【短編小説】週末の夜に
終電間際の駅で、私は改札を出たところにある証明写真機を見て、「ついにここまで来たか」と思った。
証明写真機のカーテンが半開きになっていて、中に鎧武者が座っていたのである。
しかも、完全武装だった。
甲冑に兜。腰には刀。肩にはなんかふさふさした飾り。戦国時代の武将がそのまま証明写真を撮りに来た感じだ。
ただ、足元だけがクロックスだった。
紺色の、穴のいっぱい空いたやつ。
週末だったし、連日残業続きで、睡眠時間は二時間取れればいい方だった。だからなのか、鎧武者を見ても「ああ、いるな」としか思わなかった。
武者は真剣な顔で、何度も撮影ボタンを押していた。
しかし、機械はそのたびに、
『もう少し椅子を下げてください』
と言う。
兜が天井につかえているのだ。
武者は困っていた。
「あの……大丈夫ですか」
つい声をかけると、武者は振り向いた。
目が合った。
思わず息をのむ。
澄んだ目だった。
「拙者、この“履歴書”というものに貼る絵姿を用意せねばならぬ」
就活中らしい。
「だが、この箱、拙者を拒む」
証明写真機のことである。
「たぶん兜を取れば撮れますよ」
「それでは“武”が消える」
就活に対する思想が強い。
武者はクロックスで床を鳴らしながら外へ出た。
その拍子に、足元のクロックスの飾りがひとつ取れて転がった。
小さな柴犬のジビッツだった。
私はそれを拾って渡した。
武者は、少し恥ずかしそうに言った。
「妹にもらった」
「どうしてクロックスなんですか?」
「草履は雨で滑る。しかしこれは違う。“くろっくす”は強い」
武者はその軽さと機動性を気に入っているようだった。
「ちなみに、どんな仕事受けるんですか」
すると武者は求人誌を広げ、指をさす。
そこにはコールセンタースタッフ募集と書かれていた。
向いてない気がした。
武者はしばらく考え込んでから、真面目な顔で私に尋ねた。
「ところで現代の戦では、“エクセル”というものを使うと聞いたのだが」
「まあ、使いますね」
「難しいか」
「関数まで行くと、まぁ」
武者は静かにうなずいた。
厳しい戦を想像するような顔だった。
なんだか放っておけなくなった。
そのあと私は、近くのネットカフェまで武者を案内した。
“エクセル基礎講座”という動画を一緒に見る。
武者は途中で、
「“セルを結合”とは、つまり同盟か」
と言った。
理解は独特だったが、飲み込みは早かった。
さらに動画は進む。
「この列とは何だ」
「縦に並んでるマスです」
「なるほど」
武者は感心したようにうなずいた。
「槍隊だな」
「槍隊ですか」
「横に並ぶ行は横陣。縦に並ぶ列は槍隊。美しい布陣である」
しばらくして、動画がSUM関数の説明を始めた。
「この“SUM”とは何だ」
「数字を全部足してくれる関数です」
「ほう」
武者は目を輝かせた。
「優秀な兵糧奉行だな」
だいぶ違う気もしたが、本質的には近かった。
動画は実際の入力方法へ進む。
武者は真剣な顔で見ている。
「ほう」
うなずく。
「なるほど」
またうなずく。
分かっているように見えた。
しかし五分後には、
「なぜだ」
と言い始めた。
「どうしました」
「数字は足されぬのに、なぜ括弧だけ増える」
どうやら入力で苦戦しているらしい。
私は少し手伝った。
武者は何度か挑戦し、ようやく合計を表示させた。
「おお」
感動していた。
その後、動画はショートカットキーの説明へ移る。
「この“元に戻す”というのは何だ」
「間違えた操作を取り消せます」
「なんと」
武者は息をのんだ。
それからしばらく黙り込む。
「戦国にも欲しかった」
さらに動画は進む。
「この“上書き保存”とは」
「前の内容を消して、新しい内容に置き換えます」
武者はまた黙った。
今度は少し長かった。
「どうしました」
「歴史もそうであった」
私は返事に困った。
武者はコーヒーをひと口飲んだ。
鎧姿で紙コップを持つ様子は妙だったが、不思議と似合っていた。
やがて関数の説明は終わった。
武者は大きく息を吐く。
「かたじけない」
「いえ」
「貴殿がいなければ、拙者はSUMで討ち死にしていた」
私は吹き出した。
つられて武者も笑った。
気がつくと、私は机に突っ伏していた。
眠ってしまったらしい。
武者の姿はなかった。
ネットカフェの中を探しても見当たらない。
「やっぱり疲れてるのかな」
会計を済ませ、店を出ようとしたときだった。
足元に何か落ちている。
小さな柴犬のジビッツだった。
私はそれを拾い上げる。
少しだけ迷ってから、ポケットに入れた。
週末の夜に、鎧武者とエクセルを勉強した。
それだけで、今日は少し変な、良い日だった。
