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極東ストリーム(改)🏍

偽物の空の下で、少年たちはスクラップを拾い、バイクを直し、懸命に生きてきた。
巨大企業が支配する階層都市、極東新区。
その最下層の工場で暮らすはみ出し者らが集うイレブンズは、ある日、仲間が持ち帰った奇妙な事件をきっかけに、都市の深部へと足を踏み入れていく。
失われた星空を夢見る者、数列だけを信じる者、走り続ける者。
彼らが見上げた天蓋の向こうには、まだ誰も知らない夜空が広がっている。
ライダーたちは、本物の星を探していた。



第一章:赤時間のジャンクヤード

赤時間になると、レイブンズの住人は少しだけ黙る。

本物の夕焼けではない。
いくつかの巨大な排熱口が吐き出す、偽物の夕暮れだ。
頭上の高架橋の隙間から差し込む赤い光が、錆と廃材と油の匂いが染み込んだ底辺の街を、一瞬だけ違う場所に見せる。
それでも、この街では夕暮れになった。

「ちょっとハルキ! またその汚いブーツで作業台に上がったわね!」

メイの尖った声が、湿った工場の空気を切り裂く。
エンジンオイルで黄ばんだツナギの裾を翻し、父親譲りの大きなスパナを振り回しながら、愛機「ケルベロス」の調整に没頭するハルキの背中を叩いた。
ヒット・アンド・アウェイ。
小気味よい硬質な音が工場に響く。

「痛ぇな……。調整中なんだよ。コンマ一秒を削るには、フレーム全体の重力バランスが——」

「屁理屈言わないの! その前にあんたの『衛生バランス』をどうにかしなさいよ。服だってオイルでガビガビじゃない。そんな汚い体で精密機械を触るんじゃないわよ!」

奥からシズエが現れた。
一歩踏み出すたび、床の鉄板がきしむ。
右腕の旧式義手は油圧音を鳴らしながら動き、作業着の肩口からは装甲板の縁が覗いている。
若い頃に何をやっていたのか、誰も知らない。本人が語らないからだ。

「メイ、無駄だよ。こいつらはね、ガソリンを血の代わりに流して走ってる連中なんだから」

シズエが合成タバコに火をつけ、紫煙を吐いた。

「馴染んだ道具を捨てる奴に、まともな仕事はできない」

それが彼女の口癖だった。

渋々ブーツを脱いで床に降りたハルキの目の前に「ケルベロス」がどっしりと鎮座している。
チタン合金と炭素繊維の複合フレーム。正規ルートでは手に入らない軍用グレードのツイン・モーター。フロントフォークに内蔵された電磁アンカー射出機構。この三年、寝る間も惜しんで手を入れ続けた、まさしく生きた改造物だ。

頭上の廃配管から、影がするりと降りてきた。
カイトは壁の有線端子から光ファイバーケーブルを首筋に直接つないだまま、上半身だけこちらへ向けていた。
五メートルのケーブルが、今の彼の行動半径だ。

「シズエ。工場外周の監視ログに異常がある。電磁干渉の痕跡、発生源は北東——第五セクターの方角。頻度が増している」

「わかった。明日、確認しておくよ」

カイトは静かに端子を引き抜いた。
ジュッ、という電子音が、湿った空気に弾けて消えた。

シズエは一瞬だけ表情を固くし、それからすぐに紫煙を長く吐いた。

「アツシのやつ、最近見ないね」

「あいつは……たぶん『外』を探してるんだよ。俺たちの頭上を塞いでるホログラムの蓋の、向こう側をな」

 タオルで顔を拭いながら、ハルキが言った。

「外、ねぇ……」

シズエはフッと鼻で笑った。

「あんたたち、この街が何でできてるか知ってるのかい。消えちまった奴らの記憶の成れの果てと、行き先を失った軍用ナノマシンの残骸でできてるのさ。あんたらが憧れる『ストリーム』なんてカッコいいもんじゃない。止まることのできない、ばかデカい腐食の連鎖だよ。アツシが探してる星なんて、ただの幻だね」

夕食は、合成タンパクの煮込みだった。味は絶望的だ。
それでもメイが、ドラム缶の底から集めた怪しい香辛料と、廃油から精製した化学調味料を隠し味に使うことで、なんとか喉を通るものに仕立て上げていた。
傷だらけの作業台を囲み、彼らは黙々と煮込みを啜る。

「なあ、カイト。お前、マジで腹減らないのか?」

「食品を摂取してもシステム上、問題はない。ただしバッテリー充電のほうが効率的だ」

「じゃあ食うな。俺がもらう」

ハルキが箸を伸ばした瞬間、メイのスパナが手の甲に叩き落とされた。

「痛っ!」

「カイトが食べないなら私がもらうわよ!」

「お前、さっき二杯目を綺麗に平らげただろ!」

「いいじゃん! 育ち盛りなの!」

「十九を過ぎて育ち盛りとか言うな、この大食い女!」

「アツシ、今日も来ないのかな……」

メイがぽつりと呟いた。
鍋の向こう側、工場の入り口の影。
アツシの愛機「アシュラ」がいつも停まっているはずのスペースは、今日も冷たい鉄板が剥き出しのまま、暗い空白を残していた。

「あいつは来るよ」

ハルキは椀を置いて断言した。
論理的な根拠は何もない。ただの野生的なカンだ。

「腹が減ったら、あいつは必ず戻ってくる。飯の時間にだけは妙に律儀なヤツだからな」

それから程なくして、工場の外の闇から、不穏なエンジン音が響いてきた。

アシュラだ。
だが、音がいつもと違う。
回転数が不規則に上下して軋む、獣が喘いでいるような異様な重低音。

バイクから降りて錆びたシャッターをくぐってきたアツシを見た瞬間、ハルキは椀を置いた。

「アツシ!〜おまえ……」

左腕が震えている。
顔色は土色がかっているのに青白い。
それよりも、歩くたびにジャケットの袖口から、炭が砕けたような黒い微細な粉末がパラパラと床に落ちていく。

「……なんでもない。ちょっと第三環状線の回線ノイズに当てられただけだ。大したことねぇよ」

「けど、その腕は……」

「なぁメイ、今日の飯は何だ? 腹が減って、しにそうなんだよ」

快活な言葉。無理に作ったような笑顔。

メイが何も言わず椀を差し出した。
シズエは新しいタバコを取り出した。
アツシの袖口から落ちた黒い粉を、カイトは無言のまま見つめていた。

ハルキも同じものを見ていた。
床に落ちた黒い粉が、まるで意思を持つ磁石のように、鉄板の赤錆に向かって這い寄り、ゆっくりと一体化しながらも、かすかに「ドクン、ドクン」と脈動していた。

「……ハルキ、カイト。見てろよ」

椀を受け取りながら、アツシはいつものように笑った。

「俺は、この街の『システム』そのものになって、お前らをこの底辺から連れ出してやる。ガチで星が見える場所へな」

ハルキは、アツシの目を真っ直ぐに見つめた。
いつもの目だった。果てしなく遠い未来を見つめているような、どこか狂気を孕んだ目。最下層をぐるぐると回る環状線のその先に、誰も見たことのない何かを探している目。

