『君に会わなかった日のほうが少ない』 第2話 五分だけ遠回り
菜沙と初めて一緒に帰った日は、雨だった。
朝から降り続いていた雨は、
夕方になっても止まなかった。
窓の向こうでは、
濡れた街が少しずつ夜の色に変わり始めていた。
仕事を終えたのは、
いつもより少し遅い時間だった。
パソコンを閉じ、
鞄を持ってエレベーターへ向かう。
下へ向かうボタンを押す。
しばらくして扉が開いた。
「あ」
中にいた菜沙が言った。
僕も、
「あ」
と返した。
毎日のように顔を合わせているのに、
二人きりになると、
なぜか挨拶より先にそんな声が出た。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
菜沙の手には、
紺色の折り畳み傘があった。
「今日、遅かったですね」
「ちょっと仕事に捕まりまして」
「仕事に?」
「正確には上司に」
菜沙が笑った。
「それは逃げられないですね」
「菜沙さんも遅いじゃないですか」
「私は自分のせいです」
「もっと逃げられないやつですね」
「そうなんです」
また笑った。
一階に着いた。
エレベーターを降り、
二人でエントランスへ向かう。
自動ドアの向こうでは、
雨が街灯の光を細く横切っていた。
僕が傘を開く。
隣で菜沙も傘を開いた。
そして、
二人とも同じ方向へ歩き出した。
数歩進んでから、
僕は菜沙を見た。
「駅、こっちなんですね」
「はい」
菜沙も僕を見る。
「和馬さんも?」
その瞬間、
雨の音だけが少し大きくなった気がした。
和馬さん。
自分の名前なのに、
菜沙の口から聞くと、
妙に耳に残った。
「そうです」
「毎日?」
「ほとんど」
「じゃあ、今まで一緒にならなかったの不思議ですね」
「会社ではよく会うのに」
「本当ですね」
二人で笑った。
それから、
自然に並んで歩いた。
同じ傘ではない。
僕の傘と、
菜沙の傘。
近すぎず、
遠すぎず。
傘の端と端が、
ときどき触れそうになるくらいの距離だった。
話したのは、
どうでもいいことばかりだった。
会社の食堂のメニュー。
最近、自動販売機から好きだった飲み物がなくなったこと。
朝のエレベーターが混みすぎること。
駅前の工事が、
いつまで経っても終わらないこと。
そんな話なのに、
なぜか会話が途切れなかった。
「菜沙さん、辛いの平気ですか?」
「全然ダメです」
「意外」
「何がですか」
「平気そう」
「どういうイメージなんですか」
「なんとなく」
「和馬さん、私のこと何も知らないでしょ」
「まあ……知らないですね」
言ってから、
少しだけ変な感じがした。
知らない。
確かにそうだった。
毎日のように顔を見ているのに、
僕は菜沙のことをほとんど知らない。
「じゃあ一個、覚えてください」
「何を?」
「辛いものは苦手です」
「覚えました」
「本当に?」
「たぶん」
「もう怪しい」
菜沙が笑った。
僕も笑った。
会社から駅までは、
いつもなら十分ほどだった。
なのにその日は、
駅が近づいてくるのが妙に早く感じた。
やがて、
駅前の大きな交差点が見えてきた。
信号は青だった。
ここを渡れば、
駅はすぐそこだ。
僕はそのまま横断歩道へ向かおうとした。
そのとき。
「和馬さん」
菜沙が立ち止まった。
「はい?」
「こっちからでも駅、行けますよね?」
菜沙が指したのは、
横断歩道とは違う道だった。
川沿いを回って駅へ向かう道。
「行けますよ」
「遠いですか?」
「少しだけ」
「どのくらい?」
「五分くらいかな」
菜沙はその道を見た。
僕も見る。
雨に濡れた道の先に、
街灯がいくつも並んでいた。
「じゃあ」
菜沙が言った。
「こっちから行きません?」
理由は言わなかった。
僕も、
「どうして?」
とは聞かなかった。
「いいですよ」
そう答えた。
青信号が点滅を始める。
それでも僕たちは、
横断歩道へは向かわなかった。
駅から少し遠ざかる道へ、
二人で曲がった。
川沿いまで来ると、
