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消滅|【狸の短編小説】

私は、欲というものが何であるか、
正確には理解していない。

世界はぼんやりとした色彩で、
音も輪郭も曖昧としていた。

食事はただ生命を維持するための作業であり、
誰かと話すことは疲労を伴う儀式。

何かを成し遂げたい、誰かに認められたい、
素晴らしいものに触れたい。

そういった「欲」が、
私の内側にはまるで存在しなかった。

まるで、私という存在が、
最初から何かの機能を欠いたまま
生まれてきたかのよう。

それでも、生きてこられた。
ただひとつの、
あまりにも巨大な存在があったから。

親は全てだ。

何も求めなくても、ただそこにいるだけで、
食事を用意し、住処を与え、
時折優しい言葉をかけてくれる。

社会との唯一の接点が親だった。

無気力な毎日を、
飽きることなく見守り、支え続けてくれた。

親の存在が、世界に唯一の秩序と、
かすかな温もりを与えていた。

自ら動くことなく、
親という巨木に寄生する
蔓植物のように生きている。

それが、「生きる意味」だったのかもしれない。

いや、意味など最初から必要なかった。
ただ、親がいるから、呼吸をしていた。


その親が、ある日突然、静かに息を引き取った。

病院の白いシーツの上で、
親の顔は穏やかだった。

ただ、そこには、いつもの温かさも、
包み込むような眼差しもない。

それは、世界から、
根こそぎ色彩が奪われた瞬間だった。

ぼんやりしていた世界が、
さらに無機質で冷たい
モノクロームに変わっていく。

葬儀、事務的な手続き。

全ての出来事が、
遠い世界の映像を見ているかのよう。

感情は、すでに干上がっていたのかもしれない。
涙も出ず、悲しみという感情も湧かなかった。

ただ、巨大な空虚が、
胸の中央を占拠するのを感じる。

親がいなくなった家は、
途端に巨大で冷たい箱と化した。

親の残した遺品を前にしても、
何の感情も湧かない。

ただ、物がそこに
「ある」という事実だけがあった。

朝が来ても、起きる理由がない。
昼が来ても、食事を作る気力もない。
夜が来ても、眠りにつく必然性も感じない。

ただ、部屋の隅で、
ぼんやりと天井を見つめている時間が長くなる。

時間の流れが曖昧になり、
外界の音も、窓から差し込む光も、
意味を持たない。

親を失った私は、
社会との唯一の繋がりを断ち切られた。

私のスマホに連絡が入ることはなく、
私宛の郵便物が届くこともない。

誰とも会わず、誰とも話さず、
ただ、その場に「いる」だけになった。

飢えを感じても動かない。
寒さを感じても、
毛布をたぐり寄せることすら億劫。

肉体と精神が、ゆっくりと、
しかし確実に乖離していくような感覚。

意識は、
次第に薄膜の向こう側へと吸い込まれていく。

存在は、水面に広がる波紋のように、
次第に消え去っていった。

かつて私を形作っていた五感の全てが、
その鋭さを失い、ぼやけていく。

匂いはなくなり、味は消え、音は遠ざかり、
触れるものの感触も曖昧になった。

そして、視界も。

存在を繋ぎ止めていた、かすかな重力が、
ゆっくりと失われていくのを感じた。

もう、何も感じない。
何も、欲することもない。
もうここには「いない」。

いや、


***


人間は、確かにどこかへ消えた。

残されたのは、
静寂に満ちた空の部屋と、
人間が存在したかすかな記憶の残像だけ。




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