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面接に全部落ちて仕方なく起業した株式会社DAICHUの代表の自己紹介

株式会社DAICHUの大中です。
今年(2025年)の5月に40歳になったので、記念にnoteを始めてみました。

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このnoteでは普段やっていることや考えていることを書いていきたいと思います。

1記事目なので自己紹介をしていきます。
(27,000文字もあるので適当に読んでください。笑)

文章力もなく小学生の日記みたいになっていて読みにくいところもあると思いますが、許してください!

生まれは大阪の交野市(カタノシ)というところです。
今は東京に住んでいます。
後で詳しく書きますが、27歳の時に上京しました。
今では実家が大阪から長崎に引っ越したため、帰省先も長崎になり、なんだか変な感じがします。
もうちょっと落ち着いたら久々に交野市にも行きたいな。と思います。

では、小学生くらいから書いて行きましょう。
思い出しながら書いているので、漏れているものもあると思いますが、悪意を持って書かないようにしている。とかではなく単純に漏れているだけなので気にしないでください。追記することもあると思います。


小学生

地元、星田駅

星田小学校というところに通っていました。
今でもめっちゃ覚えているのは僕の祖父が「市議会議員」をやっていたので、「議員の孫」と知らない人からもめちゃくちゃ言われていたことです。
父親が自営業で工務店をやっていてそこそこ儲かっていたからか、「ウチはちょっと他の家とは違うかも?」と小学生ながらに感じていました。 確かこの頃にスーパーファミコンが新発売されたのですが、いち早く家に本体があり、ゲームソフトも大量にありました。友達が家に来てストリートファイターなんかを一緒にやっていたのを覚えています。(後で書きますが、自己破産したので超貧乏になります。笑)
この頃漫画家かゲーム屋さん、ゲームプログラマーになりたい!という典型的な小学生の夢を持っていました。笑

中学生


交野第三中学校というところに通っていました。
やっぱりなんといっても中学3年生の時です。
この頃19やゆずが流行っていたので、友だちに勧められてブルースハープを親に買ってもらいました。
最初は友だちがアコギを弾いて僕がブルースハープを吹くみたいな感じでやっていましたが、僕もアコギを弾きたくなってモーリスのアコギと、バンドやろうぜに載っている通販の激安エレキギターを親に買ってもらいました。
その数ヶ月後、修学旅行でみんなで演奏しようぜ!となって
エレキギター3人、アコギ2人という謎のバンドが結成されて、19の「果てのない道」のイントロのフレーズをエレキギターでみんなでユニゾンするという謎の演奏をしていました。
(エレキギター3人のうちの一人は宮崎遊くんです。)
今考えるとどこからどう見ても「謎」ですが、中学生というのはなんでも楽しいので、そんなの関係なかったですね。笑

どういう流れかは忘れましたが、「これじゃバンドにならないからパートを分けよう」という話になりました。僕は少しドラムに興味があったのと、中学生ながらに「ギターではこいつらには勝てない」という想いがあったため、率先して誰も行かなそうなドラムに行く!と立候補。
僕の家は謎の広いプレハブを持っていたので、ドラムセットを購入して設置してみんなで演奏することができました。
毎日ここでドラム練習やバンド練習をしていました。

中学校の卒業ライブとして星田会館を貸し切って初ライブがワンマンライブというすんごい贅沢なバンドのスタートを切りました。

高校生


交野高校というところに入りました。
中学校の卒業ライブで演奏したベーシスト(大野くん)とギタリスト(宮崎遊くん)とは同じ高校に行こうぜ!という話をしていたので、一緒にこちらに入りました。

宮崎遊くんは正直ここだけの話授業をめちゃくちゃサボっていたので、テストの点数は僕らよりめっちゃ低くて、同じ高校に入るのは当初厳しかったのですが、同じ高校に入ってバンドをやりたい意欲だけで1年以上ぶん巻き返す勉強をして合格するという、青春ドラマみたいなことをしていました。

理由は忘れましたが、交野高校にどうしても入りたかったので、本来高校受験は公立を受けて私立を滑り止めで受けることがベーシックな中、珍しい公立専願で受けました。(なぜか合格ギリギリの宮崎遊くんもそうしていました)

交野高校では軽音楽部があり、基本的には文化祭は2年と3年しか出ないことが通常の流れだったらしいのですが、僕らはプレハブで練習しまくれる環境があったことで、実力がそれなりについていたため、1年で文化祭に出ることができました。
1年生の少しだけ上手な僕たちは当時2年生のことをヘタクソとか言って、めっちゃ調子に乗っていたのを覚えています。
3年生はカリスマ的なカッコイイバンドが2組いたので、メンバーみんなで崇拝していたのを今でも覚えています。

高校2年くらいの時だったと思うんですけど、中学の頃から歌がうまかったボーカルを誘って外部でライブ活動をするようになりました。
その時に組んだバンドが青春パンクロックバンド「麦(バク)」です。
当時はゴーイングステディなどが流行っていたので、完全に流行りに乗った安直なバンドです。
初めて出演したライブハウスはBLOW DOWNという枚方のライブハウスで、今は無くなってしまったんですけど、PAさんと話をしたりするのが楽しくて、めちゃくちゃこのライブハウスに放課後も入り浸っていました。

楽曲はオリジナル曲も作ってライブで演奏していましたし、当時の高校生では早かったと思うのですが、レコーディングスタジオでちゃんとレコーディングしてCDを作って物販で販売もしていました。
このバンドではBLOW DOWNと関大前THホールと茨城JACK LIONの主催する「Cool Kids」という、決勝はBIG CATで演奏して優勝者を決めるコンテストがありまして、そちらに出演して運よく優勝をさせてもらいました。

COOL KIDS表彰状
翌年ゲスト出演したチラシ

結構この頃の優勝が良い意味でも悪い意味でも勘違いをするきっかけをもらいまして、僕は高校生の時に「バンドで売れて飯を食っていく!」と思っていました。

僕はドラムがもっと上手くなりたい!と思い、音楽の専門学校に進みました。

そして高校3年くらいの頃だったと思うのですが、「謎の広いプレハブ」に火災が発生。
バンド練習で使ってたのですが、若干溜まり場みたいな感じになっていて、いろんな友達が出入りしていたのもあり、結局のところ原因は不明ですがここに置いていた機材が全て燃えました。
僕が使っていた初めてのドラムセットや、スネア、シンバル、ギターなども全て燃えてしまいました。
宮崎遊くんも全て機材をここに置いていたので、フェンダーのテレキャスやギブソンのフライングVなども全部燃えてしまっていましたね。
僕らは何事もなかったかのようにバンドを続けていましたが、この頃ライブハウスのスタッフさんに「普通機材全部燃えたらやめるやろ。笑」と言われたのを覚えています。
機材や楽器ももちろん大事だし、もちろんへこんだけど、バンドをやめるなんて選択肢は1mmもありませんでしたね。

専門学校


僕はキャットミュージックカレッジ専門学校というところに行くことにしたのですが、ここでは本当に色々なことを学ばせてもらいました。
ドラムはもちろんそうなんですけど、僕が特に当時思っていたのが音楽の専門学校という道を選んだのに、学校に来ないやつがめっちゃいる。ってことでした。2年になった時には半分以上いなくなってました。

これは当時僕は謎だな。と思っていたのですが、大柴さんが今やっている歌詞研なんかを見ていてようやく理由がわかった気がします。
予想なんですけど「やりたいことと違う」って思っていたんだろうな。って思いますね。
僕は単純に「上手くなりたい」という目的で行ってたので問題なく通ってたけど、そうじゃない人もいるよな。って思います。

専門学校に通ったのはドラムで食っていくぞ!という気合いではなく、高校の時から組んでいたバンド「麦(バク)」で売れるぞ!って気合いだったのですが、ボーカル脱退を機に解散をしました。

