「テヘランでロリータを読む」を読む
アメリカによるイラン攻撃が世界を揺るがす今、「テヘランでロリータを読む」を読んだ。
イランの核開発に対する、アメリカの軍事介入。対話を放棄し武力に訴えたという点で、アメリカを支持することは出来ない。
では、イラン政府を支持すべきかとも思えない。
例えば、今年の1月に起きた、インフレに喘ぐ市民による反政府デモ。イラン政府はそれを激しく弾圧した。
何がイラン市民や私たちの平和を脅かしているのか――それを白黒断ずることが出来ないことへの戸惑いを抱えていた。
アーザル・ナフィーシーの『テヘランでロリータを読む』を読んだ。
イランを取り巻く、何が正しいか単純に断ずることのできない複雑さ。それは今に始まったものではなく、長い時間をかけて積み重なってきた、根深い問題であることが見えてきた。
著者がテヘランで文学を教えていた1979年から1997年。イラン・イスラーム・アメリカの三者が政治的にも社会・文化的にも交錯する時代において、イラン市民はそれぞれ異なる立場の中で、複雑な思いを抱えていた。
少し近代イランの歴史をひもとくと、20世紀初頭以降、王政下で近代化・西洋化が進められた。アメリカの支援のもと経済成長や女性参政権が実施される一方で、この近代化は権威主義的な側面も持ち、ヒジャブの着用禁止など伝統的な価値観は抑圧された。著者であるアーザル・ナフィーシー自身も、大学時代にアメリカで反政府デモに参加していた経験を語っている。
しかし1978年から1979年にかけてのイラン革命によって体制は大きく転換し、イスラームに基づく政治体制が確立された。その結果、社会は一気に反動的な方向へと変化し、西洋文化は否定されるようになった。さらに、王政下で一定程度認められていた女性の権利も制限されることとなった。
ヒジャブの着用に象徴される伝統は、王政下では抑圧されたアイデンティティであったが、革命後にはそれが逆に義務として強制されるようになった。
著者はヴェールの着用を拒否したためテヘラン大学を追放され、教え子たちとともに私的な文学のクラスを開く。
その空間は、著者や教え子たちが抱えるイスラームへの複雑な思いを語り合う場でもあった。
“結局、イスラーム革命は、イスラームを抑圧の道具にしたことで、どんな他民族でもなしえぬほどの害をイスラームにあたえた”
国家とイスラームと個人の三すくみ。近代化、あるいは、革命の是非。
こうした問題は、いずれも単純な二項対立では語りえない。
このような複雑な現実に対して、著者はフィクションの力を通して抵抗を試みる。
著者が教える文学は、ナボコフの「ロリータ」、フィッツジェラルドの「グレートギャッツビー」、フロベールの「ボヴァリー夫人」、ジェイムズの「デイジー・ミラー」…
著者が教壇を追放される前にテヘラン大学で教えた生徒たちの中には、革命思想に共鳴するものたちもいた。
彼らは困惑する。なぜ、不倫や犯罪を描いた、モラルに欠ける物語を読む必要があるのか。
“人は不倫の是非を知るためではなく、不倫や貞節、結婚といったものがいかに複雑な問題か知るために『ギャツビー』を読むのです”
革命は生徒たちに、世界を白か黒かの二分法で捉え、イスラームを絶対的な正しさとして位置づけさせる。彼らはその正当性を盲信し、それに従わないものは誤りと断じてしまう。
“優れた小説は、人生と人間の複雑さに対する理解力と感受性を高め、モラルを善悪の固定した図式でとらえる独善を防いでくれます”
“他者の経験のすべてを体験することは不可能ですが、フィクションの中でなら、極悪非道な人間の心さえ理解できるのです。いい小説とは人間の複雑さを明らかにし、すべての作中人物が発言できる自由をつくりだすものです。この点で小説は民主的であるといえます-民主主義を主張するからではなく、本質的に民主的なものなのです。”
革命に賛同する者、反発する者、さらにはその担い手となる者――テヘラン大学の著者のクラスには、さまざまな立場の生徒が集い、それぞれの視点から文学を論じた。しかし、著者が私的なクラスに招いた生徒たちは、革命に翻弄される存在であると同時に、文学の真価をつかみ取ることのできる存在でもあった。
イスラーム政権下の新憲法で女性の結婚最低年齢が9歳に引き下げられたイラン。
貫通と売春が石打による死刑と定められ、女性は法律上男性の半分の価値しかないとみなされたイラン。
革命前に閣僚に昇進した二人の女性のうち、一人は亡命し、一人は処刑されたイラン。
そうした現実の只中で読むのが『ロリータ』ーー中年の男によって人生を奪われる12歳の少女の物語である。
なぜ『ロリータ』なのか。
なぜテヘランで『ロリータ』なのか。
“どれほど苛酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。作者は現実を自分なりに語り直しつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配するが、そこにこそ生の肯定がある。あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。…だからこそ私たちは『ボヴァリー夫人』を愛してエンマのために涙を流し、無作法で空想的で反抗的な孤児のヒロインのために胸を痛めつつ『ロリータ』をむさぼり読むのだ”