今夜が彼らにとって平穏な、最後の晩餐になるとは、誰も、思いもしなかった。



第二章:たこ焼きスクラップ・ブルース


アツシが不穏な黒い粉を落として戻った、あの夜から二日後。

相変わらず偽物の青空を映し出す頭上のホログラム広告のせいで、レイブンズのジャンクヤードは、妙にケバケバしい紫色の光に包まれていた。

何事もなかったかのように動き出した日常の中で、錆びついたシャッターを蹴破る勢いで飛び込んできたのは、アツシだった。

「おい! お前ら! ナニワ・セクターの密輸ギルドから極上のシロモノを仕入れてきたぞ!」

一昨晩のあの土気色の顔や、不気味な黒い粉の脈動が嘘だったかのように、彼はいつものバカでかい声を響かせている。
その両手には、油染みのついた茶色いクラフト紙の袋が大事そうに抱えられていた。

「なんだよアツシ、うるせえな!今、ケルベロスの電磁アンカーの同調率をコンマ2ミリ秒単位で追い込んでるとこなんだよ」

作業台の下から這い出したハルキは、顔中についた黒グリスを袖で拭いながら悪態をついた。

「へっ、そんな細かい数字はカイトの電脳にでも任せておけ! ホラ見ろ!」

アツシがドン、と作業台に袋を置くと、中から強烈な匂いが立ち込めた。
焦げたソースの酸っぱい香り、安物の青のりの磯臭さ、そして、出所不明の合成油脂が熱で焼けたような、暴力的とも言える芳香。

「……たこ焼き?」

メイがスパナを片手に、犬のように鼻をピクピクさせながら近づいてきた。
ツナギの胸元を大胆に開け、首筋に巻き付けた汗拭き用のタオルで顔を拭いながら、袋の中を覗き込む。

「ただのたこ焼きじゃねえぞ!ナニワの第三スラムから流れてきた、本物のタコの遺伝子コードを3%だけ混ぜ込んだ、高級レプリカ肉仕様だ! 屋台の親父がな、今日は治安維持軍の臨検がないから大盤振る舞いだって言ってたぜ。冷めないうちに食え!」

「タコって、あの足が八本ある軟体動物の、神経系が全身に分散しているデビルフィッシュのことか?」

カイトの声が頭上から降ってきた。
彼はいつもの廃配管の上で、首筋から壁の有線端子へ五メートルのファイバーケーブルを繋いだまま、ぶら下がった足を微かに揺らした。

「生物学的データによれば、あれを人間が咀嚼する際の摩擦係数は非常に高く、エネルギー変換効率は極めて悪いとされている」

「うるせえインテリ義体! 効率で飯が食えるか! ほら、メイもハルキも箸を持て!」

アツシが袋を引き裂くと、中から出てきたのは、互いの熱量でドロドロに融け合って、ひとつの有機的な塊と化した、30個の茶色い物体だった。
上にかかったマヨネーズ風の化学調味料は、蛍光ピンクに近い色で怪しく光っている。

「ちょっとアツシ……これ、本当に大丈夫なの? しらたまみたいになってんじゃん……このピンクのソース、裏の工場の冷却液の結晶に似てんだけど」

メイが怪訝そうな顔で、その辺に落ちていた極細のインジェクション・ピンを爪楊枝の代わりに、そのうちの一個を突き刺した。

「気にするな! しらたまたこ焼きでも、腹に入りゃ全部おんなじ合成タンパクだ!」

そう言いながら、アツシが豪快にたこ焼きを口に放り込んだ。
次の瞬間、彼の目は限界まで見開かれ、口から白い水蒸気を噴き出した。

「あづっ! ほふっ、ほふっ! 」

「もー!なにやってんのよー!」

「これ、中のマグマがヤバい! 完全に熱核融合を起こしてやがる!」

「ハハハハハ、バカだなあ!」

と笑いながら、ハルキも一個つまんで口に入れた。

「んんっ!?!?!」

声が出なかった。
熱い。
熱いという次元ではない。
外側の皮は油でカリカリに固められているのに、内部の出汁らしき謎の液体が、高温のまま閉じ込められていた。
それはハルキの口腔内の粘膜を無慈悲に焼き尽くし、食道を焼き、胃壁へとダイレクトに落ちていく熱の暴力だった。

「お、おい、カイト……! み、水をくれ! ケルベロスのリザーバータンクのでいい!」

ハルキが白目を剥きながら作業台を叩く。

「工業用冷却水にはエチレングリコールが含まれており、生体組織に致命的な毒性を示す。お前の有機脳が2%機能低下するリスクがある」

カイトは冷静にデータを読み上げる。

「代わりに、私の内部冷却用ファンを最大出力で稼働させ、お前の口内に送風することは可能だ。試してみるか?」

「バカ! 扇風機じゃ間に合わねえよ!」

「もう! 二人とも情けないわねえ!はいお水」

ふたりを見て笑いながら、メイがコップを差し出した。
彼女は慣れた手つきでたこ焼きを小皿に移すと、半分に割ってフーフーと息を吹きかける。
ツナギの開いた襟元から、若々しい鎖骨と、汗で張り付いた下着のレースがチラリと覗いた。
ハルキは目を逸らしたが、口の熱さのせいでそれどころではなかった。

メイは冷ましたたこ焼きを一口食べた。

「んむ……。あ、でもこれ、意外と味はまともかも。ほら、この真ん中に入ってるゴムみたいな塊、これが『3%ダコ』だね。消しゴムをソースに浸して三日三晩煮込んだみたいな食感だけど」

「だろ!? 味わえメイ、それが上層の奴らが食ってる『本物の海の記憶』ってやつだぜ!」

アツシが胸を張る。
もちろん、階層都市の富裕層の貴族たちがそんな消しゴムのような肉を食っているはずはないのだが、最下層の若者たちにとっては、これこそが至高の贅沢だった。

やがて工場の奥の暗がりから、ズシン、ズシンと重い足音が近づいてきた。

「騒々しいねえ。せっかく旧式のキャブレターをバラして、ガソリンの匂いに浸ってたってのに」

右腕の旧式義手から油圧シリンダーの音を「プシュー」と鳴らしながら、シズエは作業台に近づいてきた。
その指先には、すでに火のついた合成タバコが挟まれている。

「あ、シズエさん! たこ焼きです! ナニワ産!」

アツシが居住まいを正して、一番大きそうな、ピンクのソースがとびきり不気味に輝いているやつを差し出した。

シズエはタバコをくわえたまま、その謎の物体を一瞥した。

「フン、ナニワの第三スラムかい。あそこのタコ焼き屋のババアは、昔、軍の電子戦部隊にいた奴さ。あそこの出汁に使われてる化学調味料はね、脳の特定領域を刺激して『美味い』と錯覚させる、一種の合法ドラッグだよ。あんたらそんなもんばかり食ってると、スロットルを握る指の神経がイカれちまうよ」

そう言いながらも、シズエは義手の指先で器用にピンを掴んで、たこ焼きを口に放り込んだ。
ハルキとアツシは、息を呑んで彼女の反応を待った。
あの熱核融合の熱さに、元軍人というウワサの大女も、さすがに悶絶するのではないか!?