目的を失った僕はドラムをひたすら練習するしかなかったんですけど、ある時、当時のバンド仲間のNO-LIPってバンドの成瀬くんから「今ドラム探してるバンドおるで〜」って声をかけてもらい、紹介してもらいました。
その時のバンドが「リフレイン」でした。
デモ音源を聴かせてもらった時に思ったのが「何!?このわけわからんくらい歌上手い人」でした。その時のボーカルが上田タカヒロです。
同時に思ったのが「この歌ならいけるぞ」です。
今は随分会えてないですが、今でも上田氏の歌はめっちゃすごいし、人を動かすパワーがあると思います。

そこで僕はバンド熱が再燃し、このバンドにひとまずはサポートで入らせてもらいました。
圧倒的に僕が歳下だったのでめっちゃ練習して追いつかないと!という気持ちを今でも覚えています。
数回ライブを繰り返して「正式メンバーになる?」って声かけてもらった時はめっちゃ嬉しかったなぁ。

この頃だったか高校の頃だったかうろ覚えなのですが、家族に不穏な空気がありました。
家に借金取りがくるようになったんですよね。
比較的裕福だった家庭が一気に崩れた時でした。

父親の工務店が経営不振、そしてその上仕事のパートナーにお金を使い込まれて首が回らなくなって借金だけが残るというとんでもないことになっていました。(当時は知らなかったですけどね)

最終的に父親は自己破産をして工務店を畳み、実家はなくなり、祖父の家に引っ越して住むことになりました。

僕はこの時結構ショックを受けて、絶対に自営業はしない。って思っていました。
でも、どう考えてもバンド活動の方が自営業より不安定なのに、当時の僕は何を考えて、自営業にはならない!バンドで食っていくぞ!って思ってたんだろうって今振り返って思いますね。笑
若い頃は根拠のない謎の自信ってありますよね。(大事なこと)

専門学校の2年の時は学費が払えない。となって、退学するしかない感じになってたのですが、母親が貯金?か保険を解約して2年の学費を払ってくれたことを今でも感謝しています。(当然もう学費の返済は母親に対して完了しています)

バンド「リフレイン」


EMOSTATIONの時のやつ


専門学校卒業してからはマクドナルドで働きながらバンドをしていました。
バンドは結構とんとん拍子で進み、僕が加入してすぐの難波ロケッツでの初ワンマンも200人以上動員できたり、

出場するコンテストではどんどんグランプリを取らせてもらって、音楽業界の色々な会社からお声がけもいただいたり、チャンスにもかなり恵まれたので、バンド全体が「あ、このまま俺たちいけるぞ」って空気感に包まれていました。

でも当然そんなに世の中は甘くなく、チャンスをどんどん逃していき、声をかけてくれる会社もどんどんなくなり、ライブへの集客も厳しくなっていきました。

僕もなんとなく不安は感じながらも、現状維持を続けていました。
完全に甘かったです。

そんな甘かった自分たちに尊敬すべき人生の先輩である方々がめちゃくちゃ愛情を持って、喝を入れて助言をくれました。
この時もらった助言は今でも思い出すことが僕自身たくさんあって、今の会社経営や僕の生き方に活きていると思っています。

文字にしてしまえば当たり前のこと。
でも実際やろうと思うとできないこと。
「有言実行」
「相手のことを考えて動く」
「価値を自分で決めない」
「本気とは?」など、
色々今もふとした時に思い出しては、考えさせてもらうことばかりです。

そんな喝、激励をたくさんいただいたにも関わらず、バンドはどんどんダメな方向に進んでいってしまって、活動はしているけど鳴かず飛ばずの日々が続いていました。

解散みたいな話は出なかったのですが、ある時の区切りとして「就職」という話が出まして、ボーカル上田とドラムの僕が就職をしました。僕が23歳くらいの頃だったと思います。

幸い僕は基本的に定時で上がれる職場だったので、(厳密にいうと優しい先輩がバンドを応援して上がらせてくれていた)仕事をしてからライブに行けたりしました。

この頃僕の心境の変化が出てきました。
「バンドじゃなくてもいい」って思い出したことです。
「ドラムで飯を食おう」そう思いました。
それからはたくさんの大阪のシンガーソングライターのサポートドラムをするようになりました。

多い時だと週に4回くらいライブをしていました。
その週4のうち2回がワンマンライブ。みたいな時もあり、正直サラリーマンの副業としては十分なくらい充実していました。

↓過去の自分が自信満々に
 スティックを回してるのを見て
 ちょっぴり恥ずかしい気持ちになりました。

そういやFM大阪にもレギュラー出演してたのが怖い。。笑

当時のチラシ

日比直博さんとの出会い

若い、、!

この出会いもすごく僕にとって大事な出会いでした。
僕がサラリーマンで働きながらバンドをしていた頃、天満橋駅から徒歩5分くらいのところで働いていたので、JR星田駅から京橋駅まで行って京阪に乗り換えの時に必ず通る広場を通っていたんです。
そこでストリートライブを毎日していたのが日比直博さんです。
どんだけ暑くても寒くても、来る日も来る日も毎日ストリートをしていました。
その時にやっていた構成がメジャー曲のサビメドレーみたいなものをして、通りがかりの人がたくさん立ち止まってくれた頃に自身の推し曲の「片想う」という曲をやっていました。
この曲を初めて聴いた時にとても良い曲だなと思ったと同時に、毎日こんなに気合い入れてストリートをやっている人ってすごい。と思っていました。

そして当時僕は
音楽で飯を食っていく=メジャーデビューしてバンドで売れる

というぼんやりとしたイメージしか持ってなかったんですが、ストリートライブでインディーズでも食っていけるのか!という衝撃を受けました。

どんな活動してるんだろう?と気になってチラシを取りました。
すると梅田のアムホールでワンマンライブをするということが書かれていました。
アムホールといえば500人くらいのキャパなのでとんでもなくチケットを販売しないといけないです。

それをしっかりストリートライブで売り切っている姿に感動しファンになりました。

僕らのバンドはOSAKA MUSEで200人の方に来てもらうことがやっとだったので、この状況を見た時は正直「異次元」でした。
僕は日比さんのこの気合いと活動にものすごく興味が沸いてmixiからメッセージで「僕にドラムをやらせてください」とオファーをしました。
その当時のマネージャーさんを紹介してもらい、一度会うことになりました。
自分的には普通のことだったのですが、スーツを着て履歴書を持ってその打ち合わせに行ったら、かなり珍しいことだったらしく、ずっと日比さんからイジリネタに使われ続けました。笑
そしてこれをきっかけに日比さんのインストアライブなどのサポートなどを含め様々なサポートをさせていただくことになりました。

その時に色々めちゃくちゃ感じました。
日比さんがライブに向けてやる準備や、次にやろうと考えていること。
お客さんのことをめっちゃ考えていること。
ライブギリギリまでカラオケで練習していたこと。

裏でサポートをしながら、僕はさらにファンになっていました。

同時にこんな比較はしたらダメなんでしょうけど、自分のバンドとの目標に向かう熱量の差をどんどん感じ始めて、「この意識だったらこのバンドはダメだ」と思うようになりました。

そしてとあるキッカケがありバンドは活動休止。
僕はそのタイミングでボーカルの上田タカヒロを口説き、シンガーソングライターへの道の説明とプラン、そして僕がマネージャー兼ドラムをやる。という話をしました。

上田タカヒロとの活動

https://www.youtube.com/watch?v=9LqLvKXbWDE

活動するにしてもノウハウが一切ないので、日比さんが当時所属していたトライアルコーポレートという音楽事務所に僕と上田タカヒロを2人で入れて欲しいと社長に直談判させてもらったところ快諾もらって、色々とやり方を教わることができました。
ちょっと書き漏れていましたが、このタイミングで上田タカヒロと僕は音楽一本でやっていこうということで脱サラしています。(今考えたらアホです。笑。無謀にも程があります。笑)
当時26歳くらいの頃だと思います。

