ホウルディット🚻
(あと30分.…)
弁崎の腹腔内で脈打つクロノメーターは、彼の社会的存在の終焉まで、残り30分であることを告げていた。
(あの場末の中華がマズかったか……)
雑踏をゆく弁崎の姿は、奇妙なほどに静謐だった。
蠱毒のような爆弾を抱えながら、一歩、また一歩。
股関節のわずかな角度の誤差が、内なる深淵の蓋をこじ開けてしまうことを、脊髄が本能的に察知していた。
(……なんとか、耐えねば……)
不可逆の泥寧が、腹腔内でチェストバスターのように想定外の煽動を繰り返している。
出張先の見知らぬ街だった。
周囲の喧騒が遠のいてゆく。
広告や看板の光も、行き交う車や人々の嬌声も、今の弁崎にとってはただの背景に過ぎなかった。
(人はなぜ苦心して手に入れた食物をみすみす出すのか。この消化という不可逆のシステムにおいて、我々の存在……いや、ダメだ! 今そんなこと考えてる場合じゃない!あうっ!)
哲学したい左脳を右脳で強引に抑えつけて、とにかくお手洗いへと滑り込んだ。
大理石が艶やかに輝くホテルのエントランス。
あまりに清潔な空間は、汚濁を抱えた人体など拒絶しているかのような鏡のごとき映え方だった。
(よし、ここならイケる!)
活路を見出して化粧室の重厚なドアの前に立ったとき、彼は不吉な沈黙を察した。
『清掃中』
その三文字が、万里の長城のように眼前に立ちはだかる。
(くそっ……! 笑うな掃除のおばちゃん……!)
致し方なく弁崎は、隣のコンビニへと雪崩れ込んだ。
一目散に奥へと駆け込む。
(ここなら出せるっ!)
だが、ドアノブのわきには、最新型の電子パネルが鎮座していた。
『AIによる室内自動除菌中です。ご利用にはマイナンバーカードをかざしてください』
(ま、マイナンバーだと……!?)
カードなどショルダーバッグの奥底だ。
取り出すために前屈みになった刹那、直腸のすべてのゲートが決壊する。
「ピピッ!マイナンバーカードを確認できません。初めからやり直してください」
電子音声が非情に響く。
中から微かに漏れる動画音。先客の長引く気配。
さらに腹のなかで、マグマが次のフェーズへと移動を始めた。
待つ時間などない。
弁崎は冷や汗まみれで悶絶しながら、自動ドアを飛び出した。
汗が滝のように背筋を伝う。
次に目に入ったのは、軽快なジャズが流れる洒落たカフェだった。
カウベルを鳴らしてドアを開けると、芳醇な珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。
弁崎は一直線に奥の個室へと飛び込んだ。
(勝った……!)
腰を落としかけたその時、天井の「人感センサー」が赤く点滅した。
『ご注文が確認できるまで、ご使用になれません』
「お客様〜! お先にご注文をお願いしまぁーす!」
女性店員のムダに明るい声が響く。
(ちっ、注文だと……!? いま体内に入れる余地などあるか!!)
小腸内のサナダムシ群がグローブの拳で腸内壁を連打しているようだ。
店内のスタイリッシュにして優雅な雰囲気と、弁崎の体内に流れるカウントダウンが二重螺旋を描いて立ち昇ってゆく。
ここも彼の戦場ではなかった。
弁崎は背中でドアを押し開け、泳ぎ去るイセエビのように店を出た。
もはやまともに歩くことも儘ならない弁崎は、タカアシガニのような奇矯な歩行スタイルのまま、やっと駅ビル地下の多目的トイレの前に辿り着いた。すでにシャワーを浴びたような汗まみれだった。
(ここなら……!すべてを解き放てる!)
