見出し画像

捨て活航海日誌|100円の観葉植物を枯らして気づいた、「生きるもの」を手放す本当の重み

3つの小さな鉢植えとの出会い

「部屋に、もう少しだけ余白と潤いが欲しい」

そう思い立ったのは、去年のゴールデンウィークの頃でした。日々、不要なモノを削ぎ落とし、身軽で心地よい暮らしを追求するなかで、私の目には部屋の隅に少しばかりの「緑」が必要なように映りました。

向かったのは、近所にある100円ショップです。当時の私は「まずは手軽に始めてみたい」という、いささか安直な気持ちを抱いていました。園芸コーナーの片隅で、ひときわ元気に、そして可愛らしくこちらを見上げていた3つの小さな苗。代金はわずか330円でした。

たった数百円で手に入る、洗練された暮らしの演出。そんな手軽さに惹かれたのも事実です。当時の私にとって、それらは「インテリアを彩る素敵なアイテム」のひとつであり、その先に待っている命の重さや、別れの際の手間についてまで深く考えが及んでいたわけではありません。小さなポリポットに入った緑を抱えて帰宅したあの日の私は、これから始まる「育てる」という日々の営みに、ただただ淡い期待を寄せていたのです。


三者三様の運命:育てやすさと現実

迎え入れた当初は、どの鉢も同じように瑞々しく、部屋を明るく彩ってくれていました。しかし、月日が経つにつれて、その運命は残酷なまでに三者三様に分かれていきました。

まず一つ目の鉢は、わずか三ヶ月ほどで元気がなくなってしまいました。「なんとか助けたい」と思い、まだ生きていた若芽を摘み取って水に挿し、根が出るのを待ってから丁寧に新しい土へ移植しました。再生を信じて毎日声をかけ、見守りましたが、その願いも虚しく、結局そのまま根付くことはありませんでした。

二つ目の鉢は、厳しい冬を越すことができませんでした。おそらく「冬枯れ」だったのでしょう。春の訪れを感じる頃には、あんなに鮮やかだった葉が痛々しい褐色に染まっていました。一方で、三つ目の「カポック」だけは驚くほど元気に育ち、今も次々と新しい芽を出し続けています。

後になって調べてみると、枯らしてしまった二種類も、決して育てるのが難しい品種ではありませんでした。むしろ「丈夫で初心者向け」とされるものです。「100円ショップの苗だったからだろうか」「それとも、私の育て方が悪かったのだろうか」。今となっては、その本当の理由はわかりません。ただ、同じように水をやり、同じ場所に置いていても、命の行く末はこれほどまでに分かれてしまう。モノであれば同じ型番なら同じように機能しますが、植物には規格化できない「命」があるのだという事実を、私は枯れゆく葉を前にして痛感せざるを得ませんでした。


「手放す」という工程の複雑さに向き合う

枯れてしまった二つの鉢を前にして、私はついにそれらを「手放す」決心をしました。

普段からシンプリストとして、不要なモノを整理し、部屋に余白を作ることを信条としている私にとって、役目を終えたモノを手放すことには慣れているつもりでした。しかし、今回の「手放し」は、これまで経験してきた古着や家電の処分とは、全く質の異なるものでした。

まず直面したのは、処分のための工程が思いのほか複雑だという現実です。植物を「さよなら」させるには、ただゴミ袋に入れるだけでは済みません。まずは鉢から株を引き抜きます。土を落とすと、そこにはかつて水を吸い上げようと必死に伸ばしていた根が張っていました。見た目には決して元気な根ではありませんでしたが、かつて確かに動いていた生命の痕跡が、土の感触と共に指先から伝わってきます。

そして、ここからが「分別」の作業です。命を終えた植物本体は可燃ごみへ。鉢は陶器製だったので不燃ごみへ、鉢受けの皿はプラスチック製だったのでそれも別へと、素材ごとに細かく分けていく必要があります。一つの命を部屋に迎え入れるときは、「330円」を支払うだけで一瞬でした。しかし、それを手放すときには、これだけの物理的な手間と、何とも言えない心の重みが伴うのです。

水をやり、成長を楽しむ時間は確かに豊かなものでした。しかし、私たちはその裏側にある「終わりの責任」をどこまで想像できていたでしょうか。枯れた植物を分別しながら、私は自分の身勝手さを省みずにはいられませんでした。モノであれば壊れたら「廃棄」ですが、植物には「死」があります。バラバラに分別して送り出すという作業は、まるで命を軽んじてしまった自分への罰のようにも、あるいは最後にしてあげられる唯一の弔いのようにも感じられたのです。


21年生きた猫と、100円の植物に共通する「責任」

植物たちの後始末を終えたちょうどその頃、実家の父から一通の連絡が入りました。長年、家族同然に過ごしてきた飼い猫が、息を引き取ったという知らせでした。

その猫は、21年という長い歳月を生き抜きました。人間に換算すれば、およそ95歳の大往生です。父の言葉から伝わってきたのは、深い喪失感と同時に、どこか清々しいほどのやり遂げた感覚でした。

動く動物と、動かない植物。そこにある命の形は違います。しかし、どちらも人間の都合で迎え入れた以上、そこには等しく「人生(個体としての生)への責任」が生じます。彼らは自分の意思で私たちの家に来たわけではありません。人間の世話がなければ生きていけない環境に置かれ、そこで一生を過ごします。だからこそ、その命が尽きる瞬間まで見守り、適切に最期を整えることは、育て主としての最低限の義務なのです。

21年寄り添った猫であっても、100円ショップの鉢植えであっても、その本質は変わりません。「安いから」「手軽だから」という理由は人間側の都合に過ぎません。命あるものを手に入れるということは、彼らが全うするその日まで、喜びも、苦労も、そして最後の始末までも引き受けるという「覚悟」を買い取ることでもあるのだと、父の知らせをきっかけに強く再認識させられました。


モノではなく「命」を卒業させるということ

これまで私は、数えきれないほどの「モノ」を手放してきました。しかし、今回の経験は、モノを「捨てる」という感覚よりも、命を「卒業させる」という感覚に近いものでした。

どれほど小さな鉢植えであっても、それらは私の部屋で確かに呼吸をし、ひとときの安らぎを与えてくれた存在です。だからこそ、分別の手間を惜しむのではなく、これまでの感謝を込めて、最後の手続きを丁寧に行う。その一連の動作こそが、命を預かった者の礼儀なのだと思います。

「手放す」とは、決して無責任に投げ出すことではありません。むしろ、その存在が自分に与えてくれた価値を認め、最後まできちんと責任を持ち、納得して見送る。このプロセスを経て初めて、私たちはその経験を自分の糧にし、次の一歩を踏み出すことができるのです。

今、私の部屋には、最後に残ったカポックが青々と葉を広げています。枯らしてしまった二つの鉢が教えてくれた「命を預かる重み」を胸に、私はこれまで以上に愛おしさを持って、この小さな緑に水をやっています。

生きるものを迎えるときは、慎重に。 共に過ごす時間は、懸命に。 そして別れのときは、深い感謝を込めて。

モノがあふれる現代だからこそ、シンプリストとして、そして一人の人間として、これからも「命の責任」に誠実に向き合っていきたい。今回の手放しは、私にそんな新しい覚悟を刻んでくれました。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。


いいなと思ったら応援しよう!

ダイさん いただいたお気持ちは、クリエイターとしての活動費に使わせていただき、より良い記事という形で還元させていただきます。