まずはすぐにBIG CAT(キャパシティ500人くらい)を無謀にも借りて、ストリートライブでチケット販売をして売り切る!という目標を持ってスタートしました。
BIG CAT自体は300枚くらいチケットを販売することができ、目標には届かなかったもののバンド活動していた頃だと難しかった数字に到達できていました。
ただ1度だけ目標を達成しても意味がないのでこの場で次の目標を立てました。
それが2012年の大阪城野外音楽堂でした。


その時のインタビューがこちらです。

結果的にはチケット1,000枚販売で、この次に決めたのがZeppNambaでした。

当然Zeppなんて大きな会場はどこの馬の骨かもわからんやつには基本会場を貸してくれるわけないんですけど、直接支配人に会いに行ってどんなイベントを開催したいか?など資料を作って直談判したら貸してくれました。
この時僕は初めてドラムを自分で叩かずにマネージャーとイベント責任者のポジションに専任しました。
これはのちに書かせてもらいますが、結構色々な人からマネージャーをやりながらドラムを叩くなんて言語道断だということを言われていて、どこかでどっちをやるか選ばなあかんな。という話もされていました。
その切り替えタイミングがこのZeppでした。

そしてこのZepp公演のちょっと前のタイミングで東京の音楽事務所から上田タカヒロの移籍のオファーが来ていました。
メジャーレーベルとのパイプもあり、今後上を目指すならウチに移籍させた方が良いということで提案をもらっていた形です。
本人も僕もバンド時代にたくさんいただいたチャンス逃してきた経験があるので、今回のこのチャンスも逃したら、、という想いが強く、移籍の意向を固めていました。
ただし僕は移籍はせず上田タカヒロ単独で移籍。でした。

Zepp Nambaワンマン

この時に僕は自分の無力さを感じました。
企画や立案はたくさんしてきたけど、実際に実行していたのは本人。
移籍してしまったあとの僕のところには何も残っていない。という絶望感。
ただ、絶望していたのも束の間です。
絶望して立ち止まっていても何も変わらないので、すぐに頭を切り替えて僕も東京に出る決心をこの時にしました。
何か拾ってくれる事務所があったとかそういうわけではなく、全くのノープランで上京を決めました。

当時のトライアルコーポレートの皆さんや、周りで関わってくれていた人はみんな「無謀だ」「もうちょっと考えたら?」という話もしていただいたのですが、意外に僕は頑固なので決めたらもう後には引きません。笑
誰に何を言われようと決定事項でした。
続きはちょっと先で、同時期にライブハウスで働いていた話を少し挟みます。

minami horie ZEROの店長



実はトライアルコーポレートに入社させてもらっていた頃、音楽事務所のマネージャーポジション以外に同時に同社の社長からライブハウスの店長をやってくれ。とオファーをもらいました。
それが今は「SOCORE FACTORY」というところに変わっていますが、minami horie ZEROというところでした。
既存のライブハウスではなく新規立ち上げだったので、かなり大変でした。

まずライブのオファーをしても「どこそれ?」って状況だったので、「知ってもらう」からのスタートだったのでこの頃スタートアップの大変さは感じました。

とある時はホール代を下げろ!とテーブルをガン!と叩かれたこともあったし、クラブイベントを年末年始にやって乱闘騒ぎが起きて、パトカーが5台くらいきたこともあったし、ミナミホイールの時なんかは夜中もぶっ通しでイベントをやっていたので、3日寝ずに仕事するなんて時もありました。

色々大変でしたが振り返ると、めっちゃ楽しかったですね。

この時の経験も今にかなり生きています。

ライブイベントをたくさん企画して運営していくということは楽なことではありません。めちゃくちゃ大変です。
何度企画しても終わりがなく、ずっと企画をし続けることになります。
この時によくゲストミュージシャンとして呼ばせてもらっていたのが、今も一緒にお仕事させてもらっている「大柴広己」です。
初めてライブを見させてもらった時、衝撃でした。
シンガーソングライターのイメージが一気に崩れた瞬間でした。

ギター1本でこんなすごいライブできんの?
ってこともそうですし、
初めて聴いた「さよならミッドナイト」のライブの時の一音目の衝撃をいまだに覚えています。
一人で歌ってるのにバンドに負けないくらいの「テ」の一発目が超音がデカくて身体の動きを音で止められるような衝撃を受けました。
そして右手です。
超絶なスピードとキレのストロークは言葉は悪いですがド変態だと思いました。
おそらくバンドをずっとやってきた人ほど、衝撃を受ける人物じゃないかと僕は思います。
それからはほぼ毎月ライブのゲスト出演のオファーをしていました。

そしてリリースアルバムとして聴かせてもらったのが「さよならミッドナイト」と、「ソングトラベル」でした。
当時もこの2枚のアルバムがめっちゃ好きでライブハウスでずっと聴いてました。

前述させてもらったミナミホイールの深夜イベントでは新曲として「臓器の歌」という曲を演奏してくれて、そこからブラッシュアップされ、のちの「ドナーソング」になります。

ド滑り上京


中目黒の謎の看板
初めての東京・笹塚。事務所兼自宅(ワンルーム)


そしてライブハウスも退職し、音楽事務所も退職し、いざ!東京へ行くぞ!
となったのですが、とりあえずメジャーとの繋がりを作らねば。ということで、大手の音楽事務所やレーベルのマネージャーとして応募させてもらったところ、書類は通るものの、全部面接で敗退。笑

前の事務所に落ちた報告をするたびに「大中くん落とされたの?もったいないなぁ」と声かけてくれたことが救いでした。

前章の大柴さんにもこのことは報告させてもらっていて、よかったら誰か紹介してくれませんか?とお願いしたところ、

大柴さんから「何をしたいの?」と聞かれた時に、僕が「ゆくゆくは自分の音楽事務所を作って好きなミュージシャンを集めたいです!」と言ったら大柴さんが「それもう、今やろうや」と声かけてくれたのが東京での音楽事務所人生の始まりでした。

ライブハウスにいたとき色々な人に僕がやろうとしている事を話しても、当時は結構否定されてしまうことや、「何がしたいんかわからん」って言われてしまうことが多かったんですけど、大柴さんは当時からずっと「おもろいやん」って言ってくれてたなぁ。って思います。

部屋探しまで一緒にしてもらって、最初は謎に赤坂あたりで物件探したりしていたんですけど、大柴さんが「絶対京王線がええよ」って声かけてくれて笹塚になりました。

もしこんな感じで声をかけてもらわなかったら、会社を作ることもなかったかもしれません。

最初に聴かせてもらったのはもう完成品だったのですが谷口貴洋の「スケジュールとコイン」これがまたすごく良いアルバムで、これから始まる音楽事業がすごくワクワクしたことを覚えています。

東京の刺激

家を出たらすぐ祭りだった北沢五丁目祭り

よく大阪時代の知り合いからは「東京に魂を売った」と言われたりしていましたが、あながちそれも間違いではなく、当時の僕は買ってくれるもんならいくらでも売ってやるって気持ちでした。

たくさんの人に出会わせてもらって、たくさんの経験をさせてもらって、今まで自分が「常識」だと思っていた。
いや、思わされていたことが崩れていくのを感じました。

「音楽で食っていく」

え?なんで音楽だけで食っていく必要があんの?

