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『君に会わなかった日のほうが少ない』 第3話 会えない日の連絡先

五分の遠回りは、

いつの間にか遠回りではなくなっていた。


仕事が終わる。


会社を出る。


駅前の交差点まで歩く。


そして、

横断歩道を渡らずに曲がる。


どちらから言い出すわけでもない。


菜沙が曲がれば僕も曲がる。


僕が曲がれば、

菜沙もついてくる。


そんな日が続いていた。


雨の日も。


晴れの日も。


少し寒い日も。


五分長いはずの道なのに、

菜沙と歩くと、

相変わらず短かった。


「今日、何分でした?」


駅が見えてきたところで、

菜沙が聞いた。


「何が?」


「この道」


「まだ疑ってるんですか」


「最初に和馬さんが『たぶん五分』って言ったから」


「もう何回歩いたと思ってるんですか」


「数えてないです」


「じゃあ信用してください」


「それとこれとは別です」


菜沙が笑う。


僕も笑った。


いつの間にか、

こんな会話にも慣れていた。


最初の頃は、

何を話せばいいのか考えていた。


今は違う。


話題なんてなくても歩けた。


黙っている時間があっても、

気まずくならなかった。


それがいつからなのかは、

分からない。


その日、

改札の前で菜沙が言った。


「明日、私いませんから」


「え?」


「休みです」


「そうなんだ」


「有休」


「何かあるんですか?」


聞いてから、

少し踏み込みすぎたかと思った。


けれど菜沙は普通に答えた。


「友達と出かけます」


「ああ、いいですね」


「久しぶりなんです」


「楽しんできてください」


「はい」


菜沙が笑う。


「じゃあ、明後日」


「明後日」


それだけ言って別れた。


翌朝。


会社のエントランスへ入る。


当然、

菜沙はいない。


昨日聞いていたから、

探すこともなかった。


エレベーターに乗る。


いつもの場所に立つ。


仕事を始める。


何も変わらない一日だった。


昼休み。


食堂へ行く。


辛そうなメニューを見て、


菜沙は絶対これ頼まないな、


と思った。


思ってから、

自分で少し笑った。


午後。


自動販売機でコーヒーを買った。


ボタンを押した瞬間、


そういえば菜沙は、

どのコーヒーを買っていたんだろう、


と思った。


温かいコーヒーを飲むことは知っている。


でも、

どれを選んでいるのかまでは知らない。


知っていることが増えると、


知らないことも増えていく。


仕事が終わった。


会社を出る。


駅前の交差点まで来た。


信号は青だった。


いつもなら、

ここを渡らない。


僕は一度、

川沿いの道を見た。


それから横断歩道を見る。


今日は一人だ。


遠回りする理由はない。


青信号を渡った。


駅まで、

すぐだった。


「……近いな」


思わず口にした。


本当に五分違うんだ。


そんな当たり前のことを、

今さら知った。


電車に乗る。


いつもより一本早かった。


座席に座って、

スマートフォンを取り出す。


特に見るものもなく、

画面を眺める。


そのとき、

ふと思った。


菜沙は今頃、

何をしているんだろう。


友達と出かけると言っていた。


どこへ行ったのかは聞かなかった。


楽しかったかな。


そんなことを考える。


そして僕は、

もっと当たり前のことに気づいた。


僕は菜沙に、


「今日は楽しかった?」


と聞く方法を持っていなかった。


連絡先を知らない。


電話番号も。


メッセージアプリも。


何も。


毎日のように会っているのに。


毎日のように話しているのに。


会社を離れてしまえば、

僕と菜沙をつなぐものは何もなかった。


それまで、

そんなことを考えたこともなかった。


明日になれば会える。


そう思っていたから。


翌日。


菜沙はまだ休みだった。


僕の勘違いだった。


休みは二日間。


それを知ったのは、

昼休みに同僚たちの会話が耳に入ったときだった。


なんとなく、

少し損をしたような気分になった。


別に、

何を損したわけでもないのに。


帰り。


また駅前の交差点まで来た。


信号は赤だった。


川沿いの道を見る。


昨日は歩かなかった。


今日は、


なぜかそちらへ曲がった。


一人で。


歩いてみると、

やっぱり長かった。


菜沙と歩いているときには、

あんなに短かったのに。


川沿いの街灯。


いつも話す場所。


駅が見え始める辺り。


全部同じだった。


違うのは、

