つ目は、子供たちの入院を繰り返してきたこと。**
時間とお金、両方の余裕がないと、子育ては成り立たない。どちらかを犠牲にする働き方はもうしたくない。子供が「お母さんに来てほしい」と言った時に、すぐに行ける状態でいたい。
**三つ目は、物販をやってみて自分の向き不向きがわかったこと。**
苦手なことを続けるより、得意なことで稼ぐ方が、自分にとっても家族にとっても良い選択だと気づいた。株式投資という、自分に合った稼ぎ方を見つけられたことが、セミファイヤーを現実的な選択肢にしてくれた。
-----
## 卒業アルバムの「社長」という夢は、間違っていなかった
今振り返ると、「社長になりたい」という夢は間違っていなかったと思っている。
ただ、形が変わった。
人の上に立って大きな組織を動かすことへの憧れは、「自分と家族の生活を自分でコントロールする」という形に変わった。誰かに雇われるのでもなく、大勢の従業員を抱えるのでもなく、自分の判断で自由に動ける状態を作ること。
それが今の私にとってのセミファイヤーの意味だ。
9歳・7歳・5歳の子供たちと過ごせる今の時間は、どんなお金でも買い戻せない。祖父が72歳で認知症になって、自由に過ごせる時間が思ったより短かったことを、私はずっと近くで見てきた。だから思う。今この瞬間を、後悔しない生き方をしたい。
まだ道の途中だけれど、少しずつ、その形に近づいている。