って思わされたのが、僕は大きかったです。

まずテディさんは音楽系ではありますが、大阪時代に僕が「どちらかにせなあかんな」と言われていたサポートドラムとマネージャーを両立して、なんだったらメジャーで活躍していました。

他にもBARを経営しながらシンガーソングライターをやっている人がいたり、レコーディングエンジニアをしながらカフェを経営している人もいたり、行政書士をやりながら海外ツアーを回っているバンドマンもいました。

今まで常識だと思っていたことは、ただのハリボテの壁だったことに気付かされました。

ツアーの帯同


左:大柴広己 右:近野淳一

大柴さんと仕事させてもらうようになってから、ツアーに何度も連れて行ってもらいました。

札幌、函館、秋田、名古屋、香川、八幡浜、松山、四国中央市、岡山、広島、福岡、佐賀など色々回らせてもらいました。

僕はこの時に一番思ったのが「音楽って楽しい」でした。
これまで自分がやってきたことを否定するつもりは一切ないのですが、なんかこの期間に忘れていた感覚を思い出した気がします。

これまでは目標を立ててそこに向かってストイックにやっていく。みたいなことをやっていくことがメインだったので、全然感覚が違いました。

各所で大柴さんが来てくれることを楽しみにしている人がたくさんいて、そこで待ってる人に全力で楽しんでもらいつつ、自分もめっちゃ楽しんでいく。
大柴さんを待ってくれている人たちに会うのもすごく楽しかったです。

移動して、ライブして、お酒飲んで、爆睡して、移動して、ライブして、お酒飲んで、爆睡して、移動して。という、

こんなに楽しくていいのかな?と思ってしまう活動でした。

ツアー中にカホンを買って途中から曲を覚えて急遽演奏に参加するなんてこともあり、なんでもアリやな。って感じで色々と刺激をもらいました。

会社設立


株式会社DAICHUを設立
会社設立前の僕の東京での初仕事は谷口貴洋の「スケジュールとコイン」のリリースのお手伝いで、その後はテディさんと一緒に大柴広己の「BANK」のリリースのお手伝いをさせてもらいました。

谷口貴洋 / スケジュールとコイン
大柴広己 / BANK

テディさんからこの時にリリースの基本の流れは学ばせてもらったので、ここからは自社でもなんとかできるようになっていきます。

左:谷口貴洋 右:大柴広己
BANKリリース時の挨拶回り


その後の会社設立は正直見切り発車的なところがありました。
のちのち考えたら、もう少し個人事業主でやっていた方が税金的に有利だったけど、当時の浅い知識ではそんなこと当たり前に考え付かなかったのと、この時会社を作っていたからこそ12期というそこそこ長い歴史を作れている。と考えると結果オーライです。

きっかけとしてはCDをタワーレコードさんに流通してもらうのに「法人じゃないと契約できない」と言われたことがきっかけでした。
いずれ作ろうと思ってたし、もう勢いで作ったれ。と思って作った感じですね。

理由は忘れましたが、結果的に法人作ったのに契約できないと言われてしまい、スケジュールとコインの流通の時もお手伝いしてもらったCloud Cuckoo Landさんに流通の代行をお願いしてリリースすることになりました。

業務的にはほぼ東京での業務でしたが、ワンルームマンションに住んでいたので、すぐ引っ越すだろうと思って本店は大阪の実家を登録していました。

当時の大柴さんのインタビュー記事はこちら


2014年

その後の1枚目のアルバムで僕が1からリリースをお手伝いさせてもらったのはヒグチアイの「三十万人」のアルバムでした。

最初大柴さんが次はこのアーティストをやると思う。
って話をしてくれた時に、デモ音源を聴いて前のめりで「僕が手伝いやりたいです!」って言ったのをめっちゃ覚えてます。
大柴さんは「いや当然キミがやるんやで」と言ってましたけどね。笑

ヒグチアイ / 三十万人
当時のヒグチアイ


ここに収録されている「きらいになっていく」は僕がドラムを担当させてもらっています。
まさか大阪でダメと言われていた、スタッフやりながらドラムが上京してすぐにできたことがすごく嬉しかったです。

大変想い入れのあるアルバムで、今でも頭から聴くことがあります。

その後のリリースが大柴広己の「それを愛と呼べる日が来るとは思わなかったよ。」です。

大柴広己 / それを愛と呼べる日が来るとは思わなかったよ。

タワーレコードさん専用特典と、ヴィレッジヴァンガードさん専用特典を作って色々やらせてもらいました。
今ほどネット社会ではなかったので全国各地のレコードショップを周り、インストアライブをしていくというのが基本の流れでしたね。

シンヤさん元気かな

会社の社長というと「すごい!」というイメージかもしれませんが、最初は東京では朝の6:00〜13:00までマクドナルドでアルバイトをして、それ以降音楽のことをするという流れでやっていました。
2014年に入ってからは中古品(古物)を取り扱う事業のやり方を教えてもらい、開始してひとまずはアルバイトをしなくても生きていけるようにはなりました。

そしてこの年からシンガーソングライターによるマイク一本の弾き語りフェス「SSW14」がスタート。

SSW14

大阪は僕も一度上田タカヒロのワンマンライブで主催をしていたので勝手もわかっているし、大柴さんも大阪出身で手伝ってくれる人も多かったので東京で開催するよりも大阪でやった方が良い。ということがあり、大阪城野外音楽堂で開催することとなりました。

当時の大柴さんのインタビュー記事はこちら

2015年

笹塚の事務所(1K)

自宅兼事務所を笹塚から笹塚に引っ越し。
ワンルームから1Kになりました。

この年は事業としては中古(古物)だけではなく中国の工場から製品を輸入してネットで販売するということも始めだしました。
当然一人で回せるわけないので知り合いに仕事を手伝いに来てもらっていました。

この時期に意識していたのは、とある動画で学んだ言葉で「頼まれごとは試されごと」ということで、とりあえず頼まれたものはなんでも引き受けて全力で応えるということをやっていました。

なので、来週までにTシャツを100枚作って欲しい。とか、手書きで書いた絵をTシャツにプリントしたい。とか。
缶バッチ作って欲しい。とか。
ライブハウス、ライブバーでイベントを組んで欲しいとか。
利益度外視で何でもかんでも引き受けていました。

ポジションとしては「困ったら大中に頼めばなんとかなる」ってポジションを作って行ったイメージになります。
当時の周りのイメージとしては「君は一体何がやりたいの?」って言われるくらい色々やっていましたが、今になって一人の人が色々なことがやれることは「当たり前」になりつつあると思うので、そう考えると時代の先取りをしていたとも言えるかなと思います。笑

この時の経験が活きていて、今もやりたいと思ったことはなんでも引き受けられるし、逆にやりたくないと思ったことはどれだけ利益が出るものであっても断る。ということができるようになっています。

リリースとしては大柴広己のベストアルバム「chronicle」でした。
大柴広己の元々の事務所江戸屋のaLIVEでの録音だったので、大柴さん的にも思い入れのあるレコーディングになったものかと思われます。
僕個人的にはほんとごく稀にしかライブでやらない「ひだまりの花」が収録されたのが嬉しかったです。

大柴広己 / chronicle

そして僕の悪い癖が出てしまい、昨年より成長!みたいなものがSSWにも活きてきてしまって、SSW15は土日の2DAYSに。
正直今振り返ってみると1日開催するだけでも死ぬほど大変やのに「これどうやってやってたん?」って思います。笑
今同じことやれって言われたら「いやいやいや無理ですわ」って言っちゃいますね。笑

当時のライブレポートがこちら

2016年

2016年はウネリまくっていた年です。
とにかく全国を飛び回っていました。

コスパとかタイパなんて一切考えない。
休むことを知らず、寝る時以外は何かをしている。くらい動いていました。
「来るもの拒まず。」そんな感じだったので、変な小さな詐欺に騙されたり、変なマルチ商法にめちゃくちゃ誘われたりもしていました。
数え切れないほどの失敗をしたのもこの年ですね。

リリースとしては徳久望の「KALAINAOSELL」佐賀県から毎週東京に通いながら録音していたのでめっちゃ大変だったろうなぁ。と思いますが、今聴いても、攻めたとても良いアルバムだと僕は思います。

徳久望 / KALAINAOSELL

そしてSparkling Recordsからリリースの谷口貴洋の「BABY」です。
スケジュールとコインとは打って変わって。というようなアルバムになっていまして、今振り返ると、このアルバムはよくぞ形になってくれた。と思います。
絆創膏は僕がええ曲やん。って言ったこともあったからなのか、僕にドラムを叩かせてくれました。久々の中学からの同級生である宮崎遊くんとのコラボレコーディングだったのも嬉しかったですね。