だが、生憎ランプは赤だった。
「使用中」
中から漏れ聞こえてくるのは、幼い子供の無邪気な声。
「パパー! ここチョロQ走れるよー!」
「マーくん!おっちんしなさいー」
「チョコクロたべる!」
(が、ガキだと……! )
弁崎の理性がまたひとつ、毛穴すっきりパックのようにベリベリと剥がれ落ちた。
蝉の幼虫のごとき心地で、ふたたび弁崎は地上に顔を出した。
またどこかのビルにスライディングする体力など残っていない。
トイレを求めて彷徨うエネルギーも、すべて一点の引き締めへと転用されていた。
ふと見ると、電柱の影に絶好の物陰があった。
(おお、わがサンクチュアリ!.…..ここなら誰も見てないだろ……)
弁崎はズボンのベルトに手をかけた。
カチャリ、とベルトのバックルを外しかけ周囲を見渡す。
電柱の陰。
自販機の裏。
……ハト。
「クルックぅ~クルックぅ~」
愛らしいハトが、首を振りふり弁崎を見つめていた。
(……なんで、こんなトコにいるんだよ)
つぶらな瞳で凝視する、カワラバトのメスらしいポッポと目が合う。
(なんでジッと見てるんだ……!)
首の皮一枚の理性をかろうじて繋ぎ止めながら、腹を押さえて弁崎はフラフラとまた歩き出した。
もはや限界を超えた弁崎の肛門括約筋は、バイオリンの極細弦のように悲鳴を上げていた。
意識朦朧としながら住宅街の路地裏を彷徨った。
こんな道端で野良犬のように出してしまえば、やっぱり捕まるんだろうな.…..と思いながら、いつしか弁崎は街区の児童公園へと辿り着いた。
木々に囲まれた薄暗い公衆トイレが、彼にはまるで神殿のように見えた。
なんとか個室に飛び込み、鍵をかける。
(勝った.…..人間としての尊厳を守り切ったぞ!)
安堵の涙を浮かべながら、ふと壁に目をやった彼は凍りついた。
ペーパーホルダーには、芯しか残っていない。
(……なぜだ……)
予備のロールもない。
ポケットティッシュ?持っているはずがない。
今日に限ってハンカチも忘れた。
ここで決壊させれば、指先で拭うほかに術はない。
昨夜テレビで見た深海魚の姿が浮かぶ。
水圧に耐え、己の形を保つことの崇高な美しさ。
(ダメだ……)
弁崎は項垂れたまま、ゾンビのような青い顔で公園を後にした。
ふと気がつけば、どこかのギャラリーに入っていた。
(イタリア現代アート展.…..)
瀟洒な空間に、ぽつんと置かれたホワイトレジンの物体。
(あ、あれは……まさに便器だ!おお……神よ……!)
ギャラリーの玄関に倒れ込んだまま、弁崎は自衛隊員のごとく匍匐前進で純白のレジンにすり寄った。
(い、イケる……!!)
なんとか便座にすがりついてトランクスをずり下げ、レジンの上に必死で尻をねじ込んだ。
その瞬間、背後に設置されたスピーカーから、アナウンスが響き渡った。
『作品に触れないでください』
「……な」
よく見れば、便器の蓋は固く閉ざされて動かない。
足元には『触れるべからず』の赤いテープ。
(これは.…..じゃないやつか!)
《沈黙の受容体》概念としての便器。
「あ……」
弁崎の中で、四十数年間積み上げてきた何かが、ドミノのごとく音を立てて崩壊した。
「……おお、カオスよ.…..」
もはや、蓋が開かないことなどどうでもよかった。
座面の上だろうが、芸術作品の上だろうが関係ない。
彼は最終ゲートを解き放った。
「うおおおっっ!!」
それは、言葉では言い表せない原初の咆哮だった。
処女の下腹のごとき純白のオブジェの上に、熱いマグマの奔流が勢いよく叩きつけられた。
異様な臭気がギャラリー内に立ち籠める。
すべてを出し切った弁崎は、虚ろな目で天井を見上げた。
そこには絶望も歓喜もなかった。
肉体という檻から解き放たれた、透明な虚無だけが漂っていた。
沈黙と静寂の中、なぜかパチ……パチ……と手が叩かれる音が聴こえた。
「ブラボー……!」
見上げると、短パンにアロハシャツを纏った、ちょい悪くさい外人さんが、弁崎を注視していた。
「素晴らしい……! 無機質な概念に、圧倒的リアリズムを衝突させるパフォーマンス! これぞ我々が求めていたアートだ!!」
何処からふって沸いたのか、カメラのフラッシュが焚かれる。
スマホをかざしながら集まってくる観客たちの惜しみない拍手。
「さっそくポストしよう!」
「これぞリアルぷぷとぴあだ!」
「サインしてくださいっ!」
弁崎は慌ててズボンを半ばまでたくし上げたまま、現代アートの傑作の横で、ただ呆然と立ち尽くしていた。🚽🧻

