#02 (当たり前だけど)建築は中身から考えるという鉄則
公共施設を整備していると、あるいは全国の公共施設を廻っていると、普通の建築とは全く違った建てられ方をしていると強く感じることが多々ある。
そんなことを今回のテーマにしてみようと思う。
みなさんがもし、住宅を建てる発注者だったとして、設計者・工務店・ハウスメーカーなどに対して、最初の打ち合わせでどのようなことを伝えますか?
おそらく、こんなやりとりが行われるのではないだろうか。
家族は何人いて、これから造ろうとする家にはこんなイメージを持っていて、敷地はここで予算はこれくらい・・・普通はこんな感じだと思う。
当然ながら「自分たち家族が住む」という中身があって、そこから話が発展していくのが一般的な流れだろう。
僕がもし設計者だとすれば、まず設計の前提条件として、住む人の人数や年齢構成などを聞くに違いない。
今回のテーマは、公共施設整備においては、そんな当たり前のことが行われていなかったりするということについて。
そんな公共施設の「闇の実情」を暴くとともに、じゃあどうすればそれを打開できるのかということに書いていこうと思う。
「投資+回収」という計算のない公共施設計画
オフィスビルやマンションなど一般的な収益型の建築においては、レンタブル比という指標を用いて、収益性を極限まで高めていくのが定石だ。
容積率いっぱいに建築した上で、レンタブル比を高くして収益率を上げるのは経営活動として至極当たり前のことである。
建設費に対して、何年で投資回収が完了するのかという、売上から逆算して施設の整備内容を決めなければ、そもそも銀行がお金を貸してくれないし、当然ながら建てる場所におけるマーケット規模も見なければならない。
ど田舎に超高層のマンションを建てたって、売れる訳がないのだ。
飲食店や物販店、小さな個人商店にしたって同様だ。投資回収の感覚がなければ、一瞬にしてそのビジネスモデルは破綻してしまう。
ところが、公共施設においてはその収益性という部分が抜け落ち、投資回収という指標はほとんど用いられることはない。
「公益性」や「公共性」という真っ当な言葉に置き換えられて、必要以上のハコが整備され、中身はからっぽということが起きてしまうのだ。
建てることが目的化?
割と最近のこと、PFI事業の相談に乗ってほしいとの依頼があり、とあるまちに行ったときの話だ。
担当:先般、新しい市長が就任したのですが、駅前にある公有地に複合施設を建設するという公約がありまして・・・
我々としては、それを従来発注ではなく、PFIでやろうと考えているのですが、どのように進めて良いのか分からないので相談に乗って欲しいのです。
川口:ところで、複合施設とおっしゃいましたが、何を作るのか決まっているのですか?
担当:いや、複合施設ということだけ決まっていまして、それ以外は何も・・・
一応、図書館は入る想定ですが、その他はこれから考えるところです。複合施設を造れば、寂れた駅前に”賑わい”が生まれるということで、市長公約の目玉になっているのです。
マジか?みたいな話だが、こういうのが割と平気で行われているのが公共施設という世界だ。そりゃまぁ転けますわな。
まちの人口や都市圏におけるポジション、市民のニーズや、展開すべきサービス内容の検証もないまま、公共施設の整備だけが先行して決まる。
上記のような事例は必ずしも普通ではないのだが、こういうプロセスを経て出来上がっていく公共施設も一定数あるというのが現実だ。
それなりに真っ当な議論がなされ、最後にはコンサルが登場して、中身のない公共施設に何億円、何十億円という莫大な予算が使われ、なおかつ出来上がってからも多額の維持管理費に頭を悩ませ、あげくお荷物扱いをされるという、悲劇の運命を辿っていく公共施設。
まぁプロセスを考えれば、そんな結果は当然の帰結だろう。
こうなった良いなという「幻想」に縛られている?