谷口貴洋 / BABY

大柴広己は「Mr.LIFE」をリリース。
僕はドラムで、ワンピース、さみたい、神様の結論、どうせ同じ涙ならと半分近く担当させてもらっています。
神様の結論に関しては当日僕がドラムを叩くことを知らされておらず、いきなりぶっつけ本番のレコーディングだったのですが、これはこれで事前に準備していたら録れなかったような良い演奏が録れたな。というものになっていると思います。

大柴広己 / Mr.LIFE

大阪は本店のみでしたが、この年から大阪で高校生の時一緒だった後輩に中国の工場から仕入れてネットで販売する事業を任せることになりました。

SSWは2015年に引き続き2DAYS。
振り返ってみてもよくぞ継続していたなぁ。と思いますね。

毎年開催していましたが、同じような日はなく、慣れていくと思いきや、毎年いつもと違う苦難が起きて死にそうになっていました。

もちろん楽しい思い出も多いですが、よくぞやったな。
と思う大変さを思い出すことの方が多いかもしれないです。笑

SSW16

あとこちら。
大柴さんから推薦をもらって、MUSICDAYという番組で秦基博さんのところでドラムで出演させていただきました。

普段父親から連絡なんてほぼ来ないのですが、この時には「今日の酒はウマイ!」と連絡が来ました。笑
親孝行ができたのかな?と思います。大柴さんありがとうございます!


2017年

前章で書きましたが、大阪の実家の本店を大阪京橋にマンションを借りてそちらに本店移動登録しました。
こちらです。写真のスタッフは大阪のスタッフです(現在は退職しています)

大阪京橋事務所

テーブルはライターの奥ボウイさんからもらったやつで今の東京の事務所でも使わせてもらっています。笑

下画像のように休憩のロッカールームで使われています。

2025年現在の事務所の休憩スペース

なんでわざわざ大阪に拠点を?と思われるかもしれませんが、SSWを開催していたこともあり、元々昔から知っている「信頼して任せられるスタッフ」にお願いしたかったからです。

場所を京橋に設定していたのは東京から大阪に仕事で行った時に泊まれるやん。って思って設定したのですが、1回も泊まったことないどころか、この場所に訪問したのは5回もなかったです。笑
これは僕の完全に読みミスでしたね。
普通に考えたら大阪に行くのなんて年に数回しかないんやから、そうなって当然やろ。って感じです。笑

そしてこの年は初めて東京で知り合い以外の人を雇用した年になります。
アルバイトさんなんですけど2025年現在も働いてくれている超古株になります。
この時の笹塚での自宅兼事務所の1Kマンションの時から今までずっと働いてくれています。
8年働き続けてくれるなんて、こんなに嬉しいことはないですよね。
募集媒体としてはジモティーを利用しました。
しばらくはこの時に採用させてもらった方と昔からの知り合いたちという組織形態で進んでいくことになりました。

リリースとしては大柴広己「モジャモジャライブコレクションvol.2
服部緑地野外音楽堂で無料ワンマンを開催し、その時に録音した盤でした。

モジャモジャライブコレクションvol.2

そしてSSWをこの年も2DAYS開催しました!
毎年違った困難が。という話を2016年で書かせてもらっていましたが、思い返したらこの年がSSWは一番大変だったかもしれません。
何が大変だったかというと「台風」の襲来です。関西の他のイベントは軒並み中止しているのに、SSWだけ「絶対晴れる」という根拠のない自信から決行を選択。

結果的に後半は雨が上がり、月が出て最高のロケーションになっていました。

でもこれって不思議なもんで、もし同じことが2016年に起きたら乗り越えられなかったような気がするんですよね。
何年も開催する中で運営陣にチーム感が生まれ、企画陣の決断に誰もNOと言わず「やりましょか」とついてきてくれたからです。もしSSWの企画年数が浅く、チームの信頼関係が築けていなかったら、台風の中での「決行」という意思決定は絶対にできなかったと思います。

SSW17

2018年

自宅兼事務所が笹塚から仙川に引っ越しをしました。
仙川の物件は2LDKで少し広くなりました。

仙川の自宅兼事務所
仙川の自宅兼事務所2

引越しの理由としては色々あったのですが、大きいのは賃料問題でした。
2LDKを笹塚で借りるのと、仙川で借りるのとでは賃料が2倍近く変わったので、それなら仙川にしようということで物件を探していたところ、自宅兼事務所で借りられるところを見つけることができたので引っ越ししました。

さて、2018年、、、
今でも思い出したくないくらいキツかったのがこの年です。
詳しくは書けないのですが暗黒の2018年。と僕は思っています。
この頃大きめの事件が起きて(僕は被害者でした)、このトラブルは年々落ち着いていたものの、当時は心身ともに削られていましたね。

なぜ詳しく書けないのに、わざわざこのことを書いたかというと、これがあったからこそ、現在までの会社の成長があると言えるからです。

苦しい気持ちもあったけど、
「絶対に乗り越えてやる」
「負けてたまるか」
この気持ちが僕自身一番強くなったのも、この時期だからです。

この問題をこう思えて、なぜ乗り越えられたかというと、恐らく僕には会社を守る、スタッフを守る、家族を守るという責任があって、そのためには強い気持ちを持って折れるわけにはいかない。と思えていたのが大きいです。
もし一人でやっていたら、逃げてしまっていたかもしれません。

今年(2025年)の4月頃全て解決したので、ようやく肩の荷がおり、安心して過ごせる。という形になりました。

ちょうどそのトラブルが起きていたのは
大柴広己「人間関係」を伊豆でレコーディングしていた時です。
(音楽事業は全く関係ない、古物事業のトラブルです)

大柴広己 / 人間関係
伊豆スタジオ(倉本さんの背中)

絶対楽しいはずの合宿レコーディングだったのですが、僕はトラブル対応でほぼ終始電話していたので、全然録音中立ち会いできなかったですね。
朝から夜まで色々対応に追われていましたが、レコーディングの邪魔をするわけにはいかないので、何も言わずに迷惑をかけないようにしていました。(なんかあったな?とは思われていたように思いますけど。笑)

でも、2025年の今年に解決に至ったのでよかったです。

色々振り返るともっとやりようがあったんじゃないか?みたいなところもあったんですけど、2019年末くらいまでは毎日生きた心地がしなかったですね。
今回の件の反省点としてはもっと人に相談するべきだったと思いました。周りに迷惑をかけてはいけない。と、僕一人で抱え込んで自分で解決しようとしていたので、時間がかなりかかってしまいました。もし誰かに相談ができていたら、もう少し早く解決できていたかもしれません。

そしてZOOLOGICALとしては鴉の「還り咲」のリリースもありました。
秋田県のワンマンなどにもお手伝いに行かせてもらったり、結構こちらのリリースは密に関わらせていただきました。
バンドのリリースをお手伝いさせてもらうのは初めてだったのですが、大変楽しいリリースになりました。

鴉 / 還り咲

Sparkling Recordsでは配信限定で谷口貴洋の「つまんねぇぞ俺」をリリースしました。
初めて聴いた時はまたすごい曲書いたもんやな。って思いましたね。
大柴さんも谷口もどんどん良い新曲を生み出せるのって本当にすごいなと思います。
この曲は僕がドラムを担当させてもらって、ベースとギターは宮崎遊君がやってくれたので、これまた久々に中学の幼なじみバンドでできたのは嬉しかったですね。
この配信ジャケットの撮影は実は僕がiPhoneでやってトリミングしたものです。場所は確か笹塚の商店街だったと思います。仙川に引っ越すちょっと前くらいに撮影したはず。