だがシズエは、表情一つ変えなかった。
ただ、ゴクリと喉を鳴らして飲み込むと、くわえ煙草の先から長々と紫煙を優雅に吐き出した。

「……出汁が足りないねえ。それに、焼き加減が甘い。鉄板の温度管理がなってないよ。コンマ秒単位の熱の入れ方がわからない奴が、ナニワ屋の看板を背負うなんて、片腹痛いねえ」

「マジかよ……」

アツシがへたり込んだ。
最下層の伝説の味も、シズエにかかると「焼きが甘い」の一言で片付けられてしまう。

「カイト、お前も一個くらい食えよ。ほら、バッテリーにソースがついたらどうなるか実験してやっから」

少し持ち直したハルキが、冗談っぽく配管の上のカイトに呼びかけた。

「拒否する。私の内部回路に塩分と水分が侵入した場合、ショートを起こし、私の全思考ログの24%が喪失する可能性がある」

「ケチな野郎だな。美味いぞ、脳が焼けるくらいにさ」

「美味、という感覚は脳内のドーパミン分泌量によって定義される。私は直接、電脳の報酬系プログラムに『1』を書き込むだけで、お前たちが得ている以上の快楽をいつでも擬似的に生成できる」

「まったく最高に退屈な野郎だな」

アツシが笑いながら、カイトに向かって楊枝を投げた。
カイトは頭を微かに傾けるだけで、小さな矢を回避した。

「おい、ハルキ。さっきメイのやつ、点検票の裏になんか書いてたぞ」

アツシがニヤニヤしながら言った。

「え? なんだよそれ」

「ちょっと! アツシ、余計なこと言わないでよ!」

メイが慌ててアツシの口を塞ごうとしたが、アツシは器用にそれをかわしながら、作業台の引き出しから一枚の汚れた紙切れを引っ張り出した。

「ほらみろ。『ハルキのバカ。ケルベロスのチェーンに注油する前に、自分の頭の回路に注油しろ。あと、今月の食費の取り分が三千クレジット足りない』だってよ!」

「おい、メイ! 食費は先週ちゃんと渡しただろ!」

ハルキが怒鳴る。

「足りないわよ! あんたが夜中にこっそり第三環状線まで無駄走りしに行くから、その分の高オクタンガソリン代がこっちに回ってきてるのよ! こっちはね、怪しい香辛料を仕入れるために、ギルドの裏市場で頭を下げて回ってるんだから!」

「あれは無駄走りじゃねえ! テスト走行だ!」

「同じことでしょ! このガソリン泥棒!」

メイが持っていた巨大なスパナを、ハルキの脳天に軽く叩きつけようとした。すかさずハルキはヘルメットをかぶってガードする。
コン、と小気味よい音が工場に響く。

「痛えな! モグラ叩きじゃねーんだから手加減しろよ! おれの脳細胞が損傷したらどうすんだよ!」

「その時はカイトのチップでも脳みそにブチ込んでもらいなさいよ! 少しは頭が良くなるわ!」

配管の上で、カイトの瞳のブルーライトが静かに明滅した。

「私のゴーストを生身の脳に同期させることは、いま現在の医療技術では不可能だ。脳の過負荷により、対象者は180秒以内に完全に灰化する」

「ほら見ろ、カイトもこう言ってる!」

「冗談に決まってるでしょ、この唐変木!」

ふたりの言い合いを見ながら、アツシは残ったたこ焼きを最後の一つまで綺麗に平らげ、満足そうにシートにひっくり返った。
その口元には、ピンクのソースがべっとりとついている。

「あーあ。美味かった。なあ、俺たち、いつかこの底辺の街を出て、上層区のガチのレストランってやつに行こうぜ。あそこじゃ、ガチのタコが入ったたこ焼きが食えるらしいぞ」

「そんなもんがあるかよ」

ハルキは苦笑した。

「タコ100%の球体なんて、それはもうタコそのものだろ」

「いいじゃねえか、それをナイフとフォークで食うんだよ。カッケーだろ?」

「あたしは、本物のカカオで作ったココアが飲みたい」

メイが作業台の端で、小さく膝を抱えながら呟いた。

「甘くて、すごく濃厚なやつ。上層区の女の子たちは、それを飲んでるって、有線ネットのアーカイブで見たわ」

「よし、決まりだ。カカオ100%と、タコ100%だ。カイトは何がいい?」

カイトはしばらく沈黙していた。
首筋のファイバーが、街のノイズを拾って微かに震えている。

「……私は、ノイズのない周波数が欲しい。この階層都市すべての電磁波を取り除いた、完全な真空の静寂だ」

「お前の望みは一番金がかかりそうだな」

アツシが笑った。
シズエはタバコを床に落とし、義足でそれを踏み消した。

「あんたたち。夢を見るのは勝手だがね、明日の朝には、第五セクターのスクラップ回収ギルドが、うちの縄張りに色目を使ってくる。ガソリンの匂いで頭をハッキリさせておきな」

彼女はそう言い残して、再び工場の奥の暗闇へと消えていった。

雨が降り始めたのは、それから数時間後のことだった。

レイブンズのトタン屋根を酸性雨が激しく叩き、鉄の街に特有の、あの錆びた匂いがさらに濃くなる。
自販機の明かりが街灯のように雨に滲んでいる。

ハルキは工場の隅の簡易シャワー室にいた。
シャワー室と言っても、廃棄されたドラム缶を溶接して作った粗末な個室で、天井から出てくるのは、シズエが廃熱パイプから引いてきた、妙に金属臭い温水だけだ。

「ちっ……また湯の温度が安定しねえのかよ」

ハルキは錆びついたバルブを左手で回したが、お湯は容赦なく冷水へと変わり、次の瞬間には火傷しそうな熱湯に変わる。
生身の体は、この街の気まぐれなインフラにいつも振り回されていた。

「ハルキ、入ってるの?」

突然、ベニヤ板のドアの向こうからメイの声がした。

「おお、入ってるよ! 見りゃわかるだろ」

「ちょっと、これ、カイトから預かったバッファ用の基盤。あんたのケルベロスのフロントフォーク、明日の回収作業までにこれに交換しておきなさいって」

ドアがガラリと開いた。
湯気の中に、ふっとメイが現れた。
彼女は薄いタンクトップとショートパンツという、この最下層の蒸し暑い夜を過ごすための極限までラフな格好をしていた。
汗と湯気で、タンクトップが彼女の肉付きのいい体にピタリと張り付いている。
濡れた髪から滴る水滴が、鎖骨を伝って胸元へと落ちていくのが見えた。

「うおっ! お前、の、ノックくらいしろよ!」

ハルキは慌てて、薄汚れたタオルで下半身を隠した。

「なによ!減るもんじゃなし。あんたのハダカなんて、今更見ても何も感じないわよ!」

頰を少し赤くしながらも、メイはツンとした態度で、シャワー室の外にある棚に基盤を置いた。

「それより、さっきアツシが言ってたことだけど……」

メイの眼差しが、少しだけ真剣になった。
シャワーの温水がトタン壁を叩く音が、ふたりの間で激しく行き来している。

「……上層区の話か?」

「そう。あいつ、最近マジで変なのよ。さっきのたこ焼きの時も、笑ってたけど……時々、目の焦点がどこか別の世界にチャネリングしてるみたいでさ。ハルキ、あんた、アツシと一緒に走ってて、何か気づかない?」