雨は少し弱くなった。
水面に街の灯りが揺れている。
「本当に五分ですか?」
菜沙が聞いた。
「たぶん」
「たぶん?」
「五分前後」
「増えましたね」
「誤差です」
「十分だったら?」
「謝ります」
「それだけ?」
「コーヒーくらいなら」
菜沙がこちらを見た。
「覚えてたんですね」
「何を?」
「私がコーヒー飲んでるの」
しまった、と思った。
毎朝見ているから。
そう言えばいいだけなのに、
一瞬言葉に詰まった。
「よく持ってるから」
「見てるんだ」
菜沙が笑う。
「いや、見てるっていうか」
「分かってます」
楽しそうに言って、
菜沙は前を向いた。
僕も前を向いた。
なぜだろう。
急に雨がありがたく思えた。
傘があれば、
少しくらい顔を隠せる。
しばらく歩いてから、
僕は言った。
「菜沙さん」
「はい?」
初めて名前を呼んだ。
ほんの少しだけ、
声がぎこちなかったと思う。
けれど菜沙は、
何でもないように返事をした。
「朝、ご飯派なんですか?」
「突然ですね」
「さっきパンの話してたから」
「ああ。ご飯派です」
「また一個覚えました」
菜沙が笑った。
「じゃあ二個ですね」
「二個?」
「辛いものが苦手なのと、朝はご飯」
「あ、本当だ」
「忘れてたんですか?」
「早いですね」
「もう一個くらい教えましょうか」
「お願いします」
菜沙は少し考えた。
「雨は嫌いじゃないです」
「今日ちょうど雨ですね」
「でも靴が濡れるのは嫌い」
「面倒な条件ですね」
「重要です」
笑い声が、
雨の中に消えていった。
知らなかったことが、
少しずつ増えていく。
いや。
増えているのは、
知っていることのほうだった。
辛いものが苦手。
朝はご飯。
雨は嫌いじゃない。
でも、
靴が濡れるのは嫌い。
どれも、
知らなくても困らないことだった。
それなのに僕は、
忘れないだろうな、と思った。
やがて、
駅の灯りが見えてきた。
「何分でした?」
菜沙が聞く。
僕は時計を見る。
「……五分」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあコーヒーなしですね」
「残念そうですね」
「別に」
「今ちょっと残念そうでしたよ」
「してません」
そんなことを言いながら、
駅へ入った。
改札の前で、
僕たちは立ち止まる。
ここから先は別々だった。
「じゃあ、お疲れさまでした」
菜沙が言った。
「お疲れさまでした」
「気をつけて」
「菜沙さんも」
菜沙が歩き出す。
僕も反対方向へ向かった。
数歩進んだところで、
なんとなく振り返った。
人の流れの向こうに、
菜沙の後ろ姿が見えた。
やがて、
見えなくなった。
帰りの電車で、
窓に流れる雨粒を見ていた。
何か特別なことがあったわけじゃない。
連絡先を交換したわけでもない。
食事をしたわけでもない。
次に一緒に帰ろうと約束したわけでもない。
ただ、
駅まで一緒に歩いただけだった。
それも、
いつもより五分長く。
翌朝。
雨は上がっていた。
会社のエントランスへ入ると、
菜沙がいた。
目が合う。
「おはようございます」
「おはようございます」
いつもの朝だった。
菜沙が僕の隣に並ぶ。
二人でエレベーターを待つ。
「晴れましたね」
菜沙が言った。
「晴れましたね」
「今日は靴、濡れません」
「それはよかった」
菜沙が笑った。
エレベーターが到着する。
扉が開いた。
乗り込もうとしたとき、
菜沙が小さな声で言った。
「でも」
「ん?」
「帰り、あっちでもいいですけどね」
扉が閉まる。
僕は、
「そうですね」
とだけ答えた。
たぶん、
少し笑っていた。
その日の帰り。
僕たちはまた、
同じ時間に会社を出た。
駅前の交差点。
信号は青だった。
僕は何も言わなかった。
菜沙も何も言わなかった。
ただ二人とも、
横断歩道を渡らなかった。
昨日と同じ道へ曲がった。
晴れているのに。
五分だけ、
遠回りをした。
第2話 終わり
