一杯の記録|第61話 春鹿 立春朝搾り(奈良・ならまち)
一杯の酒から、その土地をたどる。
奈良・ならまち。
古い時間が重なる町だ。
寺の屋根が連なり、
細い路地の奥に、
静かな暮らしが息づいている。
朝はまだ冷たい。
冬の気配を残した空気が、
町の中をゆっくり流れていく。
春鹿 を醸す今西清兵衛商店は、
この町で酒を造り続けてきた蔵だ。
品格を重んじ、
浮ついた華やかさに流されない。
米と水、
そして季節の流れ。
その中で、
酒は静かに形を持っていく。
立春の朝。
搾られたばかりの酒が、
清らかな新しい季節を告げる。
春は、
まだ始まったばかりだ。

さて、本題。
立ち香は、やわらかい。
朝露をまとったような、
静かな香り。
口に含むと、瑞々しい。
生まれたての息吹が、
舌の上で凛とはずむ。
甘みは淡く、
旨みも控えめに広がる。
派手ではない。
けれど酒は、
まっすぐに伸びていく。
まだ若い。
それでも、
どこか落ち着いている。
後口は、きれいだ。
研ぎ澄まされ、
余計なものを残さず、すっと引いていく。
冬の空気を残したまま、
春が、静かに動きはじめる。
この一杯は、
そんな“春の最初の呼吸”として、ここに記録しておく。