ハルキはシャワーのバルブを止め、濡れた髪を無造作に拭いた。
室内に、湿った沈黙が満ちる。

「……あいつは、昔からああだ。誰も見てない遠くを見てる。俺たちには見えない『外』の景色が、あいつの頭の中には最初から見えてるんだよ」

「それが怖いのよ」

メイはタンクトップの裾を強く握りしめた。
豊かな胸元が、呼吸に合わせて小さく上下する。

「カイトは数字しか見ないし、あんたはバイクのことしか見ない。アツシは星しか見ない。……この工場を、今のこの場所をちゃんと見てるのって、私と母さんだけじゃない」

「メイ」

「何よ」

「お前、その格好、ちょっと目の毒だから早く服着ろ。あと、今月の食費は明日、アツシのポケットから直接スってでも回収してやっから」

メイは一瞬きょとんとしたが、すぐに自分の露出度の高い格好に改めて気づいたように、頬を真っ赤に染めた。

「このスケベ野郎!」

バキ、という派手な音がして、ベニヤ板のドアが勢いよく閉まった。
シャワー室が激しく揺れ、ハルキの頭上にたまっていた雨水が一気に落ちてきた。

「冷てっっ!!」

ハルキの悲鳴が、雨音にかき消されていく。

廃配管の上で、カイトは首筋の端子を通じて、そのすべての音響データを静かに受信していた。
彼の電脳システムは、ハルキの心拍数の12%の上昇と、メイの音声周波数の高音域への偏りを記録した。

「生体反応の揺れ。解析不能。——だが、走行ログにおけるこのコミュニティの維持効率は、現時点において94.2%。極めて良好である」

カイトはそう呟くと、再び電子の深淵へとその意識を沈めていった。

外では、酸性雨がさらに激しさを増していた。
最下層のジャンクヤードを満たす、嘘くさい紫の光。
その中でイレブンズの面々は、静かに偽物の夜明けを待っていた。
このガサツな日常が、いつまでも続くものだと信じて。
思えば、彼等の始まりも、こんな激しい雨の夜だった。



第三章:三本の轍


雨だった。

ハルキのバイクの前を、アツシの赤いテールランプが走っていた。
壁に激突するはずのラインへ、平然と飛び込んでいく。

「しぬ気かあいつ!」

その内側へ、カイトのマシンが滑り込んだ。
三台は火花を散らしながら、ひと塊になってゴールラインを駆け抜けた。

レースが終わった。
高架下の薄暗がりで、アツシはヘルメットを脱ぎ捨て、薄汚れた顔でニカッと笑った。

「お前ら! 今のコーナー、最高だったな! 俺はアツシだ。おい、そこの義体くん、名前は?」

「カイト。君たちのコーナリングには、毎周コンマ三秒のズレがある」

「なんだと、この野郎!」

ハルキが掴みかかろうとすると、アツシが割って入った。

「ハハハ! 面白い! なぁ、カイト、ハルキ。俺たち三人で走れば、このクソみたいな階層都市の、一番てっぺんまで行けると思わねぇか?」

その日から、三本の轍が始まった。

彼らはイレブンズの仲間からパーツを盗み、買い取り、ゴミ山から発掘しては、工場で夜通しバイクを組み上げた。
シズエは「バカ者共」と呼びながらも、いつも工場の片隅を提供し、黙ってスパナを貸した。

シズエがハルキを拾ったのは、彼が十四歳の時だった。

親が多重債務でシステムに登録抹消され、一人で底辺まで落ちてきたハルキが、酸性雨の中で行き倒れていたのを見つけたのだ。
シズエは当時まだ生身だった左手で、ハルキの細い腕を掴み上げた。

「生きたいかい、坊主」

「……」

「生きたいなら、スパナの持ち方を覚えな。この街じゃ、自分の手を汚さない奴から順に、システムの餌食になるんだよ」

それだけだった。
名前も聞かなかった。
どこから来たかも聞かなかった。

ハルキは翌朝からレイブンズの工場に住み込んで、メイのスパナで頭を叩かれながら、整備の仕事を覚えた。

あの日シズエが言った言葉と、メイが叩きつけてくるスパナの痛みが、ハルキにとって、自分はまだ生きているという唯一の証明だった。

極東新区の最下層が「レイブンズ」と呼ばれるようになる前、そこはただの『第11工区』あるいは『ゴミ溜め』としか呼ばれていない、未開拓の巨大な暗渠だった。

頭上のホログラムの蓋なんて気の利いたものはまだなくて、上層区のビル群が吐き出す汚水や熱水と、重金属を含んだ文字通りのドス黒い泥雨が、二十四時間絶え間なく降り注いでいた。
生身の人間が傘もささずに三日歩けば、肺が繊維化してくたばると言われた時代だ。

「おい、シズエ! 根性入れな! 第三シャフトの油圧シリンダーがイカれた! 支えがなきゃ、あと五分でこの区画ごと天井が落ちてくるぞ!」

「うるさいねえ! 誰に向かって言ってんだい!」

二十五年前のシズエは、まだツナギの袖を肩まで捲り上げ、油と泥にまみれた見事な生身の右腕を誇示していた。
今の乾いた油圧音を鳴らす旧式義手ではない。
最下層の重力に鍛え上げられた鉄のような筋肉が、彼女の腕には確かに宿っていた。

当時、シズエはまだ二十代半ばだった。
のちにメイに受け継がれることになる、父親譲りの四〇ミリの大型スパナを両手で握り締め、崩落しかけた隔壁のボルトを力任せに締め上げていた。

「ハァーッ……、よし! 締まったよ! 泥水を啜る用意はできたかい、野郎ども!」

シズエが叫ぶと同時に、上層から数トンもの鉄屑が、彼らの数センチ横を掠めて落下し轟音を立てた。 火花が散り、酸性の蒸気が彼女の若い頬を焼く。それでもシズエは、ただニカッと白い歯を見せて笑った。

当時の最下層は、上層区の建築現場からあぶれた登録抹消者や、多重債務の果てに名前を失った労働者たちが、明日の配給カプセルだけを目当てに泥を掘り返す開拓地だった。 法もなければ、まっとうな警備企業の巡回もない。頼れるのは、自分の腕力と、隣にいる奴がけっして裏切らないという、不確実な身内意識だけだった。

シズエはその荒くれ者たちの中で、唯一の「一級重機整備士」として君臨していた。

「姉御。上層の建設ギルドの奴らが、また下層の配管を勝手に繋ぎ換えて、廃油をこっちに流し込んでやがります。このままだと、居住区の濾過槽が破裂する」

若い作業員が、泥まみれの顔でシズエの元へ駆け込んでくる。

「あのスカした上級市民どもが」

シズエは、当時はまだ本物の葉っぱで作られていた安タバコに火をつけ、紫煙を吐き出した。それでも最下層では高級品だ。

「あいつらは、自分たちが吐き出したクソがどこに落ちるか、一度
も考えたことがないのさ。いいかい、泣き寝入りするんじゃないよ!流してきたのが廃油なら、こっちはその廃油をあいつらの自動防衛システムのセンサーにぶちまけて、盲目にしてやるのさ」

「へへ、姉御がそう言うなら、やりますぜ!」

彼女は単なる整備士ではなかった。
行き先を失い、システムの餌食になるのを待つだけだった浮浪者たちに、スパナの持ち方を教え、ボルトの締め方を教え、自分の足で立つための技術を叩き込んだメカニックだった。
彼女がいたからこそ、第11工区はただのゴミ溜めから、「レイブンズ」渡り鳥の巣という名の、意地と誇りを持った街へと変わっていったのだ。

だが、鉄の女にも限界は訪れる。

それは、のちに『大陥没』と呼ばれる、第14セクターの地盤沈下事故の夜だった。
上層の欲深いディベロッパーが、下層の耐荷重計算を無視して巨大なホログラム塔を建てたせいで、天蓋の強度が限界を迎えたのだ。