隣に誰もいないことだけだった。


五分。


たった五分が、


ずいぶん長かった。


その翌朝。


エントランスへ入ると、

菜沙がいた。


いつもの場所。


いつもの鞄。


いつものコーヒー。


目が合う。


「おはようございます」


「おはようございます」


たった二日ぶりなのに、

久しぶりに感じた。


菜沙が僕の隣に来る。


「二日間、ちゃんと仕事してました?」


「してましたよ」


「怪しい」


「菜沙さんがいなくても会社は動きます」


「知ってます」


「じゃあ聞かないでください」


菜沙が笑った。


僕も笑う。


エレベーターが来た。


乗り込む。


そこで僕は、

菜沙が持っているカップを見た。


「あ」


「何ですか?」


「それなんだ」


「え?」


「いつも飲んでるコーヒー」


菜沙はカップを見た。


「これ?」


「昨日ちょっと気になって」


言ってから気づいた。


昨日じゃない。


一昨日だ。


でも、

訂正するのも変だった。


菜沙が僕を見る。


「私がいないのに?」


「自販機見たら思い出しただけです」


「ふうん」


その「ふうん」が、

少し楽しそうだった。


その日の帰り。


当然のように、

二人で川沿いの道へ曲がった。


「休み、どうでした?」


「楽しかったですよ」


「どこ行ったんですか?」


菜沙が答える。


友達と買い物をして、

少し遠くまで食事へ行ったらしい。


僕は聞きながら、

昨日まで知る方法がなかった話を聞いていた。


駅が近づく。


菜沙が言った。


「和馬さんは?」


「何が?」


「私が休みの間」


「仕事です」


「それだけ?」


「それだけです」


「つまらないですね」


「会社員の平日なんてそんなもんです」


「帰りは?」


一瞬、

答えるのを迷った。


「昨日は、この道歩きました」


菜沙が足を止めた。


「一人で?」


「一人で」


「なんで?」


「……なんとなく」


菜沙は僕を見た。


何か言おうとして、


やめた。


代わりに、

少しだけ笑った。


「長かったでしょ」


「長かったです」


「五分なのに?」


「五分なのに」


二人でまた歩き出した。


しばらくして、

菜沙が言った。


「そういえば」


「はい?」


「私たち、連絡先知らないですね」


心臓が、

ほんの少しだけ速くなった。


僕が二日前に気づいたことを、


菜沙も今、

口にした。


「そうですね」


「毎日こんなに話してるのに」


菜沙がスマートフォンを取り出した。


「交換します?」


その言い方は、

あまりにも普通だった。


まるで、


「明日もこの道で帰ります?」


と聞くくらいに。


「いいですよ」


僕もスマートフォンを出した。


画面を開く。


菜沙の名前が、

僕のスマートフォンに入る。


菜沙


たった二文字。


それだけなのに、

少し不思議だった。


これで会社にいなくても、

菜沙とつながれる。


「できました」


菜沙が言った。


「できました」


「じゃあ」


菜沙がスマートフォンを操作する。


僕の端末が震えた。


メッセージが一件。


開く。


菜沙からだった。


『これで休んでも大丈夫ですね』


僕は笑った。


「何が大丈夫なんですか」


「和馬さん、寂しそうだから」


「誰がですか」


「一人で遠回りした人」


「それは関係ないでしょ」


菜沙が笑う。


僕も笑った。


駅に着く。


いつもの改札。


いつもの別れ道。


「じゃあ、また明日」


菜沙が言った。


「また明日」


菜沙が人の中へ消えていく。


電車に乗って、

スマートフォンを取り出した。


画面には、


さっき届いたメッセージが残っている。


『これで休んでも大丈夫ですね』


返信しようとして、


指が止まった。


何を書けばいい。


『そうですね』


違う。


『今日は楽しかったです』


重い。


『明日も遠回りします?』


わざわざ聞くことでもない。


結局、


『これでもう一人で遠回りしなくて済みます』


と送った。


すぐに既読がついた。


数秒後。


スマートフォンが震える。


『じゃあ次に休むときは連絡します笑』


電車の中で、


僕は一人で笑った。


明日になれば会える。


それは昨日までと変わらない。


でも、


会えない日にも話せるようになった。


僕と菜沙の間に、


初めて、


会社でも、


帰り道でもない場所ができた。


小さな画面の中に。


第3話 終わり





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