糸を抜く、愛を識る|【狸の掌編】
僕の指は、
彼女の運命を整えるためだけにあるのだと、
そう信じていた。
僕たちは皆、生まれたときから
自らの『天命布』を織り続けている。
日々の選択は縦糸に、出会いは横糸になる。
そして稀に僕のような『修布師』が生まれる。
他人の布に生じた災いの前兆
――揺らぎを修復する力を持つ者。
その代償として、
消した因果を自らの布に転写される、
呪われた存在だ。
僕の世界は、
恋人であるミナモの布を広げるためだけにあった。
陽の差す部屋で、僕は来る日も来る日も、
彼女の布に生じた虹色の揺らぎを摘み取る。
病の兆候、些細な怪我。
そのすべてを、僕は自らの布に引き受ける。
醜い染みとなって僕の布に刻まれるたび、
言いようのない安堵に満たされた。
彼女が永遠に幸福であるならば、
この身など惜しくはなかった。
しかし、いつからだろうか。
僕が彼女の布を完璧にすればするほど、
ミナモの笑顔から色が失われていく。
その瞳は磨き上げられた硝子玉のように、
何も映さなくなった。
ある朝、僕は彼女の布に、銀河のように美しい、
巨大な揺らぎを発見した。
これは彼女の人生を覆す災いだ。
僕は食事も忘れ、その修復に没頭した。
予測できない未来など、あってはならない。
そして、ついに最後の一本を整えた瞬間。
彼女の布は一点の曇りもない、
完璧な白の織物となった。
顔を上げると、そこに立っていたミナモは
ただ穏やかに、静かに、微笑んでいた。
感情というものが、
すっかり抜け落ちてしまった人形のように。
僕は悟った。ああ、間違っていたのだ。
絶望と共に、自らのぼろぼろになった布を広げる。
そこには僕が消してきた無数の因果が、
醜い染みとなってこびりついていた。
それをなぞった時、僕は本当の真実に気づく。
僕が消したのは災いだけではなかった。
新しい仕事への挑戦。見知らぬ街への旅立ち。
そして、僕以外の誰かと恋に落ちるはずだった、
輝かしい未来の揺らぎ。
僕はそれをすべて不幸と呼び、
彼女の人生から奪い取って、
この身に封じ込めていたのだ。
声にならない叫びと共に、
震える手で銀の針を握りしめた。
今度は修復するためではない。
僕はミナモの完璧な布に、祈るように針を突き立て、そっと、一本の糸を引き抜く。
ブツリ、と世界が軋む音がした。
僕が自らの手で作った、初めての揺らぎ。
その一点から光が溢れ、
僕が消した無数の輝きが布の上に蘇る。
ミナモの瞳に、色が、光が、ゆっくりと戻ってきた。
彼女は泣き出しそうな顔で僕を見て、そして笑った。
それは僕が本当に愛した、不確かで、危うくて、
どうしようもなく美しい笑顔だった。
彼女の布に蘇った揺らぎのひとつが、
ひときわ強く輝き、
未来の織り目を示唆しているのが見えた。
きっと彼女は僕のもとを去り、
新たな道を歩き出すのだろう。
僕は、そのどうしようもない未来を、
ただ静かに受け入れる。
重い岩を、ふと下ろすように。
コントロールするという執着を手放した僕の心には、深い解放感が満ちていた。

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