崩落の規模は数キロメートル。
シズエは、自らが組み上げた巨大な防護隔壁のレバーを握っていた。
彼女がそのレバーを引き続ければ、数百人の労働者が住む居住区は守られる。だが、油圧の逆流により、操作レバーは百度を超える高熱を持ち、駆動部のシリンダーがいつ爆発してもおかしくない状態だった。

「シズエ! 離れろ! 腕が融けるぞ!」

仲間の叫び声が、金属の軋み音にかき消される。

「馬鹿野郎!!離せるかい……!」

シズエは歯を食いしばり、生身の右腕で、真っ赤に熱を帯びた鉄のレバーを 握り続けた。
じゅ、という肉の焦げる嫌な音がして、煙が上がる。
神経が焼き切れ、骨が歪んでいく。
それでも彼女の目は、崩れ落ちる天井の隙間から一瞬だけ覗いた『本当の夜空』を捉えていた。

(ああ……、星なんて、あんなに遠いのかい……)

その瞬間、シリンダーが破裂した。

高圧の作動油とチタンの破片が、彼女の右半身を容赦なく引き裂いた。

……目が覚めた時、彼女の右腕は、いまハルキたちが見ている、あの油圧音を鳴らす無骨な義手に変わっていた。
意識朦朧とする中でシズエ自身が指示して、軍のジャンク品を仲間に無理やり繋がせた代物だ。

「……ま、生身のカラダってのは、こういう時に不便だからね」

ベッドの上で、シズエは新しい右腕を「プシュー」と動かしながら、相変わらず不敵に笑ったという。
だが失ったのは右腕だけではなかった。
内臓の半分、そして若い頃の瑞々しい肌も、すべてチタン板と合成ナノマシンの人工皮膚に置き換わった
彼女はこの時、半分だけシステムの一部になったのだ。

それから数年後。

すっかり最下層の肝っ玉母ちゃんとして落ち着いたシズエの元に、ひとりの男が、生まれたばかりの赤ん坊を抱えて転がり込んできた。

男の名は、誰も知らない。
ただ、上層の研究所から何かを盗み出し、追われている技術者だという話だった。男はシズエに1500万クレジットを差し出した。ここじゃ誰も見たことがないような大金だった。

『この子の名前は、メイだ。いつか……本当の、ノイズのない空を見せてやってくれ』

シズエに赤ん坊を託すと、そう言い残して、男は酸性雨の闇へ消えていった。
シズエは、泣き叫ぶ赤ん坊を、冷たい鉄の右腕で不器用に抱き上げた。
油圧シリンダーが赤ん坊の肌を傷つけないようにタオルを挟み、できるだけ優しく、慎重に気をつけながらあやした。

「おまえはメイ、かい。上層の奴らは、どいつもこいつも勝手な夢ばかり捨てていきやがる」

シズエはそう呟きながら、赤ん坊の小さな額に、自分のタバコ臭い額をそっと合わせた。

それからさらに十数年が経ち、シズエのファクトリーには、親を失ったハルキが転がり込み、電脳を焼かれた迷い犬のようなカイトがどこからかがやってきて、さらに元暴走族らしいアツシがバイクを走らせるようになった。

若い頃、自分が命を懸けて支えつづけた最下層から、ホログラム広告だらけの天蓋を見上げながら、シズエは今日も合成タバコに火をつける。

「若い奴らってのは、どうしてこうも、上ばかり見たがるのかねえ」

彼女は、ハルキとアツシが残していった、たこ焼きのピンクのソースがこびりついた作業台を、鉄の右手でゴシゴシと力任せに拭き上げた。
その不器用な動作のなかに、彼女がこの街のすべての『轍』を見守ってきた、鉄よりも固い愛が隠されていることを、誰も知らなかった。



第四章:電子の深淵

数日後の深夜二時。

工場の照明は半分しか点いていない。
電気代を節約するためだ。
シズエは「暗い方が仕事に集中できる」と言うが、メイは単純に目が悪くなると思っている。
そして、やっぱり眠れなかった。理由は分かっている。

夕方、ハルキとアツシが第三環状線を走ると言って出ていったまま、もう六時間帰ってこない。
カイトだけが工場に残って、壁の有線端子に繋いだまま、例の廃配管の上でじっとしている。

メイは作業台の隅に置いた小鍋で、また合成ココアを作った。
本物のカカオではない。
廃棄食料の再合成品で、溶かすと独特の酸っぱい後味が残る。
でもシズエの合成コーヒーよりはずっとましだ。あれは本当にひどい。
マグカップを二つ用意して、その一つをカイトに差し出した。

「カイト、ココアいれたわよ」

返事がない。
端子を繋いだまま、どこか遠いところに意識を飛ばしている時の顔だ。
その証拠に、ブルーの眼球だけが細かく動いている。
こういう時に声をかけるとカイトは嫌がる。
嫌がる、という感情があるのかどうかメイにはよく分からないが、少なくとも「非効率だ」と言う。

それでもメイは、カウンターの縁にカップを置いた。

三分ほど待ったら、カイトの首筋のポートから端子がゆっくりと抜けるときのジュッ、という電子音が聞こえた。
それからカイトは、まばたきを二回して、ようやくメイの顔を見た。

「メイ…….」

「ハルキたちのログ、追ってたの?」

「ルーティンのセキュリティチェックだ」

ウソだ、とメイは思った。
言わなかったけれど。

カイトはカップを受け取り、両手で包んだ。
義体の手は体温がないから、熱さを感じているのかどうかも分からない。
それでも彼は、毎回きちんと両手で持つ。
誰かに教わったのか、それとも人間の動作をデータとして学習した結果なのか、メイは聞いたことがない。

「あんた、また寝ないでそんな細かい数字見てるの?」

「義体システムは二十四時間の稼働に耐えうる。睡眠は——」

「バカになるわよって言おうとしたんじゃなくて」

メイは作業台の端に腰掛けて、足をぶらぶらさせた。

「アツシたちのこと、心配するなってこと」

カイトが黙った。

こういう時のカイトの沈黙は、何もないのではなく、何かを処理しているのだと、最近は分かるようになった。
機械が考えているというより、人間が言葉を選んでいる時の間に似ている。

「心配、という概念の定義は曖昧だ」

「定義とかいいから」

「……だが」

カイトはカップを見たまま続けた。

「アツシの走行ログに、先月から微細な乱れがある。スロットルの入力パターンが、わずかに不規則になっている。身体的な原因か、メンタル的な要因か、現時点では特定できていない」

メイの手が、カップの上で止まった。

「それ、ハルキには言った?」

「いや、言っていない」

「なんで?」

「確信がないからだ。データの揺れは誤差の範囲内かもしれない。ハルキに伝えれば、あいつは即座に行動する。その行動が、アツシとの関係を複雑にする可能性がある」

メイはしばらく黙った。

カイトが「関係を複雑にする」という言葉を使ったことが、少し意外だった。ときどき、そういう人間くさい言い方をする時がある。
意外と本人は気づいていないのかもしれない。

「カイト。あんた、あいつらのこと心配してるじゃない」

「……最適な走行状態を維持するための演算だ」

「同じことでしょ」

また沈黙。今度は少し長かった。

窓の外で、どこかの排熱口が赤く染まっていた。
赤時間には少し早いが、ファクトリーの夜はいつもこんなものだ。
本物の夜明けも、本物の夕暮れも、ここからは見えない。

「メイ」

カイトが唐突に言った。

「君は、この工場が好きか」

「なんで急に?」

「データとして知りたい」

嘘だ、とメイはまた思った。
でもこういう時はちゃんと答えてあげるのが正解だと、自分なりの経験で学んでいた。

「好きよ。うるさいし、汚いし、ご飯は不味いし、ハルキはいつも点検票を書かないし。でも好き」

「理由は?」

「わたしが帰れる場所だから、かな。自分の家だからね」

カイトがまた黙った。今度は短かった。

「……そうか」

彼は立ち上がり、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
取り出したのは、小さな端末だった。
傷だらけで、頑丈に補強してある。

