第三章 信用させる技術第一話 支払う男
人を信用させるために必要なのは、大きな約束ではない。
小さな事実だ。
少なくとも、私はこの事件を経験して、そう思うようになった。
最初から何も支払われていなければ、私はここまで深く岡本を信用することはなかっただろう。
約束の日に一円も入らない。
連絡も取れない。
説明もない。
そんな相手であれば、取引を止める。
誰でもそうするだろう。
しかし岡本は違った。
支払いがあった。
少なくとも、私の目の前には、
「岡本は実際に金を支払った」
という事実が残った。
この事実は大きかった。
言葉ではない。
約束でもない。
実際の金だった。
口座に数字が表示される。
その瞬間、それまで岡本から聞いていた説明が、現実のものに見えてくる。
――ちゃんと払う人なんだ。
その認識が、私の中に生まれた。
そして、一度できた信用は、その後の判断にも影響した。
多少支払いが遅れても、
「前は払ってくれたから」
と思う。
説明に少し分からない部分があっても、
「実際に支払いはあった」
という事実が、それを打ち消す。
これは後になって分かったことだ。
私は、その都度岡本をゼロから評価していたわけではなかった。
過去の支払い実績を、未来の支払い能力の証明として使っていたのである。
だが、
「過去に払った」
という事実と、
「次も払える」
という事実は違う。
まして、
「600万円を支払える」
ことの証明にはならない。
今なら分かる。
当時は分からなかった。
いや。
分からなかったというより、考える必要がないと思っていた。
岡本は支払っている。
だから大丈夫。
その単純な論理が、私の中で成立していた。
そして信用というものは、一度成立すると奇妙な働きをする。
疑う材料が現れても、
それを「例外」として処理するようになるのだ。
支払いが少し遅れる。
――何か事情があるのだろう。
連絡が遅れる。
――忙しいのだろう。
説明が変わる。
――状況が変わったのだろう。
普通なら警戒材料になる出来事が、
信用している相手の場合には、
「仕方のない事情」
へと変換される。
私は知らないうちに、岡本の説明を検証する側ではなく、
岡本の説明が正しい理由を探す側になっていた。
それでも、この時点ではまだ、私自身に強い危機感はなかった。
なぜなら岡本の背後には、さらに大きな「信用材料」があったからだ。
会社である。
岡本個人だけの話ではない。
株式会社オアシスという法人が存在する。
私はそう説明されていた。
個人間の曖昧な金のやり取りではない。
会社。
事業。
取引。
補助金。
それらの言葉が一つにつながったとき、岡本の話は単なる個人の約束ではなく、
「事業上の取引」
に見え始めた。
そして私は、さらに深くその話の中へ入っていく。
後から考えれば、
最初の支払いは金額以上の価値を持っていた。
それは単なる代金ではなかった。
私の中に、
「この人は払う人だ」
という前提を作ったからである。
その前提こそが、その後のすべての判断の土台になった。
信用とは、不思議なものだ。
何年もかけて築く場合もある。
しかし金銭取引の世界では、
たった一度の入金が、
何十枚の名刺よりも、
何時間の説明よりも、
強い信用を作ることがある。
私はそれを、
後になって知った。
そしてその信用の上に、次の物語が積み上げられた。
株式会社オアシス。
IT導入補助金。
そして、
まだ私の目には見えていない、
巨額の金だった。
