見出し画像

誘壁|【狸の掌編】

引っ越してきたばかりのアパートは、
ひどく静かだった。

荷解きを終えた段ボールの山が、
がらんとした部屋の隅で所在なげに佇んでいる。

部屋を見回すと、隣室とを隔てる薄い壁に、
人の影が滲んだような、
不気味な黒い染みを見つける。

私はこれから、この染みと共に暮らすのだ。
そう思うと、言いようのない孤独が胸に満ちた。


その夜、
眠りにつこうとベッドに潜り込んだ時だった。

壁の向こうから、不意に音がした。

トントン。

乾いた、控えめな音。

苦情だろうか。
だとしたら、もっと強い叩き方のはずだ。
私は息を殺して耳を澄ます。

しばらくすると、また。

トントン。

それはまるで、
挨拶をためらう内気な来訪者のノックのよう。

静寂に耐えかねた私は、
悪戯心が芽生えるのを感じながら、
すぐ隣の壁を指でそっと叩き返してみた。

トントン。

すると、少しの間を置いてまた音が返ってくる。

トントン。

それが顔も知らない隣人との、
最初の会話になった。


それから、壁を叩く音での奇妙な交流が、
私の日常にささやかな彩りを添え始めた。

朝、私が起きる気配を察してか、
壁から「おはよう」を告げる二度のノック。

夜、私が電気を消すと、
労うように「おやすみ」の三度のノックが響く。

私はいつしか、
顔も知らない隣人に親しみを覚えていた。

きっと私と同じように、一人で暮らす、
物静かで少し寂しがりな人に違いない。

そう思うと、あれほど不気味だった壁の染みさえ、
隣人の存在を伝える窓のように思えて、
どこか愛おしく感じられるようになっていた。


けれど、ある大雨の降る夜。

湿気を吸った壁の染みは、いつもより黒々と濃く、
輪郭を滲ませて大きく見えた。
泣き腫らした顔のように。

壁の向こうから聞こえてくる音は、
いつもの規則正しいものではなかった。

途切れ途切れに響くそれは、
まるで壁の向こうで
誰かが嗚咽を漏らしているかのようだった。

私は隣人が心配になり、壁にそっと耳を当てる。

「大丈夫ですか」

声には出さず、心の中で囁いた。
すると、ぴたりと音は止んだ。


それきりだった。
翌日から、壁の向こうは完全な沈黙に閉ざされた。

おはようの音もおやすみの音も、もう聞こえない。
日に日に私の胸は不安で満たされていく。

大家に尋ねてみようか。
いや、ただの隣人に
そこまで踏み込むのはお節介だろうか。

逡巡するうちに一週間が過ぎた。


もう、耐えられなかった。

私は壁の染みに向かい、すがるように手を触れた。
冷たくざらりとした感触。

「どうか、返事をしてください」

そう念じた、瞬間だった。

私の指先が、壁に、沈んだ。
濡れた和紙に吸い込まれるように。

ぞっとする感覚に手を引こうとしたが、もう遅い。

染みは生きた黒インクのように私の腕に絡みつき、
抗う間もなく、私の身体をじわじわと
壁の中へと引きずり込んでいく。


視界が闇に染まり、
やがて再び開けた時、私はそこにいた。

壁の中に。

身体は動かない。
意識だけが、
かつて私の部屋だった空間を眺めている。

私は、あの染みの一部になってしまった。


やがて、玄関のドアが軋みながら開く。

新しい住人が、訝しげな顔で部屋を見回している。

そして、かつての私のように、
壁の染みを見つけて眉をひそめた。

私はその人に、自分の存在を伝えたかった。

ここにいるよ、と。

壁の中から、私はありったけの力で音を立てる。

トントン。

新しい孤独が、静かに始まった。


他の作品もどうぞ⬇️



#創作大賞2025 #オールカテゴリ部門 #狸


いいなと思ったら応援しよう!