貌剥師は愛を剥がせない|【狸の掌編】
油絵の具と古い木の匂いがするアトリエの空気。
俺の仕事は、その匂いの中で完結する。
人は俺を『貌剥師』と呼ぶ。
肖像画に塗り込められた嘘の層。
それを指先の熱で融かし、剥がし、
その下に眠る本当の貌を呼び覚ますのが生業。
嘘は人の貌を変える。
安堵のための嘘は、絵肌に薄い膜を張る。
欺くための嘘は、粘つく泥のようにこびりつく。
俺は自らの魂を燃やすように、指先に集める熱で、
一層一層、それを丹念に剥いでいく。
真実こそが至上で、
嘘はただ暴かれるべき澱だと信じていた。
あの日、あの『偽貌画』が届くまでは。
差出人不明の小包。中には、一枚の肖像画。
描かれているのは、
二年前に死んだはずの俺の恋人だった。
だが、そこに描かれた女の貌は冷たく硬い。
まるで能面のような無表情。
俺が愛した彼女の柔らかな微笑みは、
厚い嘘の層の下に塗り込められている。
「誰が、こんな嘘を」
怒りと使命感が俺の指先に熱を帯びさせる。
貌剥師としての技術の全てを懸けて、
お前の本当の貌を取り戻してやる。
それが、俺にできる唯一の弔いだと思った。
指先を肖像画の頬にそっと当てる。
じり、と魂が焦げるような感覚と共に、
指先から伝わる熱が嘘の層をわずかに融かす。
一層目を剥がすとふわりと春の陽光の匂いがした。
甦るのは、
公園のベンチで無邪気に笑っていた彼女の記憶。
二層目を剥がす。今度は夏の潮風の香り。
旅行先の海ではしゃぐ彼女の姿が瞼をよぎる。
剥がすごとに甦る幸せな記憶が、
この仕事の正しさを俺に確信させた。
だが、作業を進めるほどに、
絵肌は頑なになっていく。
まるで、内側から必死に抵抗するように。
秋の落ち葉の匂いの層を剥がす頃。
指先は灼けるように痛み、
甦る記憶も少しずつかげりを見せ始めていた。
「
もうやめて、って言ってるのか?
馬鹿を言うな。
お前は、嘘なんかつく人間じゃない
」
俺は自分に言い聞かせ、最後の嘘の層に指をかける。
冬の冷たい空気の匂いがする。
指を当てた瞬間、脳裏を灼いたのは白い病室の風景。
薬の匂い。細く冷たくなっていく彼女の手。
そして、消え入るような声で
「大丈夫よ。心配しないで」
と、笑ってみせた彼女の貌。
――それが、嘘だった。
「ああ、」
息が詰まる。
この肖像画に込められた抵抗の正体は、
彼女自身の想いだった。
この最後の記憶と痛みを俺から隠そうとする想い。
全ての力を振り絞り、指先に魂の炎を集めた。
これが最後だ。この嘘の下に、
本当の悲しみを湛えたお前の貌があるはずだ。
それを受け止めて、俺はこの長い喪失を終わらせる。
最後の一層がぱり、と音を立てて剥がれ落ちた。
そこに現れたのは、悲しみに歪む貌ではない。
涙の痕ひとつない、完璧なまでの「微笑み」。
病室で俺に「大丈夫」と言った時と全く同じ。
無理に作った痛々しいほど優しい、嘘の笑顔。
その下には、もう何もなかった。
空っぽのキャンバス地が覗いているだけ。
「そっか、、、」
声が、震える。
彼女は悲しみを隠していたんじゃない。
彼女の最後の貌そのものが、この「嘘」だった。
俺が前を向いて歩き出せるように。
俺の記憶の中で、いつまでも笑っていられるように。
彼女が遺した最後の言葉であり愛の形。
それが、この偽貌画の正体。
そっと肖像画から指を離す。
もう剥がすものなど何もない。
俺は彼女の最後の嘘ごと、彼女を愛そうと決めた。
アトリエの壁。
一番陽の当たる場所に、彼女の肖像画を飾る。
嘘で塗り固められた、
世界で一番美しく愛しい人の貌。
その微笑みに見守られながら、
止まっていた自分の時間を、そっと動かし始める。

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