評価・正解主義との接続─視座の乖離_5章
視座を一つに固定しようとする力
評価や正解は、
誰かを縛るために生まれたものではない。
それらはもともと、
世界を早く共有するための装置だった。
同じ基準で見れば、話が早い。
同じ物差しがあれば、判断が揃う。
一つひとつの違いを確かめなくても、先に進める。
管理する側から見れば、
評価や正解は、とても合理的な仕組みだ。
管理の視座が求める「揃った世界」
人が増え、状況が複雑になるほど、
すべてを丁寧にすり合わせることは難しくなる。
誰が、どこまでできているのか。
今、何が足りていないのか。
どこを改善すればいいのか。
それらを把握するために、
世界は自然と座標に落とし込まれていく。
世界を処理するための座標化
点数。
評価。
正解と不正解。
管理する視座から見ると、
ズレは悪意ではなく、
処理しきれていない差分に見える。
揃えなければ、前に進めない。
決めなければ、責任が持てない。
その焦りと必要性が、
視座を一つに固定しようとする力を強めていく。
正解が思考の形を変えていく
評価や正解が強く求められる場面では、
「考える」という行為そのものが、
少しずつ変質していく。
なぜそう感じたのか。
どこに違和感があったのか。
まだ言葉にならない引っかかり。
そうした曖昧な部分は、
答えを出すスピードの前に、切り捨てられていく。
点数に翻訳される風景
残るのは、
説明できるもの。
比較できるもの。
再現できるもの。
個人が見ていた風景は、
点数に翻訳され、
評価に回収されていく。
そこに悪意はない。
ただ、座標の上に載らないものを
保持しておく場所がないだけだ。
ズレが「間違い」に変換される瞬間
同じものを見ているはずなのに、
違うことを言う。
違う反応を示す。
その違いは、
「別の場所から見ている」ではなく、
理解不足や未完成として解釈されやすい。
ズレている側が、
意図せず「間違えた側」に配置される。
個人の問題ではなく、構造の問題
ここで起きているのは、
誰かの冷たさでも、悪意でもない。
視座を一つに固定した世界では、
ズレを「違い」として保持しておくことができない
という構造の問題だ。
正解が一つの世界で起きること
正解が一つだと信じられている場所では、
異なる答えは、
自然と修正対象になる。
評価や正解が悪いわけではない。
それがなければ、成り立たない場面も確かにある。
測定に置き換わる対話
ただ、
視座を一つに固定した瞬間、
対話しようとしていたはずの場面が、
いつのまにか測定に置き換わる。
視座の乖離は、
ここから静かに始まる。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この章は、
評価や正解そのものを否定するためのものではありません。
それが必要とされる理由や、
そうせざるを得なかった視座があることも、
確かだと思っています。
ただ、その合理性の先で、
いつのまにか見えなくなってしまったものがあるとしたら。
その「ズレ」に、少しだけ気づける場所を残しておきたかった。
ここまで読んでくれたあなたが、
誰かとすれ違った場面や、言葉にできなかった違和感を
思い出してくれていたなら、嬉しいです。
