米国・トランプ関税&円為替介入に潜む逆演算/指数的な問い「雇用構造が強制労働だから米国への輸出産業関税を上げる」というロジックが、日本社会/エコシステム内部に徐々に跳ね返ってくる可能性について(ILO・CRPD的観点を含めて)
私たちが日常的に日本国の社会福祉現場にあるからと言って、地球規模の課題と無関係ではない。
「AX・トークノミクス・トークナイゼーション(Tokenization)」と共にある地球人類の現在地と全く無関係ではないのではないか?
前回はそんな問いを、ピアサポートカフェ3rdから寄稿した。
*********************************
西暦2026年7月24日。米国通商代表部(USTR)が、日本を含む60の国と地域に対して追加関税を課す方針を打ち出した。
理由は「強制労働で作られた安い製品が市場に流れ込み、公正な競争条件を歪めている」というものだ。
一見、筋の通った話に聞こえる。強制された労働は対価が不当に低く、それによって作られた製品は不当に安い。だから公正な市場を守るために関税で是正する——論理としては分かりやすい。
だが、この論理を少し長く見つめていると、居心地の悪さを感じる人もいるはずだ。私は、障害のある人たちの就労を支援する施設で働いている。そして、この関税のロジックを国際的な労働基準に照らして辿っていくと、そのままこちらの現場にも刺さってくる。
ILOの定義に照らせば、これは「強制労働」ではない
USTRが根拠にしているのは、突き詰めればILO(国際労働機関)が定めてきた強制労働の考え方だ。ILOの強制労働に関する条約は、強制労働を「処罰の脅威の下に強要され、かつ本人が自発的に申し出たものではない労働」と定義している。暴力や監禁、あるいは逃れられない負債などによって、労働からの離脱そのものが封じられている状態、というのが核にある。
福祉的就労の現場に、この定義はそのまま当てはまらない。利用者は施設の利用契約に基づいて通っていて、いつでもやめられる。処罰の脅威も監禁もない。だから「強制労働ではない」というのは事実として正しい。
問題は、その先にある。ILOの強制労働の定義は「強制されていないか」を測る物差しであって、「その労働が公正か」を測る物差しではない。この二つは、似ているようでいて別物だ。
CRPDが求めているのは、もっと高いハードルだった
「強制されていないこと」より一段高いところに、障害者権利条約(CRPD)第27条がある。ここでは、障害のある人が他の者との平等を基礎として、自由に選択し又は引き受けた労働を通じて生計を立てる権利、そして公正かつ良好な労働条件を得る権利が定められている。
つまりCRPDが基準にしているのは「強制されていないか」ではなく、「自由に選択したと言えるか」「対価は公正か」という、もう一段踏み込んだ問いだ。
この条文をめぐって国連の障害者権利委員会が2022年に出した一般的意見第8号は、保護雇用(シェルタードワークショップ)に位置づけられる働き方から、一般労働市場での雇用へと移行を進めるよう、締約国に求めている。日本もこの条約の締約国であり、2022年には日本政府への審査も行われている。
ここで、日本の福祉的就労の現実に目を向けてみる。就労継続支援B型事業所(以下、B型事業所)は、雇用契約を結ばない福祉サービスという位置づけのため、最低賃金法の対象外だ。厚生労働省の直近の集計では、B型事業所の全国平均工賃は月額24,312円。制度上、月の最低工賃が3,000円を下回ってはならないという下限は設けられているが、それは最低賃金とは似て非なる、はるかに低い水準の下限に過ぎない。
強制労働の定義には触れない。しかし、CRPDが求める「公正な労働条件」「自由に選択し引き受けた労働」という基準に照らすと、そこには埋まっていない距離がある。地域に他の選択肢がなければ、その工賃を受け入れる以外の道は実質的にない。それは「強制」ではないが、「自由な選択」と言い切るにも無理がある、中間の領域だ。
関税のロジックは、この中間領域を見ないふりをしている
USTRの論理は、「強制されているか、されていないか」という二値で世界を切り分けている。強制されていれば不公正、されていなければ公正。
しかし国際的な労働基準そのものが、実はもっと段階的にできている。ILOの強制労働条約が「最低限、これより下は許さない」という床を定める一方で、CRPD第27条は「これくらい高いところを目指すべきだ」という天井に近い基準を示している。その間には、広い中間地帯が横たわっている。福祉的就労の低工賃は、まさにその中間地帯に位置している。
関税というのは国境をまたぐ製品にしか効かない道具だ。だから、床を割り込んでいることが分かりやすい「強制労働」という部分だけが切り取られる。天井に届いていない、という国内の課題については、誰も関税をかけない。かけようがない。
これは意地悪な指摘ではない。むしろ、この関税ポリシーが図らずも見せてくれた鏡だと思っている。「労働の対価は公正か」を国際基準で問うなら、その物差しは輸入品だけでなく、自国の制度の内側にも向けられるはずだ、という鏡だ。
それでも、工賃を上げれば済む話でもない
ここで安易に「だから工賃を最低賃金まで引き上げるべきだ」と結論づけるのは、たぶん早計だ。
福祉的就労の現場には、生産性だけでは測れない目的がある。働くこと自体が、社会とのつながりを保つ手段であり、生活のリズムを作る手段であり、本人の尊厳を支える手段でもある。工賃の額だけを取り出して「不当に安い」と断じることは、その場の持つ多層的な意味を、市場の物差し一本に還元してしまう危うさもある。
CRPDの一般的意見第8号自体も、保護雇用から一般雇用への一律的な移行だけを求めているわけではなく、本人の意思決定を尊重しながら、選べる選択肢の幅を広げることを求めている。答えは「福祉的就労をなくす」でも「今のままでいい」でもなく、その両方の単純化を退けたところにしかない。
労働とは、そもそも何の対価なのか
強制労働をめぐる関税のニュースが本当に突きつけているのは、「安い労働は不公正だ」という単純な話ではなく、「労働の対価とは、そもそも何に対して支払われているのか」という、もっと根本的な問いだと思う。
時間か。成果物か。それとも、その人がそこにいて、働くという営みに参加していること自体か。
強制労働の議論は、この問いへの答えを「市場価値」に一元化することで成り立っている。しかしCRPDが示しているのは、市場価値だけでは説明のつかない労働の価値を、それでもなお「公正」の基準に照らして問い続けるという態度だ。福祉的就労の現場は、そのことを日々突きつけてくる場所のひとつに過ぎない。
関税の話は、遠い国の話のようでいて、実は「働くとは何か」を国際基準というものさしで考え直すための、身近な入り口なのかもしれない。
********************************
ピアサポートカフェ3rd・DAC・Caffeine
