コップ一杯の水と、生物多様性に値段をつける市場 — 弱いシグナルを読む vol.3
川の水を一杯採取するだけで、その流域に何種類の魚が生息しているかがわかります。
環境DNA(eDNA)と呼ばれる技術です。
生物を捕獲したり目視したりせずに、水や土壌に残るDNAから生態系全体を把握できます。
こうした計測技術が広がるなかで、生物多様性を「測る」だけでなく、「評価する」「取引する」ための制度づくりも始まっています。
「弱いシグナルを読むシリーズ」では、世界のどこかで現れ始めた小さな変化を手がかりに、その背景にある問いを探っていきます。
広がる観測網
この技術を提供する企業の一つが、英国のNatureMetricsです。サービスはすでに110カ国以上、600社以上の企業に利用されているといいます[1]。
2025年1月には、気候テック投資会社Just Climate主導で2,500万ドルの資金調達も完了しました[1]。
生物多様性を計測する技術やサービスも広がりつつあります。
日本でも、同じような観測網が広がっています。
東北大学が主導するANEMONEです。全国の沿岸、河川、湖沼を対象にしています。
2022年の公開時は861地点・885種でしたが、2025年4月時点では1,941地点・1,300種以上へと広がっています[2]。
市民ボランティアも全国から約830人が参加しています[2]。
2025年3月には、ANEMONE GlobalがUNESCOが主導する「OCEAN DECADE ACTION」に採択されました[2]。日本国内で培ったeDNAによる観測手法を海外の研究機関と共有し、12カ国・地域以上、16の研究グループとともに海洋生物多様性データを集める取り組みです。
生物多様性を継続的に計測する仕組みは、研究機関だけでなく、市民や企業を巻き込みながら広がりつつあります。
取引される自然
欧州委員会は2025年7月7日、「ネイチャークレジット・ロードマップ」(COM(2025)374 final)を公表しました[3]。
農地や湿地、森林の生物多様性を回復させた農家や土地所有者、保全管理者にクレジットを発行し、民間資本を動員する枠組みです。2025年から2027年にかけて、専門家グループの設置や認証方法論の整備を段階的に進める計画です[3]。
2026年1月1日、米国の認証団体Verraも、2024年10月に公表した「Nature Framework」の認証プロセスを全面開放しました[4]。
保全・回復活動によって生まれた生物多様性の成果を定量化し、クレジットとして発行するための枠組みです[4]。どの活動を「自然を回復させた」とみなすのかを定めようとする試みです。
日本では、佐賀県唐津市とみずほFGが「唐津ネイチャーファイナンス研究会」を設立しています[5]。
唐津市を実証フィールドとして、生物多様性の価値を評価し、将来的なネイチャークレジットの仕組みづくりを検討する取り組みです[5]。地域の自然をどのように評価し、資金循環の仕組みに組み込めるのかを探る試みでもあります。
生物多様性を測る仕組みだけでなく、それを価値として扱う仕組みも各地で現れ始めています。
まだ測れていないもの
カーボンクレジットには「CO2換算トン」という共通の単位があります。
一方、生物多様性には、まだそれに相当する単位がありません。
2024年、王立学会紀要に発表された論文で、Wauchopeらは、複雑な生物多様性を一つの数字に還元することの難しさを指摘しました[6]。
また、別の議論として、環境価値を市場で扱う難しさは、すでにカーボンクレジット市場でも表面化しています。
2023年、Guardian紙などの調査報道により、Verraが認証していたレインフォレストの炭素クレジットの90%超が、実際の排出削減を伴っていない可能性が指摘されました[7]。
欧州のシンクタンクBruegelは2025年7月、自然の市場が厳格な基準と検証の仕組みを欠けば、カーボン市場と同じ失敗を繰り返すおそれがあると指摘しました[8]。
さらに、計測技術そのものにも限界があります。
eDNAで生物を識別するには、その種の遺伝情報がデータベースに登録されている必要があります。マーカー遺伝子や地域、データベースの整備状況によっては、採取した配列のうち参照先が見つからないものが最大9割に達するとした研究もあります[9]。
「自然が回復した」とは、何をもって言えるのでしょうか。
参考文献
[1] NatureMetrics『NatureMetrics Raises $25M Series B to Scale Biodiversity Monitoring Tech』2025 https://www.naturemetrics.com/news/naturemetrics-secures-25m-series-b-funding
[2] 東北大学WPI-AIMEC『ANEMONE Globalが本格始動/UNESCO OCEAN DECADE採択』2025 https://wpi-aimec.jp/news/1958/
[3] European Commission『Roadmap towards Nature Credits』COM(2025) 374 final, 2025 https://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/?uri=celex:52025DC0374
[4] Verra『Verra to Open Nature Framework Certification Process Widely』2025 https://verra.org/verra-to-open-nature-framework-certification-process-widely/
[5] みずほリサーチ&テクノロジーズ『「唐津ネイチャーファイナンス研究会」の設立』2026 https://www.mizuho-rt.co.jp/company/release/2026/20260121_release_jp.pdf
[6] Wauchope, H. S. et al.『What is a unit of nature? Measurement challenges in the emerging biodiversity credit market』Proceedings of the Royal Society B, 2024 https://royalsocietypublishing.org/rspb/article/291/2036/20242353/
[7] Patrick Greenfield『Revealed: more than 90% of rainforest carbon offsets by biggest certifier are worthless, analysis shows』The Guardian, 2023 https://www.theguardian.com/environment/2023/jan/18/revealed-forest-carbon-offsets-biggest-provider-worthless-verra-aoe
[8] Bruegel(Heather Grabbe)『How could nature markets provide new finance for biodiversity?』2025 https://www.bruegel.org/newsletter/how-could-nature-markets-provide-new-finance-biodiversity
[9] Mathon, L. et al.『Fine-Grained Assignment of Unknown Marine eDNA Sequences Using Neural Networks』2025 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC12897059/
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