鉄のドア【ショートショート】
俺は毎週日曜の夜に鉄のドアを叩きに行く。駅から離れるにつれて明るく賑やかだった住宅街は落ち着きを纏い出して徐々に世界から切り離される。目的地である住宅街の端に着いた頃には人影は一切ない。しかも今日は雨だ。降り注ぐ雨の粒がカーテンのようにあらゆるものを遮断していた。俺は古く今にも崩れそうな家の横を通り裏庭へと足を進める。ここは足場が悪い。特に雨の日は最悪だ。一歩踏み出した瞬間にニュルッと足を持っていかれる。どんなに慎重に歩いても雨で力を得た泥たちはニュルニュルと足に吸い付いてくる。少しでも進めばあっという間に足が泥に飲み込まれてしまう。一度スニーカーが飲み込まれてからは長靴を履くようになったがそれでも意志を持った泥は容赦しない。まるで生き物だ。
俺はやっとの思いで泥を振り払うと裏庭を通り抜け、マニュアル通りに物置を目指す。そして支給された時計で22時ぴったり。重い鉄のドアを3回叩く。コン…コン…コン…という音が静かに響き渡る。他の音は雨の音だけ。ザァザァと物置の屋根を叩きつける音以外何もしない。俺は少しだけ触れた鉄の冷たさに今日も仕事を終えたことを実感して帰宅した。
次の日曜日。俺はいつものように鉄のドアの前にいた。しかし、いつもとは状況が違う。鉄のドアを3回叩いた後、ドアが開いた。ぬぅっと白い手が伸びて俺の腕を掴んだのだ。細い枯れた枝のような手。俺はどうするべきなのか頭をフル回転させた。これまで一度もドアが開いたことはなかった。ドアから伸びた白い手はギュッと力を込め、俺をドアの内側に引き寄せようとしている。俺はとっさに手を振り払い、背を向けて走りだした。マニュアルにはドアが開いたら逃げろと書いてあったのを思い出したからだ。
前日の雨のせいか今日も足場は悪かった。ニュルニュルと足に吸い付く泥を必死に振り払って進んだ。足の力だけでは吸い付く泥に勝てず両手も使って前に進んだ。泥は冷たく指先だけでなく爪の間までヌルヌルと入り込む。泥はいつの間にか腰ほどの高さまで大きく姿を変えどんどん身体を吸い込んで行く。生き物のようにうねり今にも身体を飲み込もうとしていた。どんなにもがいても身体は沈んで行くだけ。白い手の人物が追ってきているのかさえ分からなかった。ただ冷たくヌルヌルした感覚が身体を飲み込んでいった。
気づくと俺は裏庭に倒れていた。慌てて起き上がり携帯を確認すると時刻は12時。月曜日だった。メールボックスを確認すると「解雇」とだけ書かれたメールがあった。そう言えば仕事を始めた時も「採用」の2文字だけ送られてきたことを思い出した。あっけないものだ。
クビになった俺はもう一度裏庭に寝転んだ。昨日までニュルニュルと動いていたはずの泥たちはすっかり乾き、水が欲しそうなほどガサガサしている。指でなぞると一本の線ができた。昨日は自由自在に動いていた泥があっさりと指に沿って形を変えた。大きく目を開けて空を見ると雲が一つもない。宇宙まで見えていると感じるほど透き通った青だった。
カラスが一羽、気持ちよさそうに空を横切った。自由というものを見つけた気がした。
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