「これを持っておくといい、メイ」

「メモリー?なに、これ」

「私のゴーストと通信できる専用端末だ。万が一の時のために」

「万が一って……」

カイトは答えなかった。
答えない時は、答えたくないのではなく、答えを持っていない時だと、これも最近分かってきた。
メイはその端末を受け取った。
冷たい金属の感触が、ゆっくりと手の中に馴染んだ。

「……ありがと。あんた、やっぱり優しいのね」

「優しい、という概念の定義は——」

「曖昧、でしょ。知ってる」

メイは笑った。
カイトは笑わなかったが、瞳のフォーカスが、ほんの少し緩んだ気がした。気のせいかもしれない。

やがて工場の外から、エンジン音が聞こえてきた。

二台。

ハルキとアツシだ。
走り方で分かる。

アツシのアシュラは、最後のコーナーでいつも少し大きく膨らむ癖がある。今夜は少し、その膨らみが大きかった。

「帰ってきた!」

「ああ」

カイトは再び端子を首筋に繋ぎ、廃配管の上に戻った。
五メートルのケーブルが伸びきって止まる。いつもの場所だ。

シャッターが開いて、ハルキとアツシが入ってきた。
二人とも、オイルと排気で黒ずんでいる。
アツシが大声で何か言っている。
ハルキが呆れた顔で返している。

いつも通りだった。

メイは、手の中の端末をデスクの引き出しにしまった。

「ちょっと! ハルキ! 土足で上がらないって言ってるでしょ!」

「うるさい、腹が減ったんだよ! 何か食えるものはないのか!」

「知らない! アツシ、あんたも止めなさいよ!」

「俺は悪くない!」

「二人とも悪いって!」

廃配管の上で、カイトが端子を繋いだまま、わずかに口角を動かした。
それをメイだけが見ていた。

数年後、引き出しの奥で端末が光るまで、この合成ココアの夜のことを、メイはずっと覚えていた。
カイトが「帰れる場所」という言葉を聞いた時の、あの短い沈黙のことも。


翌日、アツシは帰ってこなかった。

一日。 二日。 三日。

工場の入口にあるアシュラの駐車スペースだけが、白く空いている。
その空白が、妙に広く見えた。

最初は誰も気にしていなかった。
あいつは昔からそうだった。
思いついたら走る。腹が減ったら帰る。
そういう男だった。

だがメイが夕食を三回分、アツシの椀に盛り直しては捨てた。
シズエは何も言わず、工場の外周カメラのログを毎朝確認するようになった。
カイトは壁の端子に繋いだまま、食事の時間にもやってこなかった。

四日目の夜、ハルキはケルベロスに跨った。

「行ってくる」

「どこへ?」

とメイは言いかけて、止めた。
聞かなくてもわかっていた。

第二環状線は、今夜も偽物の夜に塗りつぶされていた。
ハルキはスロットルを開いた。
ツイン・モーターが低く唸り、ケルベロスが闇へ飛び出す。
時速二百キロを超えると、風はもう空気ではなかった。
肉を削ぐナイフだ。それでも彼は緩めない。
アツシが走っていた道を、同じラインで走る。

「壊れてやがる……この街も、あいつも!」

コーナーで車体を叩きつけるようにバンクさせた瞬間、背後の高層ビル下層部が爆発した。
爆風がケルベロスを横に揺さぶる。
ハルキの指はスロットルを緩めない。
崩壊していく最下層のシルエットを背に、彼はただ先を急いだ
アツシが最後に走ったログが示す方向、第五セクターへ。

別のハイウェイで、カイトは端子を首筋に繋いだ。
意識が電子の深淵へ沈んでいく。
やがて都市が発するあらゆるデータが流れ込んでくる。
監視カメラ、自動運転車のログ、街頭端末の微弱なパルス。
カイトはその洪水の中に、四日前のアツシの痕跡を探した。

……あった。

第五セクター北東の廃区画。
アツシのバイオIDが最後に記録されたのは、そこだ。
だがその後のログは、ただのノイズに塗り潰されている。
まるで誰かに消されたように。

追走してきた上層区の警備会社のサイボーグが、銃撃を開始した。
カイトは表情一つ変えず、モノバイクを廃配管の暗い隙間へと滑り込ませる。追跡機が配管に激突し、炎が夜を赤く染めた。

カイトはそれを振り返らなかった。

脳内に浮かぶのは、アツシのログの最後の座標と、あの夜、床に落ちた黒い粉が、赤錆に向かって這い寄っていく光景だった。
解析結果は、四日前から変わっていない。
カイトはその答えを、まだ誰にも言っていない。


深夜、工場に戻ったハルキとカイトを、メイが待っていた。

「見つかった?」

ハルキは首を横に振った。

「でも行き先はわかった。第五セクターの廃区画だ」

「あの辺りは、電磁干渉が異常に強い区域だ」

とカイトが言った。

「通常の通信は届かない。直接入るしかない」

「行くよ」

とメイが即座に言った。

「バカ、お前は——」

「行くって言ってんの!」

ハルキは何も言い返せなかった。

シズエが奥の居住区から声をかけた。
振り返らないまま、背中で言った。

「補給パーツは棚の三段目。夜明け前に戻りな」

それだけだった。
行くな、とは言わなかった。



第五章:アシュラ豹変

第八廃棄管区。

ハルキはケルベロスを錆びたクレーンの影に滑り込ませた。
エンジンを切ると、あたりは静かになった。
静かだが、無音ではない。
酸性雨がトタンを叩く音、配管の奥を流れる汚水の轟音、遠いサイレンの残響。この街の息遣いだ。

「遅ぇな、義体野郎」

ヘルメットを脱いだ瞬間、薬品臭い夜気が首筋を包んだ。

駆動音もなく、闇からカイトのモノバイクが滑り出してきた。
カウルには銃撃の傷跡が生々しく刻まれている。
降り立ったカイトは、首筋のポートからコネクタを引き抜いた。
ジュッ、という小さな電子音。

「広域監視網のハッキングに手間取った」

「右肩、やられてるぞ」

チタンの装甲が歪み、内部が露出していた。
カイトは一瞥したが、それだけだった。

「戦闘に支障はない。それより——」

「ああ」

とハルキは言った。

「さっきの爆発。アツシだ」

ハルキの言葉に、カイトは黙った。

「あのシケインの曲がり方、アツシ以外にいない」

「……論理的にあり得ない。アツシのゴーストは事故ログで確認されている。生体反応はおろか——」

「理屈じゃねえ!」

ハルキはケルベロスのタンクを拳で叩いた。
乾いた金属音が廃棄管区の闇に吸い込まれた。

「俺はあいつの走りを、この肌で感じたんだ」

カイトはしばらく黙っていた。それから静かに言った。

「……仮にお前の予測が正しいとすれば、事態は深刻だ。アツシは今、ただの『亡霊』ではない」

その続きを、カイトは言わなかった。
あの夜から、彼の電脳の中にある解析結果。
それをまだ、誰にも告げていない。

その時、廃棄管区の空気が変わった。

上から来た。

配管と電線の隙間を縫って、何かが猛烈な速度で降ってくる。
ハルキは反射的にケルベロスへ飛び乗った。

着地の衝撃で地面が揺れた。

赤いバイクだった。
いや、かつて赤かったバイクだ。今はちがう。
車体は赤黒く変色し、まるで生き物の筋肉のように、絶えずその形を変えている。煌々と光るヘッドライトだけが血の色だった。

