ご立派な食卓🍽️
田中家の食卓にはいつしか、義務的な団欒の空気が漂っていた。
会話はたいてい「今日、何かあった?」に始まり、「めしにするか」で終わるのが常だった。
ある日、妻の雅代は突然宣言した。
「お父さん。今日から我が家の食卓を『感動と共感の劇場』として再構築するわ」
「劇場?さ、さいこうちく……」
冷凍チャーハンを食べていた洋一の手が止まった。
「ええ。私たちの食卓には、あまりに感動が欠けてるわ。これじゃ食事の『格』が下がる一方よ。今日から、食事中は『最高のパフォーマンス』を義務とします」
雅代によって最初に義務化されたのは「感動的な食レポ」だった。
なんの変哲もない肉じゃがを頬張ると、洋一は箸を置き、両手で顔を覆いながら深呼吸して、こう言わされた。
「……こ、この肉じゃがは、まるで……幼いころ食べた、母の肉じゃがの、メ、メタファーじゃないか!」
「まだ不十分だわ」
雅代は真顔で言った。
「涙が足りないわ。あなたの中で、もうちょっと『人生劇場の悲哀』を増幅させてみて」
洋一は仕方なく、むかしの上司の理不尽な叱責を思い出して、無理やり涙腺を刺激した。涙を流しながら「メタメタファーだ!」と言うと、雅代は満足げに頷いた。
この食レポパフォーマンスは次第にエスカレートしていった。
洋一が皿のしょう油を舐めるだけでも「このしょう油の塩味は、私が社会で流した、努力の汗の結晶を凝縮したものだ」と、なんども暗唱しなければならなくなった。
さらに、雅代によって奇妙な新ルールが導入された。
雅代は、焼きなすを両手で持ち上げ、歌舞伎役者のような決死の形相で一気に齧りつく。
洋一は、味噌汁を一滴もこぼさぬよう、芸妓のように大仰でゆっくりとした所作を要求された。
ある夜の献立は、カレーライスだった。
雅代は、大盛りのカレー皿を洋一の前に置いた。
「さあ、お父さん。『普遍的な家庭の幸福を象徴する一品』を、どう表現するの?」
洋一は全身に力が入り、スプーンを持つ指も震えていた。
彼は必死に、カレーライスの持つ「格」に見合う最高のパフォーマンスを考えた。
やがて立ち上がり、カレー皿を抱きかかえると、真剣な顔つきで妻に言った。
「このカレーを『食べる』という凡庸な行為で汚すことはしない!この神聖な塊は『幸福の標本』として、ここに存在し続けるべきだ!」
洋一はカレー皿を頭上に掲げ、そのまま食卓から離れたかと思えば、サイドボードの中にカレーを丁重に飾り付けた。
「あ…あの、お父さん?」
雅代は呆然とした。
「どうだ。これで食卓の『格』は保たれた」
その日から、田中家の食卓には、まともな食事が並ばなくなった。
翌朝、リビングのテーブルには、半分に割った卵焼きだけが置かれていた。
「これは?」
「夫婦のすれ違いエッグよ」
「……食べていいのか?」
「アートを食べるなんて、あなたホントに格が低いわね」
「悪かったな」
当然のように彼らは裏で、カップめんやお菓子、缶詰や非常食、ネット宅配の寿司や牛丼をむさぼり食っていた。
「ダメだ……食卓の格を追求するのは、もう止そう」
「か、からだに悪そうね……」
夫婦が住むのは、築35年のマンションの一室だった。
子供たちは独立して使えるスペースが増えたものの、いつの間にか物置部屋になっていた。
特に不満はないが、特に誇れるものもない、ごく普通の3LDKだ。
ある日、雅代が久しぶりに居間の模様替をしていると、洋一が呟いた。
「いいじゃないか。これなら『ご立派な居間』と呼んでも差し支えない」
雅代は顔を上げた。
「……あなた、いま『ご立派』なとおっしゃいました?」
「ああ、言った。おかしかったか?」
「いいえ、おかしくはありませんわ。ただ、このソファーカバーとご立派な格が、釣り合ってませんから」
洋一は絶句した。
「格?居間に格があるのか?」
「そりゃあるわよ。この居間の格は、せいぜい『そこそこ悪くない』か、頑張ってもまあ及第点だわ。あなたの『ご立派な』という格には『ご立派な家具』が必要ですわ」
そこから夫婦の格上げ合戦が始まった。
「これは格が低いわね」
「いや、これはまだ許せる」
「リモコンが軽すぎるわ」
まず、平凡なプラスチック製だったテレビリモコンが、黒檀の重さ1キロもある『ご立派なリモコン』に変わった。操作性は最悪だ。
次に、リビングに飾る絵画が必要だと雅代は主張した。
「ご立派な居間には見栄えのするアートが不可欠だわ」
ネットで見つけて届いたのは、額装ばかりで、肝心の絵は指先ほどの大きさしかない『虚無への侮蔑』という抽象画だった。
「これ、絵なのか?」
額を指差して洋一が言った。
「意味不明だからご立派です」
雅代は満足げに言った。
つぎに雅代は、リビングに『ご立派な電話』を設置した。
とはいえ、ネットで買った金色に輝く電話はオモチャだったから、騙された雅代が怒りにまかせて設置した天井のパイプに、真鍮製のメガホンを繋いだだけの代物だった。
「これ何だ?」
「今日からこれが、あたし達の糸電話よ」
洋一が受話器のようにメガホンを手に取り「お茶」と言った。
メガホンは洋一の声を増幅し、天井のパイプを通って、もう一方のメガホンから「オオオオオチャアアアアアア!」と、重低音で響き渡った。
「その『お茶』っていうのは、この居間にしてはあまりに凡庸だわーっ!」
と雅代は大音量で言い返した。
ムッとした洋一は、精一杯格調高い言葉を選んでみた。
「…キョ、今日の夕食は、なにをお考え遊ばされたもうたのかーーーっ?」
「今宵は、太くて長いエビフライが最上であろうと存じますうぅーーーっ!」
やがて居間での会話は意味をなさなくなり、ただの音量合戦になっていった。
ある晩、雅代が洋一に問いかけた。
「あなたの人生における、最もご立派な達成とは、何でございますかー?」
洋一はメガホンを握りしめ、力の限り叫んだ。
「オオオオオオオ俺には、成し遂げた大仕事など、何もない!おれは、ごく普通の男だァァアアァァアア!」
洋一の「ごく普通の男」という格下げ発言が、雅代の「格上げ魂」を耐え難いものにした。
「バカっ!」
静まり返った居間で、二人とも、少し耳が遠くなっていた。
「…じゃあ、エビフライ、揚げますね」
雅代は静かに言った。
「…ああ」
ごく普通の会話の静けさを、ふたりは久しぶりに噛みしめた。🦐🥗