学校やこども園などでは「定員」という分かりやすい指標があり、標準モデルが存在するため、中身がないということは起こりにくいが、ここでもミスリードが引き起こされることがある。
それは「こうなったら良いな」とか「こうなるはずだ」という半ば幻想のような期待値だ。
子どもの数は年々減り続けていて、この先、余剰空間が生まれることは容易に想像がつくのだが、この手の施設を整備する際に、様々なバイアスがかかり、もしかしたら今後子どもが増えるかもしれない、という幻想を引き起こすことがある。
現実の数字は嘘をつかない・・・期待値、当然ながらそれは幻想である。
施設規模に少々の余裕値を持つことは必要ではあるが、過剰な期待値によって、必要のない大きさの施設が整備されることは結構あるもので、僕もそのようなことに疑問を抱きながら、施設を整備してきたこともある。
学校などに限らず、スポーツ施設や文化施設などでも同様のことが起こる。
市民のニーズとは全く異なった規模感の施設が整備されたり、新たなシンボルと称して、まちの規模には全くそぐわない庁舎や文化施設が建てられたり、立派な施設はまちに「賑わい」をもたらすと本気で考えている人たちが少数(年輩者に多いのが特徴)ではあるが一定数で存在する。
公共施設は立派でなければならないという「幻想」である。
そんな感性の人たちの声を聞き、間違った「幻想」によって、当事者不在の「空気感」で公共施設が整備されていく、これ悲しいかな、全国各地で行われている現実である。
いうまでもなく、そんな間違った「幻想」によって整備される公共施設は、出来上がってからも不幸な道を辿っていくこととなる。
中身がないという危険と隣り合わせ・・・文化財の保存
文化財の公共施設というのは非常に悩ましい存在だ。文化財であるということは、その歴史的価値の証であり、地域にそれがあるというはもちろん誇らしいことである。
一方で、文化財はその価値を後世に渡って保存しなければならないというミッションの上に存在しているということを忘れてはならない。
文化財=古い施設であるため、老朽化との闘いが行政的にとっては大きな課題だ。その老朽化に対して潤沢な資金を投じて、日常的な維持管理がなされていれば良いのだが、ボロボロになったまま放置されていることも多い。
ボロボロさが一定のレベルを超えると、保存のために大規模改修などが行われるのであるが、文化財の場合、保存ありきで、その中身がついていないこないことが多く見受けられるのも事実。
文化財の保存には、通常の建築以上に多額のお金がかかるのだが、当の文化財そのものがお金を生み出さないのでは、不幸極まりない存在となってしまう。
文化庁も近年では、保存と活用の両方が重要であると説いているが、活用に向けては、文化財のため制約も多いし、まだまだ稼ぐ文化財という実例も少ない。
ここで相当なビジョンを持ち合わせていないと、単なる保存事業で終わってしまい、中身はからっぽなんて悲しい結果にも繋がりかねないのだが、中身がなければ大きな投資は控えるべきである、というのが僕の個人的な思いだ。
未来永劫残していくのであれば、持続可能な中身をインフィルすべきであるし、それがなければもっと大切な何か(教育や福祉などの施策)を失っていくことになりかねない。
https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/shuppanbutsu/pdf/92099501_01.pdf
どうすれば、負のスパイラルから抜け出せるのか?
中身のないまま、あるいは間違った幻想によって整備される公共施設の闇について書いてきたが、持続可能な自治体経営を考えるのならば、当然そこからは脱却せねばならない。
具体的な処方箋は何かと問われれば、これまでの公共施設が辿ってきたプロセスから逆手を取るというのが、ひとつの回答になるだろう。
つまり、地域の現実と真剣に向き合い、マーケットをちゃんと読み、市民ニーズを捉え、投資回収や経営感覚を持った上で、必要最小限の規模を前提としつつ、華美な作りを排除して、公共施設の企画や整備にあたるべきだということである。
公共施設はこうあるべき、といった古い固定概念も、ありもしない幻想は、はっきり言って捨てるべきなのである。
公共施設はいったん整備されると何十年も存在するのだから、これから整備される施設は、これからの世代のニーズに合わしていかなければならないと僕は思う。
我々が生きている時代、ましてやこれから生きていく時代は、「もはや昭和ではないのだよ」ということを肝に命じなければならない。
そもそも、若い世代は公共施設をほとんど利用していないという現実を直視しない限り、過ちは繰り返されるばかりだ。
少しテクニカルなところを付け加えておけば、特に利用料金制を取る公共施設の場合、マーケット感覚の低い行政マンが前に出るのではなく、民間事業者に自由度を与えるのが常套手段となる。
行政が弱いところを補い、民間が強いところを活かしながら公民連携するということだ。
簡単に言うようだけれども、これが思ったほど簡単ではない。
だからこそ、必要で有益な情報をしっかり嗅ぎ取る能力がこれからの公務員には必要不可欠となるし、間違った公共施設を作らないための自己投資が重要になってくる・・・次回はそんなことにも触れていきたい。