「アシュラ……」

ハルキは呟いた。

シートに座る影が、ゆっくりとヘルメットを脱いだ。

ハルキは息を呑んだ。

アツシだった。

間違いなく、アツシの顔だった。

だが目だけが違った。
そこには人間の光がなかった。
底なしの夜だけがあった。

「……ハルキ、カイト。久しぶりだな。やっと追いついたか」

声はアツシのものだった。
だが複数の声が重なっていた。
まるで、亡者たちがいっぺんに喋っているような合成音声に聞こえた。

「アツシ——!」

ハルキが叫んだ瞬間、アシュラが動いた。

黒い霧が車体から噴き出し、周囲のコンクリートを腐食させていく。
カイトは即座にモノバイクを走らせ、ワイヤーアンカーをアシュラのカウルへ射出した。
アンカーが食い込む。
カイトはワイヤーを腕に巻き、自重でアシュラを止めようとした。

一瞬、アシュラが止まった。

次の瞬間、黒い触手がワイヤーを伝ってカイトの腕へ這い上がった。

「カイト!」

カイトの動きが止まった。
表情は変わらない。
だが、体が言うことを聞かなくなっていた。

「ハルキ……離れろ!ヤツの電磁フィールドは——」

「うるさい!」

ハルキはシズエから譲り受けた銃を抜き、アツシへ向けた。

「この野郎っ!!」

強引に引き金を引く。

弾丸は、アツシの顔の数センチ手前で止まった。
空間がぐにゃりと歪み、火花を散らして落ちた。

アツシが笑った。

「ははははは。……ハルキ。お前の熱血はいつも爽快だな。嫌いじゃないぜ。だが足りない。このクソみたいな都市のシステムを根底から焼くには……ハルキ、俺の一部になれ」

天井が一気に落ちてきた。
数千トンの廃配管が、一気に崩れる。
ハルキは骨折した足を引きずって、動けないカイトのもとへ飛び込んだ。

瓦礫が降る。

放電の閃光が走る。

ハルキはカイトの体を抱えながら、それでもアツシのアシュラを見ていた。

(あの目の奥に、あいつはまだいるのか……)

瓦礫の山が、二人を飲み込んだ。



第六章:疾走のセイヴィアー

瓦礫の中で、ハルキは意識を取り戻した。

右腕が変な方向に曲がっている。
首筋から血が出ている。
全身が焼けるように痛い。

「……生身のカラダってのは、こういう時に不便だな……」

左手だけで瓦礫を押しのけ、這い出した。
隣にカイトが横たわっていた。
義体は黒く変色し、瞳のブルーライトが消えている。

「カイト……」

ハルキはカイトの胸に触れた。
何も動いていない冷たさだ。

その時、首筋からかすかな振動が伝わってきた。

「……ハルキ……聞こえるか……」

「カイト!」

「義体は限界だ。だが、ゴーストだけは首筋のコネクタに退避させた」

カイトの首筋のポートから、光ファイバーコネクタがゆっくりと這い出してきた。

「ハルキ。私のゴーストを、お前の首筋に同期させる」

「バカ言うな!お前みたいな演算量を生身の脳にぶち込んだら——」

「脳細胞の三割が損傷するリスクがある。分かっている。だが他に選択肢はない」

カイトの声は、相変わらず平坦だった。
感情がないのではなく、感情をそういう形でしか出せない男だ、とハルキは思っていた。

「アツシは都市の基幹システムへ向かっている。止められるのは、われわれだけだ。失敗すれば、シズエも、メイも、レイブンズも、全部終わる」

ハルキは、熱を持ったコネクタを左手で握った。

「……お前の演算と、俺のカンか……」

「走ろう、ハルキ」

ハルキは、意を決してカイトのコネクタを自分の首筋に叩き込んだ。

「うわあああああああ!!!!!!!!」

脳の中に、津波が来た。

カイトのこれまでの記憶が全部流れ込んでくる。
メイに渡した端末、アツシへのやるせない感情——
ハルキやシズエへの想い。
それから、自分の哀しい出自と過去。
ハルキの脳が内側から沸騰する。

「……同期完了。行くぞ」

「ちょ……待ってくれ、おれはまだ……」

「もう時間がない」

カイトの声が、頭の中で静かに響いた。
不思議なことに、折れた右腕の痛みが、スッと消えた。

ハルキは瓦礫の中からケルベロスを引きずり出した。
カウルは砕け、モーターから煙が出ている。
それでもスロットルを開いた瞬間、車体が変わった。
タンクに青白い放電が走る。

「ええい!見切り発車だ!いくぞ、カイト!」

「了解」

都市の基幹サーバーが鎮座する第八廃棄管区の最奥。
アツシはその中央にいた。
アシュラと一体化し、黒い霧を周囲に漂わせている。

「あいつら遅いな……。全部繋げてやる。この街のシステムに」

そこへ、一本の光が突入した。

「アツシィィイイ!!」

「ハルキ、バリアの薄い部分が赤く見えるはずだ」

脳内でカイトの声がした。
視界の中に、かすかに赤い霧が浮かび上がる。

「そこかァアア!!!」

ハルキはその一点へ滑り込んだ。
ナノマシンの黒い触手が無数に迫る。
かわす。また来る。かわす。

「ははははは。無駄だハルキ! この都市全部が俺のシステムだ!」

サーバーラックが崩れ落ちる。
高圧ケーブルから電流が走り、ケルベロスが焦げていく。

「……脳が、もたないぞハルキ!」

「まだだ! あいつのフレームが見えてない!」

見えない。
アツシが見えない。
黒い霧の向こうに、確かにいるはずなのに。

「……ここから先は、もう計算では届かない」

一瞬の間があった。

「やってやる!」

「ハルキ。お前の直感に、すべてを任せる」

カイトの言葉と同時に、ハルキの脳裏に、雨の夜の第三環状線が浮かんだ。
三人で走っていたあの夜。
アツシがコーナー手前で見せた、インを一瞬だけ開けるあの癖。

「カイト!全エネルギーを電磁アンカーに回せ!!」

「しぬぞ、ハルキ!」

「かまわねえ。今しかないっ!!」

「……了解」

ケルベロスが、アシュラの側面へ突っ込んだ。

黒い壁が迫る。
コンマ一秒前、ハルキは車体を横に滑らせ、アシュラのカウルのある一点へ電磁アンカーを撃った。
アンカーは黒い装甲を突き破り、その奥にあるアシュラのチタンフレームに突き刺さった。

