グローグーは大五郎だった——『マンダロリアン&グローグー』を観て気づいた、半世紀越しの「父と子」
※この記事には映画『マンダロリアン&グローグー』および「子連れ狼」の内容に関する記述が含まれます。ネタバレが気になる方はご注意ください。
映画館を出た瞬間、真っ先に頭に浮かんだのは、萬屋錦之助だった。
「子連れ狼」——その名前を聞いてピンとこない方も、今は多いかもしれない。ただ、テーマソングの一節「シトシトピッチャン、シトピッチャン♪」というフレーズなら、聞いたことがある方もいるのではないだろうか。昭和の時代劇で、萬屋錦之助が主演を務めた。
物語の主人公は、拝一刀(おがみ・いっとう)という浪人だ。将軍家の要職だったが、何かの謀略によって妻を殺され、汚名を着せられ、故郷を追われる。復讐を胸に、幼い息子・大五郎を乳母車に乗せたまま諸国を流浪しながら、行く先々で悪と戦う——それが「子連れ狼」の骨格だ。
この「口数の少ない、しかし強い信念を持った流浪の男」と「その傍らにいる幼い存在」という組み合わせが、マンダロリアンとグローグーそのものだった。
乳母車とポッド——半世紀越しのギミック
「子連れ狼」の見どころのひとつに、大五郎が乗る乳母車の「からくり」がある。側板がずれて大五郎がこっそり抜け出せるようになっていたり、武器が仕込まれていたり——当時の時代劇としては異色の「ギミック」が満載だった。
グローグーが移動するあのポッドも、まさに同じ発想ではないだろうか。愛らしい見た目の中に機能と驚きが詰まっていて、物語の要所で想定外の活躍をする。
そしてもうひとつ重要な共通点がある。大五郎は、守られるだけの存在ではない。一刀がピンチに陥ったとき、大五郎が機転を利かせて父を救う場面が「子連れ狼」には何度も登場する。グローグーも同様に、マンダロリアンの危機に力を発揮する。親が子を守るだけでなく、子が親を救う——この双方向の関係性が、両作品に深みと感動をもたらしている。
ディズニー・チャンネルのドラマシリーズを観ているときに、この設定になんとなく既視感があったのだが、映画を見て「子連れ狼だ」と確信した。
「我が意を得たり」のインタビュー
鑑賞後にこの直感を確かめたくなって調べると、監督のジョン・ファブローのインタビューが見つかった。
「過去のスター・ウォーズ作品を参考にするのではなく、ジョージ・ルーカスが影響を受けたもの——日本の黒澤映画など——を参考にした。『子連れ狼』も観た」
思わず膝を打った。ルーカスが黒澤明に深く影響を受けたことはよく知られている。ファブローはその「源流」まで遡り、スター・ウォーズの世界観を再構築しようとした。だからこそマンダロリアンには侍映画の質感があり、マカロニ・ウェスタンの荒涼とした空気が漂い、昭和の時代劇を知っている世代には懐かしいほど馴染みやすい手触りがある。
「小粒」だからこそ光るもの
率直に言えば、ストーリーの「小粒感」は否めない。歴代のスター・ウォーズ本編が持つような、銀河の命運を揺るがす壮大なスペースオペラとは、スケールが違う。
でも、それでいいと思った。
マンダロリアンが守るのは、銀河ではなく、目の前のひとりだ。悪は明確で、善も明確で、勧善懲悪の構図は単純明快だ。ところがその「単純さ」が、圧倒的な映像美と息をつかせないスピード感に乗ることで、2時間超があっという間に過ぎてしまう。思いがけずシェイクスピアを連想させる場面——憎む叔父叔母への葛藤を抱えるある登場人物のエピソードなど——が差し込まれ、物語は時として予想より重層的な顔を見せる。
大きな話をしなくても、ふたりの旅が続く限り、スクリーンから目が離せない。それは「子連れ狼」が毎週視聴者を引きつけたのと、まったく同じ原理だと思う。
時代と国境を越える「父と子」
拝一刀と大五郎、マンダロリアンとグローグー。
片や江戸時代の日本、片や遠い銀河のかなた。それでも、不器用な男と小さな存在が並んで歩く姿には、普遍的な何かが宿っている。言葉より行動で示す愛情、危機の瞬間に垣間見える深い信頼——そういうものが、時代も文化も国境も軽々と越えてしまう。
昭和の名作を愛する者として、ジョン・ファブローとその制作チームが「源流」に忠実であろうとした姿勢に、素直に拍手を送りたい。
そして、もしまだ「子連れ狼」を観たことがない方がいれば、ぜひ一度手に取ってみてほしい。あの乳母車と、あのポッドが、きっと重なって見えるはずだから。
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