谷口貴洋 / つまんねぇぞ俺

その後も毎月シングル配信リリースしていましたね。

谷口貴洋 / 盲目

これ以降は仙川で撮影しています。笑
事務所が引っ越ししたきっかけだと思います。

谷口貴洋 / Lover
谷口貴洋 / ムショク

SSWは今回も2DAYS。だったのですが!
まさかのZepp Diver Cityにお声がけいただいて、EAST、WESTで開催することになりました。

これがまた大変で大変で大変でした。笑
ただ、1週間の開催ラグがあったので大阪の2日連続よりはまだマシ。という感じではありましたね。

とはいえ、初めての大きな会場での企画運営は当然楽なわけないので、日々調整の死闘でした。

SSW18-WEST
SSW18-EAST

2018年。暗黒の年とはいえ、そんな中でもやれることを全力でやった。ようには思います。

2019年

暗黒年2年目。
暗黒とはいえど引きこもっているわけには行かないので、精神的な負担はありつつも全力で行動していってます。

2018年に借りた仙川の自宅兼事務所から自宅だけ引っ越ししました。
なので完全に2LDKが事務所になりました。

初めての自宅機能だけの自宅は安心して眠れて嬉しかったです。笑

そしてさらに大阪の事務所を引っ越ししました。
京橋から交野市へ。

理由は当然2017年の章でも書いた通り、
「京橋に事務所あったら泊まれるやん」
という安直な考えの結果、一度も泊まってないどころか全然事務所に顔出してない。ということです。笑

スタッフは交野市に住んでたので、わざわざ京橋まで来てもらって作業してもらうのも意味不明なので交野市で物件を借り直して、本店移動しました。

間取りは2LDKだったと思います、、確か。
こんな感じ。

交野市の事務所

基本的にはアパレル用品を扱うことが多かったです。

リリースは幡野友暉「鬱屈を、沸々と。」をお手伝いさせてもらいました。
今聴いても良い意味で濃すぎる胃もたれしそうなアルバムだなぁ。と思います。笑
デモ音源では僕が「はい、チーズ」のドラムを叩かせてもらいましたが、ホンちゃんはオッキーさんが叩いてたかな?

今振り返ると僕も2018〜2019年は色々と大変過ぎて、鬱屈を、沸々としていたように思います。

幡野友暉 / 鬱屈を、沸々と。

そして谷口貴洋が「Ending」をリリース

谷口貴洋 / Ending

つまんねぇぞ俺、ムショクときて、Endingを作る。
のがすごいなって思いました。
どれも谷口っぽいのに、これまでの谷口と違う。
持っている引き出しを使う。とかではなくて、
引き出しを増やしている。みたいなイメージを感じる新曲ラッシュでしたね。
このイメージは2025年現在の新曲を聴いていても感じます。

そしてSSWも昨年に続いて東京と大阪で開催をしました。
まあこの形態もね。2年目だからね。
もう流れもわかってるし、楽でしょう。と思うかもしれないですが、もう前章でも書かせてもらった通り毎年別の困難が出てくるというのは、この時期もずっと続いていて、ひたすら調整に調整を重ねて大変なのは変わらずでございました。

SSW19-WEST
SSW19-EAST

2020年

この西暦を見ると、みなさんすぐに浮かぶのが「新型コロナウイルス」でしょうね。
ライブ活動などはすごくしづらくなって音楽業界としてはかなりの激震でしたね。

僕のところは中古品をインターネットで販売する事業をしていたので、巣篭もり需要とマッチして、良いのか悪いのか感覚が難しいですが、この事業が伸びていきました。

このタイミングの2020年7月にゲームの買取店舗「ゲームリサイクルDAICHU」を立ち上げました。

ゲームリサイクルDAICHU

オープンしたての最初は「仙川買取さん」って呼ばれてましたけど、徐々にDAICHUで浸透していきました。笑
仙川駅には中古ゲームのお店がなかったので、喜んでいただけることも多かったです。
中身としては事務所兼倉庫兼店舗という形でこの1拠点で東京は進めていました。
今ではたくさんのレビューをGoogleMapにていただいております。

ゲームリサイクルDAICHU Googleレビュー

この年からインディードなどを活用して本格的に知り合い以外のところから求人採用を始めました。

初めてインディードで採用したスタッフは冬に採用になったのですが、かなり薄着で出勤してきていたので、「なんでそんなに薄着なん?」って聞いたら「お金がなくて」という返答だったので、僕が着ていないアウターをプレゼントしたら次の日に連絡がつかなくなり、いなくなりました。

この話は今でも社内で語り継がれており、僕が今でもスタッフから「新人さんにはアウターをプレゼントを絶対にしないでください」と言われるようになってしまいました。





あ、ここ笑うところですよ。






この買取店舗のオープンと求人をしていったことをきっかけに事業の伸び率が全然変わってきました。
しっかりリスク取って腰を据えてやることの大事さをこの時に学びましたね。

音楽の面ではplane「2020TOKYO」のリリースのお手伝いをさせていただきました。
コロナ禍というのもありましたし、スンゴクバタバタで大変でしたね、、。
「オリンピックが終わる頃」という楽曲があって歌詞に「東京2020年オリンピックが終わる頃」というところがあるのですが、まさかオリンピックが開催見送りになるとは誰も予想なんてできないわけで、伝説のアルバムになりましたね。

plane / 2020TOKYO

コロナ禍ではありましたが、SSWも開催しました。
無観客の配信のみでの開催。

SSW20

ソーシャルディスタンスってことでこの距離感。
無人の客席をバックに壁に向かって歌う。というのはこの先もうないことを祈りますね。

2021年

この年の一番の出来事は会社が始まってからずっと手伝ってくれていたスタッフの退職がありました。
色々な要因が重なって送別会などで盛大に送り出すことはできず、アッサリとした退職になってしまいました。
長らく会えてないですが、元気にしてくれていたら嬉しいなと思います。

このスタッフが退職するちょっと前の段階で、今は正社員で働いてくれている、当時大学生がアルバイトで入社してくれました。
大学卒業とともにそのまま新卒入社してくれたので、若手ではありますが、この時期の入社だと今働いている人では一番の古株になるのかもしれません。

同時に出品するECサイトも戦略的に一気に増やしたりしていて、かなりたくさんのスタートアップをしている時だったので、この時期はとても大変な時期ではありましたが、スタッフみんなの協力もあり無事良いスタートを切ることができました。
後から聞いた話ではありますが、膨大な業務量に愚痴も上がっていたらしいですが、立ち上げが一番大変でしっかり軌道に乗ってしまえば、、という想いもあったので負担をかけて申し訳なかったけど、大事な取り組みだったかなと思います。

また、会社の本店所在地を大阪にしていましたが、この頃東京の店舗の場所に本店を移しました。

この年のリリースは谷口貴洋のリリースで2022年にリリースする予定のアルバム「Endless Beauty」に向けた連続シングルリリースです。

キレカケ、あの子の歌声を聞いたとき、Beauty、ムショク、ランプ、盲目、夢を見るんだ

ですね。

キレカケのMV撮影はかなり暑くて死にそうだったのを今でも覚えています。笑

楽曲もアレンジもMVもめっちゃ良い感じに仕上がっています。

ちなみに曲中ほんの少ししか映ってないけど、軽トラは僕が運転しています。笑

そして、大柴広己「光失えどその先へ」ですね。

大柴広己 / 光失えどその先へ

これもすごいアルバムですけど、
エビデンスステイホームレガシー2020〜2021
これが一曲目で流れて来た時にまずびっくりしますよね。笑

この年のSSWに関しては
前年と同じ無観客配信。

そして大柴広己のワンマンライブでした。
この先どうなるか不透明すぎてこうするしかなかった。
という形でしたね。

SSW21

あと、どうでもいい話ですがこの年に結婚しました。

2022年

この年はLINE公式アカウントに力を入れよう。
ということで、Lステップについて学んでいました。

今ではTVのCMでチョコレートプラネットさんが宣伝していたりするので、知っている人も増えていると思いますが、この当時は知らない人多かったんじゃないですかね?