「な……俺の、フレームに……」

アツシの声に、初めて驚愕が混じった。

「今だ、カイト!!」

青白い奔流が逆流した。
アシュラの内部からナノマシンが焼かれていく。

「グアァァァァアア!!!」

黒い霧が晴れていく。

アシュラが崩れていく。

その向こうから、アツシが現れた。
雨の夜のあの顔で、泥だらけのまま笑っていた。

「……やっと追いついたな!ハルキ、カイト……」

「バカ野郎!……おまえが速ぇんだよ!……」

ハルキの声が、掠れた。
泣いているのか、怒っているのか、自分でもわからなかった。

「カイトも……いるんだろ。ありがとな、お前ら……」

生身のアツシの声だった。
掠れた、優しい声だった。
その声は、溶鉱炉のように燃え盛る光の中に、静かに溶けて消えた。

静寂。

ハルキは泥だらけになってケルベロスから這い出た。

完全に右腕の感覚がない。

首筋からカイトのコネクタが、ぽろりと外れて地面に落ちた。

「……カイト」

触れた。

冷たかった。

何もなかった。

ハルキはしばらく、その場に座り込んでいた。

立ち上がる理由が、見つからなかった。

「……バカ野郎!ひとりで消えやがって……格好つけんな」

天蓋の割れ目から、空が見えた。
ホログラム広告が消えた夜空に、本物の星が瞬いていた。
アツシが探していた、あの星の瞬きだ。

「……俺だけ……生き残っちまった……」

地面に落ちたカイトのコネクタの破片を握りしめて、ハルキはやっと立ち上がった。

上層階では、止まっていたホログラム広告が、何事もなかったように、また明滅を始めていた。

この街は何も変わらない。

ただ、あの本物の星の光だけは、ハルキの目の奥に、いつまでも焼き付いていた。



第七章:星空の彼方へ


あの大規模なシステム障害から、数年が経過した。

第八廃棄管区の爆発事件は、警察や警備企業の公式記録では「基幹インフラの老朽化による突発的な自壊事故」として処理され、アツシの名も、カイトの消失も、都市の膨大なアーカイブの中に静かに埋もれた。

皮肉なことに、極東新区の最下層は、あの日よりも随分と明るくなった。
システムの再構築により、天蓋を埋め尽くすホログラムの解像度が飛躍的に上がったのだ。
たしかに街は綺麗になったように見えた。
だがその本質は、さほど変わってはいなかった。

最下層の外縁、錆びたコンテナが山をなすスクラップ場に、久しぶりにバイクのエンジン音が響いた。
旧式の、ありふれた排気音。
かつてのケルベロスのような鋭さはない。
それでも工場の前で作業していたメイは、その音を聞いた瞬間、スパナをカランと床に落とした。

(ハルキだ!)

走り方が変わっても、エンジンの癖が変わっても、わかった。
長年の付き合いとは、そういうものだった。

ライダーは右足を少し引きずりながら、バイクから静かに降りた。
ヘルメットを外すと、オイルの煤で汚れた、なつかしい笑顔が見えた。

「遅かったじゃない、バカ!何年待たせるのよ」

その言葉が、メイの精いっぱいだった。

「……ひさしぶりだな、メイ」

ハルキは俯いて、少しはにかんで笑った。
その右腕は、シズエと同じように義手に変わっていた。

「空の向こうに消えちまったのかと思ってたよ」

奥からシズエが現れ、無言で合成コーヒーのカップをハルキに手渡した。

「悪いな。生きてるよ」

ハルキは作業台の端に腰掛け、義手でカップをつかんで、一口啜った。

「あうっ!」

苦い。
相変わらず、薄くて苦い。
シズエが淹れるコーヒーは、何年経っても、クソみたいな味のままだった。

「……アツシは?」

メイが震える声で尋ねた。

「いない……」

「消えたの?」

「あいつは……空の向こうへ行ったよ」

「カイトは?」

ハルキは首筋のポートに、そっと指先で触れた。
神経と完全に癒着して、摘出不能となった、カイトのコネクタの破片がある。時折、古い演算回路が稼働しているような冷たい幻痛を走らせる。
すっかり身体の一部になっていた。

「……ここにいるよ。ずっと、俺の中にな」

シズエが合成タバコに火をつけた。
旧式の光学センサーが、薄青く明滅する。

「……そうかい。なら、いいさ」

深く煙を吐いて、それだけ言った。

メイは作業台の引き出しから、傷だらけの古い端末を取り出した。

「メイ、それは……」

ハルキにも見覚えがあった。
あの日、深夜の工場でカイトがメイに手渡した予備端末だ。

「これ、さっきまで変な動きをしてたの。昨日からずっと、一行だけ計算式が並び続けてて……」

ハルキは端末を受け取った。

画面には、整然とした数列が並んでいる。
天文観測に使われる極座標表示の数式。
赤経と赤緯、そして未知のベクトル。

「ほんとだ。動いてやがる……」

ハルキには、数式の意味は分からない。
でも、そのデータの並べ方には確かに見覚えがあった。
カイトが演算を整理するときに見せていた、あの無駄のない、しかしどこか人間的な、カイトだけの手癖だった。

「……あいつ、こんなところにバックアップを残してやがったのか」

首筋の金属破片が、微かに温かくなった気がした。

「読める?」

とメイが覗き込んだ。

「座標だよ。本物の、星空の座標だ」

「本物の?」

「ああ。ホログラム広告の光も、排熱も、電磁ノイズも全部取り除いた先にある、カイトが計算した、本当に星が光ってる宇宙の座標だ」

メイはしばらく端末を見つめてから、ゆっくりと空を見上げた。
錆びた廃材と配管が幾重にも交差し、その隙間から今日もホログラムのウソくさい光が差し込んでいる。

「見えないね。ここからは……」

「ああ……」

「でも、そこにあるのね」

「ある。カイトが計算したんだ。絶対に、ある」

シズエが、義手でゆっくりタバコの灰を落とした。

「……あの几帳面な義体野郎が言うんだ。間違いねぇさ。アタシたちも、いつかその星を見に行かなきゃね」

声がいつもより少しだけ低く、そして優しかった。

ハルキは端末をメイに返し、マズいコーヒーを最後の一滴まで飲み干した。
カップの底に、なつかしい黒い澱が残っていた。

「ねえ、明日から、どうするの?」

「おれは……走るよ」

「それだけ?」

「それだけだ。走って、走って、あいつらが残したもんを、アスファルトに刻み続けてやる。走っていれば、いつかあの星に届く気がするんだ。理屈じゃなくてな」

メイは少し呆れたようにため息をつき、スパナでハルキの頭を軽く小突いた。

「ならせめて、私の点検が終わってから行きなさいよ。フロントフォークが軋んでるわよ」

「わかったよ」

「点検票も書いてよね」

「あ?ああ、書くよ、たぶん」

「ちゃんと書きなさい」

ふたりは久しぶりに笑い合った。


翌朝。

ホログラムが白々と朝を告げる前に、ハルキはエンジンをかけた。

フロントフォークはメイによって完璧に整備され、グリスが新しく塗られていた。
作業台の上に、メイの丸っこい手書き文字で、整備項目が細かく書かれた点検票があった。

ハルキはその紙を丁寧に折り畳んで、ジャケットの内ポケットに入れかけたが、思い返して、カイトの破片が埋まる襟元に仕舞い込んだ。

首筋の金属が、朝の冷気に触れて微かに脈動した。

走り出す。

極東新区は、今日も変わらない。
騒がしくて、汚くて、嘘の光に満ちている。
それでもアスファルトの上には、黒く力強い轍が残る。

工場の入り口で、メイがスパナを片手に腕を組んでいた。
叱る顔でも、泣き顔でもない。
ただ、ハルキを信じる目で見つめていた。

ハルキは一度だけクラクションを鳴らし、スクラップ場を飛び出した。

カイトが遺した星空の座標が、ポケットの中で、静かに光っていた。🌠♋️

(了)



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