雨刻計(うこっけい)|【狸の掌編】
忘れさられたような一角。
そこは、過去の時間を売る店。
煤けたガラス窓の向こう、
薄暗い店内の片隅でそれは静かに呼吸をしていた。
ガラスのドームに覆われた真鍮製の時計。
文字盤には数字も針もなく、
代わりに水盤のような浅い窪みが設えられている。
値札には、
万年筆のインクで震えるように『雨刻計』とだけ。
「そいつは変わり種でね」
店の主人が、茶色く染まった歯を見せて笑った。
「
雨が降る時だけ、時を告げる。
針の代わりに、雨粒の音でな。
」
雨の音で時を告げる時計。
その詩的な響きに、すっかり心を奪われてしまった。
私はそれを買い取り、
埃っぽい箱から取り出して、自室の窓辺に置いた。
晴れた日には、
ただの美しい沈黙のオブジェでしかなかった。
数日後、最初の雨が降る。
灰色の雲が空を覆い、
アスファルトを叩く音がしとしとと部屋に満ちる。
すると、予言通り『雨刻計』が微かに震え始めた。
ガラスのドームの内側が、
まるで結露するかのようにじんわりと湿っていく。
やがて、どこからともなく音が届いた。
時計そのものからではない。
部屋の空気全体が振動するような、
不思議な聞こえ方だ。
――タタタッ、
と階段を駆け上がる慌ただしい足音。
――そして、ドアを必死に叩く音。
ドン、ドン、ドン、と。
音はそれきりで、あとはまた雨の音だけが残った。
私は息を詰めていた。
これは、時を告げる音などではない。
これは記憶だ。
この時計が過去に吸い込んだ、
誰かの切羽詰まった瞬間の記録。
私はそう直感した。
誰かに追われていたのだろうか。
それとも、大切な誰かに会うため、
焦っていたのだろうか。
見知らぬ誰かの過去に思いを馳せる、
奇妙で、少しだけ甘美な時間。
雨が降るたびに、時計は同じ音を再生する。
私はいつしか、その音にすっかり慣れ親しんでいた。
階段を駆け上がる足音は七歩。
ドアをノックするのは、強く三回。
私はそれを、
古い映画のワンシーンを繰り返し観るように、
静かに聴き入るだけだった。
その夜は、土砂降りの雨だった。
私は、取引先から預かった重要な書類を収めた鞄を、電車の網棚に置き忘れたことに気づき、
血の気が引く思いで駅へと引き返していた。
終電はもうない。
ずぶ濡れになりながらタクシーを拾い、
必死で自分のアパートへ戻ってきた。
もし、あの鞄が見つからなかったら。
冷たい雨が、焦りばかりを煽る。
アパートの錆びた階段を、
息を切らしながら駆け上がる。
一段飛ばしで、タ、タ、タ、と。
自分の部屋のドアの前で、
濡れた手でポケットを探る。
ない。鍵がない。
鞄の中だ。あの、失くしてしまった鞄の中に。
絶望が全身を叩きのめす。
私はほとんど無意識に、ドアを叩いていた。
誰かがいるわけでもないのに。助けを求めるように。
ドン、ドン、ドン。
その瞬間、私は凍りつく。
部屋の中から、聞き慣れたあの音が聞こえてくる。
階段を駆け上がる、慌ただしい足音。
そして、ドアを叩く音。
部屋の中から聞こえるその音は、
今まさにドアを叩いている、この私の音だった。
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