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これも本当の僕です

中学3年生の頃、僕はクラスにまったく馴染めませんでした。

家庭科の授業で、調理実習の班を決める日がありました。

その日、僕はどうしても学校へ行きたくありませんでした。

家を出ることはできました。

けれど、学校へ向かうことはできませんでした。

通学路の途中にある、人目につきにくい場所で、道路を何度も行ったり来たりしながら時間を潰していました。

今振り返れば、学校を休むと家で言うことも、教室に入ることもできず、その中間で立ち止まっていたのだと思います。

当時、父は慢性腎不全という病気にかかっていました。

家庭の中は以前より暗くなり、母も精神的にかなり参っていました。

そんな家に、学校から「息子さんが来ていません」と連絡が入ります。

両親は必死になって僕を探しました。

そして、通学路をウロウロしていた僕を母が見つけました。

母は泣いていました。

その姿を見たとき、僕はとんでもなく悪いことをしてしまったと思いました。

ただ、当時の僕も、家族を困らせようとして学校へ行かなかったわけではありません。

行かなければいけないことは分かっている。

両親に心配をかけたくないことも分かっている。

それでも、教室へ入ることができなかったのです。

翌日、学校へ行くと、クラスメイトたちは僕が意図的に学校へ来なかったことを知っているようでした。

僕は担任の先生が事情を内緒にしてくれていると思っていたので、なぜみんなが知っているのだろうと不信感を抱きました。

さらに、その先生から自分を過小評価されているように感じることもありました。

僕が公立高校に合格したとき、先生はひどく驚いていました。

先生から見れば意外だったのかもしれません。

でも、僕自身は受かると思っていました。落ちることなど、ほとんど想像していませんでした。

「この先生は、僕の何を見ていたのだろう」

そんな気持ちが残りました。

僕が学校や先生という存在に対して懐疑的になったのは、この頃からかもしれません。

もちろん、すべての先生が悪いとは思っていません。

実際、僕のことを認め、文章を褒めてくれた先生もいました。

それでも、学校という場所が、一人ひとりの事情や苦しさを丁寧に見てくれるとは限らない。

「普通に通うことができない人」に対して、本人の内側で何が起きているのかよりも、問題行動として処理されてしまうことがある。

僕は、自分の体験を通じてそう感じるようになりました。

その後、僕は高校を卒業し、会社へ就職しました。

途中までは、進学して、就職して、働き続けるという一般的なレールの上を進んでいました。

けれど、途中で無理になりました。

会社を辞めてからは、無職だった期間も長くありました。

現在はアルバイトをしています。

働いて収入を得られていることには意味があります。

それでも、今の働き方に心から納得しているわけではありません。

僕の中には、今も「いつか雇われる働き方から離れたい」という気持ちがあります。

以前の僕は、節約やミニマリズムを強く肯定していました。

欲しいものを我慢し、支出を減らし、できるだけ小さく暮らす。

それも一つの生き方だと思います。

ただ最近は、節約することだけを人生の中心にして、本当に満足できるのだろうかと考えるようになりました。

老後の不安だけを理由に、今を我慢し続ける。

お金を使わず、失敗もせず、できるだけ波風を立てずに寿命まで生きる。

僕は、それだけを目標にはしたくありません。

大きな贅沢をしたいというより、自分が本当にやりたいことに、お金や時間を使えるようになりたいのです。

その選択肢の一つとして、僕は最近、少額でFXの検証を始めました。

現在は100通貨で取引しています。

今の目的は、一気にお金を増やすことではありません。

自分で決めた売買ルールに再現性があるのか。

連敗したときにもルールを守れるのか。

長期的に見たとき、本当に利益が残る可能性があるのか。

まずは最低100回の取引を行い、記録を集めるつもりです。

FXを人生を一発で逆転させる裏技だとは考えないようにしたいです。

むしろ、お金が絡むほど、自分の期待や欲が判断を狂わせる可能性があります。

だからこそ、最初は小さく試します。

結果が出なければ、やめることも含めて考えます。

僕が欲しいのは、派手な成功物語ではありません。

「雇われる以外にも、自分で選べる道がある」

そう思える、小さな可能性です。

先日、僕は感情のままに記事を書きました。

これまで心の中にためていた、学校への不信感、社会への怒り、働くことへの抵抗感が、一気に文章へ出てきました。

普段の僕の記事とは、かなり雰囲気が違ったと思います。

読み返してみると、怒りが強すぎて、物事を一方向から断定してしまっていた部分もありました。

それを「本当の自分だから」と、そのまま正当化するのも違うと思いました。

怒っている僕も、本当の僕です。

社会に疑問を持つ僕も、本当の僕です。

一方で、慎重に考えたい僕も、人を傷つけたくない僕も、極端な考えに流されたくない僕も、本当の僕です。

だから、この記事のタイトルは「これが本当の僕です」ではなく、

「これも本当の僕です」

にしました。

僕はこれからも、普通のレールに無理やり戻るつもりはありません。

ただし、焦って危険な近道を選ぶのでもなく、自分に合う道を少しずつ探していきたいです。

100通貨の取引も、今のアルバイトも、noteを書くことも、その途中にあります。

まだ答えは出ていません。

それでも、誰かが決めた普通ではなく、自分が納得できる生き方を探す。

今の僕にできるのは、そのための小さな実験を続けていくことだと思っています。