外注してLINEアカウントを構築してもよかったのですが、自社でカスタマイズを考えてできるようになれば素早く改善やアップデートをしていけると思ったので、しっかり1から学びまして、無事正規代理店の資格ももらえたので、今後LINEの構築を頑張りたい!という方はご相談いただければお力になれるかもしれません。

この時期にはある程度買取店舗も忙しくなってきて、人手が全然足りなく、求人を強化していきました。
しっかり仕組み作りをしていく。ということも考えだしたので、勤怠システム、給与システム、会計システムとしてマネーフォワードを導入しました。

マネーフォワードが本当に優秀で、勤怠システムでタイムカードを押してもらい、そのデータを給与システムで給与計算を社会保険料や源泉まで自動で計算してくれて、給与明細も給料日に自動でメール送信で届けてくれて、振込も一括で給与明細通りにできる。
さらには会計システムと連携して、給与の仕訳もすぐにそのままできる。
ということでたくさんの人を雇い入れても管理業務が楽チンにできる。というものでした。

アルバイトとして5月に3人採用させてもらいまして、こちらの3人は今でも弊社で働いてくれています。

また、大阪の事務所の引越しもありました。
一軒家の2階建の物件になります。
このタイミングで大阪事務所も雇用をスタートしました。

交野所森南事務所
交野所森南事務所2
交野所森南事務所3

リリース関連は谷口貴洋のリリースで「Endless Beauty」をやりました。

谷口貴洋 / Endless Beauty

こちらのアルバムは、「今日は一歩を踏み出した」、「ない」、「あの子の歌声を聞いたとき」、「モータープール」、「SPARKLE」でドラムを叩かせてもらっています。
モータープールに関してはここだけの話ですが、ドラムは僕が河村カースケ智康さんが大好きで、とある曲に結構影響受けて演奏しています。
もしわかったらDMください!笑

SSWも開催をしました。
コロナも少し落ち着いてきての久々の有観客。
またこんな形で開催できるとは思っていなかったので、ちゃんと乗り越えて開催ができたことがすごく嬉しかったです。

SSW22

あ、どうでもいい話ですが、この年に第一子が産まれました。

2023年

この年の大きな出来事としては個人的な話ですが、父親が亡くなりました。
まだ65歳で癌でした。
自己破産した当初は恨んでいた時期もありましたが、バンドなど自由に好きなことをやらせてもらっていたことは当たり前じゃなかったよな。と思います。
最期は僕が枚方病院で看取りまして、感謝と「あとは任しとけ」と伝えておきました。
ギリギリ孫の顔を見せられたのでそれは良かったなぁ。と思います。
その後大阪の実家は母親の故郷である長崎に引っ越しをしました。(2023年中に引っ越しを済ませました)

はい。
では仕事の話です。
この頃は最初の買取店舗もどんどん手狭になっていって、在庫も物によっては外に溢れてしまう現象も出てきてしまい、もう流石に限界。というくらいになってきました。
毎日物件を探していたのですが、仙川には本当に店舗物件が全然出てこない。出てきてもめちゃくちゃ高いとか、とんでもなく駅から離れていたりします。

そして2月頃ですかね。大雪だった時にパッと見つけたんです。
広くて綺麗で初期費用が掛からなそうな良い物件が。

それがこちら。

2023年以降の事務所兼倉庫兼店舗

200平米くらいあったので、今の事務所の4倍くらいの規模でした。
当時はちょっと背伸びした物件になりましたが、仙川の物件をずっと探していて、この辺りの相場を考えると明らかに今入居しないともうこんな条件の物件は出てこない。とわかっていたので即申し込み。
しばらくはこの物件で腰据えてという形になりそうです。

物件が広いと何が良いかというと、在庫がいっぱい置けるのもそうですが、同時に働ける人を増やせるというメリットが大きいですね。
今までではできなかったようなスピードで仕事を進めることができます。

しかし2023年は積極的な採用には動かず、現状のスタッフ数でひとまずは回していく流れにしました。

あ、どうでもいい話ですが、人生初のスカイダイビングをやりました。
埼玉の桶川で気軽に飛べますので興味がありましたらどうぞ。


リリース関連は谷口貴洋「僕はミスを認めます」を2曲入りでリリース。
2曲とも僕がドラムで、ベースとギターは宮崎遊くんの幼馴染バンドで録音しました。CDはこれで最後かなぁ。という形で作りましたね。

実はこの2曲はまあまあハイスピードで録音を進めて、結構バタバタはしていたのですが、プロモーターさんもたくさん意見を入れてくださって良い作品になったなぁ。と思います。

谷口貴洋 / 僕はミスを認めます

プロモーターの方が頑張って動いてくださって、日テレのストレイトニュースのウェザーニュースのテーマソングとして使っていただけましたね。

大柴広己は「LOOP8」をアルバムとしてリリース。

大柴広己 / LOOP8

このアルバムも良いアルバムなんですが、中でも僕にとって印象が強かったのは「さよならグローリーデイズ」ですかね。
いちいち本人にどんな曲なのか?などは、ほぼ僕から聞かないのですが、大柴さんの良いところがたくさん詰まった、すごく優しい歌だと僕は受け取っています。

この年もSSWは開催しました。

コロナ禍越えて2年目。
そしてSSW10周年で僕もこのポストです。

SSW23

毎年何かしらのトラブルが起きると言ってましたが、10周年のこの年は一番色々重なってキツかったかもしれません。

大阪城野外音楽堂で毎年やっていたのですが、押さえていた日程が工事日に被ってしまい、急遽キャンセルになってしまうという、恐ろしいことが起きてしまい、急遽なんとか服部緑地公園の日を押さえることができて開催ができた奇跡的な開催になりました。

にも関わらず、、
当日後ろに飾るフラッグや必要備品を預かっているスタッフから前日にいきなり「明日行けなくなりました」いう連絡が。。
他のスタッフになんとか動いてもらってギリギリ対応できましたが、本当にゾッとしました。

そして、、、僕が当日結膜炎で両目をやられてしまい、両目瞬きをする度に激痛。
スマホの文字も読めないレベルで目が使い物にならない状態になってしまいました。
眼帯をしてギリギリ景色がぼんやり見れるくらいの片目でなんとか運営しました。
色々な方に心配してもらって申し訳なかったです。

谷町四丁目のSkippyのマスターのヒデさんだけは僕のこの状況を見て爆笑していました。

この年から運営メンバー全般を大阪スクールオブミュージックさんにお願いしていたこともあり、裏方の指揮系統がほぼお任せでできていたので僕が使い物にならなくても大丈夫でしたが、本当に恐ろしいな、という10周年でした。(イベントは最高でした!)

2024年

2024年はさらに大きな決断と前進をしました。
それは大阪事務所の閉鎖です。

2023年からなのですが僕の心境に変化がありました。
それは無駄に情を出さないということです。
そういう局面は何度かありましたが、結局情を出すとその選択は自分のためにも、相手のためにも誰のためにもならない。

先輩経営者の言葉で「始める時より辞める時の方がパワーがいる」という話がありましたが、それがこの時でした。
詳細は話せないですが、この決断は非常に大事な決断でした。

そして運がいいことに、この大阪事務所の閉鎖を決めた頃に今の東京事務所の2Fが空きました。
中国の工場から仕入れてネット販売する事業は撤退するか継続するか迷っていたのですが、2Fの物件が空いたことにより継続する選択ができるようになりました。

東京調布市事務所2F

なぜ2Fが空くといいかというと、2Fの業務が終わった後に1Fの業務のフォローに行けたり、2Fの人員が少ない時に1Fからフォローに行けたりするので、人件費の効率が良くなるんですよね。

振り返ってみると、大阪の現場では、「今日は早く仕事が終わったけど何しよう?」という手持ち無沙汰な時間も生じていたかもしれません。しかし、東京に拠点を集約して1Fと2Fの両方に業務があれば、そうした時間はなくなり、より効率よく働いてもらえるようになります。

その分新規で採用をしやすくなるということになりますね。
下記のヤフーショッピングのストアがこの2階の事業のページになります。
レビュー数も800以上いただいておりまして、大変好評いただいております。

そしてリリース関連は大柴広己「LIVE IN TRAD」ライブアルバムです。
ほぼ毎年、年末年始にワンマンライブをさせてもらっていたTRADが閉店という悲しいこともあり、それがきっかけというわけではないのですが、結果的にそれがきっかけのようなリリースになりました。

大柴広己 / LIVE IN TRAD

そして谷口貴洋「ぶるー」のシングル配信です。
こちらはいつものメンバーで僕と宮崎遊くんで録音をしました。

谷口貴洋 / ぶるー

谷口貴洋のレコーディングは間瀬さんか倉本さんかの2人のどちらかがレコーディングしてくださっているんですけど、録音する人で全然やっぱり違うんですよね。どっちが良いとかではなく種類が違う。
ドラマー視点の共通点としてはお二人が録音してくれたらドラムの音がとんでもなく良くなるということです。
さて、この「ぶるー」はどちらのエンジニアさんでしょうか?
CDだったら録音してくれたエンジニアさんの名前もクレジットされているからわかるけど、配信になると演奏した人も録音した人もデザインした人も掲載されてないのでわからないですよね。
これはちょっと配信時代になってから寂しいなぁと個人的には思っているところですね。

SSWも開催しました。
昨年が服部緑地野外音楽堂だったので、大阪城野外音楽堂に帰ってきた!
という感じですね。
服部は服部の良さがあるし、大阪城は大阪城の良さがありますね。

SSW24

2025年はSSW開催しないって大柴さんがXでポストしていましたが、もうすでにSSW24の時点で僕も大柴さんも結構いっぱいいっぱいではありました。

お互いめちゃくちゃやることが多い中、なんとか時間作ってなんとかSSW24が開催できた。というもの。

公には発信していなかったのですが、実はSSW23の開催前から、大柴さんに「来年(SSW24)はどうします?」と相談するほどギリギリの状態でした。 僕としてもなんとか続けたい気持ちがあり、「僕が無理でも、◯◯さんに責任者を任せて継続できないか?」などと提案していたんです。でも、大柴さんが「大中がやらないならやらない」と言ってくれたこともあり、自分がSSW24を決行する決心をしました。

大柴さんが「大中がやらないならやらない」って言ってくれたのがあり、SSW24を決行する決心をしました。
結果。やってよかったなぁ。と思います。
SSWでしか見れない景色というものはあるなぁ。とこの年にもやっぱり感じました。
基本的に開催前日までは辞めたいと思っていて、当日にはまたやりたいって思ってしまう悪魔的イベントです。笑

あ、どうでもいい話ですが、この年に第二子が産まれました。

2025年

この年は僕が40歳ということで前厄です。
あんまりそういうのは気にしないタイプではありますが、結構色々なことが同時に重なってしまって厄年と思わざるを得ない感じではありましたが、結局全てうまく乗り越えることができて厄年ではなく躍年となりました。

最初の大きな出来事としては、2018年のところで少し触れていましたが、例の問題事件に対して終わりを迎えることができました。
この件は「しっかり終わらせる」ということにはそれなりの精神力と体力を使うことだったので、結構キツかったのですが、ちゃんと向き合うことが、このタイミングでできたのが良かったと思います。

そして会社に対して税務署より初めて「税務調査」のご連絡をいただき、調査をしていただきました。
結果追徴課税など0円のおとがめなしだったのですが、調査は2ヶ月以上におよび、結構対応も大変だったので、一応これも厄年ということにしておこうと思います。笑

一度しっかり調査をいただいて税務署より「問題ない」という結論とお墨付きをもらえたのは嬉しいことだなと思いますし、弊社がきちんと不正もなくしっかり管理できているという自信にも繋がりました。
これからもちゃんと会社を経営して、申告して、納税していきたいと思います。

あとはなんと言っても2025年はポケモンカード専門の買取販売店のオープンです。
これはまさに躍年にあたりますね。

せんがわトレカDAICHU
せんがわトレカDAICHU店内

完全なるポケモンカードの人気に乗っかってオープンしたわけですが、これがやっぱり良かったです。
夏休みキャンペーンをおこなったところ、こんなに行列を作っていただけました。

2025年夏休みキャンペーン

完全にポケモンカードのトレンドのお陰ではありますが、トレンドだからと言って適当にやっても上手くいくわけではなく、僕のところが数年蓄積してきたSNSの戦略やLINE構築、配信の部分を学んで実践していた経験も相乗効果としてあったかな?と思います。

まだ20平米程度の小さな店舗ですが、ここ数年の売上推移を見て良さそうならこの分野も拡大していくつもりです。

ちょっと関係ない話に少し脱線しますが、
2025年は新たな挑戦。ということで娘の幼稚園のお父さんバンドに加入してギターを弾くことになりました。笑

なんでドラムなのにギター?というと
お父さんバンドのLINEグループに参加したら

ボーカル2人
エレキギター0人
ベース3人
ドラム4人

みたいな謎のバンドだったんですよね。
僕のnoteを最初からじっくり読んでくださっている方だとピンと来ると思うのですが、僕がドラムを始めた時とは逆バージョンがここに来て起きている。ということで、当時僕がギターからドラムに転向した逆をやってやろうじゃないか。
ということで今回はエレキギターに転向しました。
数年後エレキギターの人口がお父さんバンドで増えたらドラムに移動したりして足りないパートに器用にスイッチしていこうと思います。笑

宮崎遊くんから機材は借りています

少し話は脱線しましたが、リリース関連は大柴広己「BANK-REMASTER」、「ソングトラベル(2025Remastered)」、「さよならミッドナイト(2025Remastered)」です。
このnoteの最初の方で書いていたアルバムなので、読んでいる方からするとああまた出てきた。という感じかもしれませんが、僕からすると10年以上振り返っていることになるので、大変思い入れの深い3枚のアルバムのリマスターということで改めてこうやってリリースできたのは嬉しく思いますし、今もこちらのアルバムを聴きながら書いています。

大柴広己 / BANK
大柴広己 / ソングトラベル
大柴広己 / さよならミッドナイト

紛れもなく名盤だと思います。

そしてSSWは今年は開催なし。
SSW24の時点でほぼ僕も大柴さんもパンク状態だったので、流石にSSW25はキツイかもしれないということで開催を見送りました。

こちら大柴広己の声明文です。

ですが!スピンオフ企画として
株式会社DAICHUの現在の本拠地である調布市仙川にて
「勝手にSSW25」を開催します。

勝手にSSW25

なんでこんなタイトルになっているかというと、いつもなら相談しながら企画をしていたのですが、今回は僕がほぼ主体で進めていきました。
平日ではありますが、最高のイベントになるはずなのでぜひお越しください。
チケット購入はこちら

ようやく現在に追いつきました。笑
ここまでで約25,000文字。笑
ここまで読んでいただいてありがとうございます。

まとめ


色々と書きましたが、いかがでしたでしょうか?
音楽事業をやめて物販の事業に全部振ればいいのに。
と言われることもたくさんこの10年以上の間にありました。

当然会社の利益を上げていくだけ。ということを最終的な目的にしていたらそれが一番良いのかもしれません。

でも会社の目的って利益を上げていくだけ。でいいのでしょうか?
僕らがやっていることって何?

ポケモンカードのお店を作ったのも利益を上げていく。ということももちろん目的としてありますが、それ以上にスタッフと話をして「楽しそう!」とテンションが上がってできるのかどうか?の方が僕は大事だと思っています。

現在カードのお店も直接スタッフには確認はしてないですが、自発的に可愛いPOPを作ってくれたりしていて、それなりに楽しんでくれているんじゃないか?と思っています。

せんがわトレカDAICHU POP

こんなことは直接は伝えたりはしないですが、音楽事業も僕は大柴さんや谷口の音楽が好きだし、上がってくる新曲はいつも楽しみに聴いています。

SSWも毎年めっちゃしんどかったし、毎年辞めたいと思っていたけど、大雨の時も結膜炎の時も大赤字を叩き出した時も毎年やって良かったと思っています。

僕自身もドラムも叩きたいし、今後もずっと音楽をやっていきたいです。
音楽を続ける理由なんて、そんなもんでいいんじゃないですかね?

知らんけど。

では。
長文ありがとうございました!

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