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AIで小説を書いてみて分かったこと


生成AIを使った教材開発の一環で、色々と検証していたら、たまたま小説を書くことになった。プライベートで子供と碓氷峠鉄道文化むらを訪れたときに、ふと着想を得て、「長野新幹線の開通で仕事を失った祖父」と「AIで仕事を失っていく同僚を見る孫」を対比させる短編小説を、Claudeと一緒に書いてみた。完成までに20往復以上のやり取りがあり、文字数は最終的に約17,000字になった(この数え間違いの顛末は、後述の気づき6で書いている)。

本編は、この記事の一番下に全文を載せている。先に読みたい方はそちらからどうぞ。この記事では、その制作過程で見えてきたことをまとめておく。


小説とは縁のない人間が書いた、ということ

先に書いておくと、自分は小説を書いたことが人生で一度もない。読む方も、この10年ほとんど手に取っていない。10年ほど前までの5年間だけ、年に10冊ほど読んでいた時期があったが、そこから途切れたまま今に至る。

つまり文章修行を積んだ人間が「仕上げ」にAIを使った話ではなく、ほぼ素人が、企画とテーマだけを持ってAIと一緒に手探りで組み立てた話として読んでもらえるとありがたい。だからこそ、後半で書く「AIが説明過多になる」「無難にまとまる」といった気づきも、専門的な訓練を経た目ではなく、自分の中の単純な違和感だけを頼りに拾ったものになる。

最初に断っておきたいこと

「AIに書かせた」と言うと、一行プロンプトを投げて丸ごと出てきたように思われがちだが、実際の順序はかなり違う。

最初に自分から出したのは、企画そのものだった。「長野新幹線開通で在来線が廃止されたときの人々の心情」と「AIで仕事を失っていく現代の会社員」を重ねる、という着想と、「人は変われない、でも環境は変わる」というテーマ、そして「変われない人にも小さな救いがあるように」という結末の方向性。ここは全部、自分の頭の中にあったものを言葉にしただけで、AIが考えたものではない。

その上で、プロットをいきなり書かせることはせず、まず

  • 登場人物のペルソナ(誰が、何歳で、どういう背景と葛藤を持つか)

  • 年表(史実と、登場人物の年齢・出来事が矛盾なく重なるタイムライン)

  • 章立て(全何章で、各章に何を配置するか)

の三つを、それぞれ別のプロンプトで先に作らせた。ここが一番地味だが、一番効いた工程だったと思う。人物設定や年表の段階で「祖父は研修ではなく運転士にしよう」「主人公は業務コンサルにしよう」「安中市生まれにしよう」といった修正を何度も入れ、矛盾がないか年表の年齢計算まで検算させてから、ようやく本文の執筆に入った。

つまり実際の分担は、「企画とテーマと結末の方向性」「人物・年表・構成という設計図」「その設計図への具体的な修正」までは人間側の仕事で、AIが担ったのは、その設計図に沿った文章化と、史実の調査、そして修正の反映だった。この順番を踏んだからこそ、後段で書く5つの気づきが起きている。設計図なしに「短編小説を書いて」とだけ頼んでいたら、また違う話になっていたはずだ。

1. 技術考証は驚くほど強いが、比喩は人間が投げないと出てこない

碓氷峠のEF63という電気機関車について、勾配の数値、フラッシュオーバーという故障のメカニズム、修学旅行で編成が増結される史実まで、頼めば正確に調べてきた。ここは完全にAIの土俵だった。

一方で、この小説の構造的な軸になった「対位法」というアイデア――忠雄と孫、過去と未来が、交わらないまま同時に鳴り続ける、というバッハの音楽構造をそのまま物語の骨格に流用する発想は、こちらから投げるまで出てこなかった。AIは振られた比喩を精緻に展開する力は強いが、比喩そのものを発案する初速は、こちらが持っている必要があった。

2. 放っておくと、テーマを説明してしまう

一番多く直した箇所がここだった。AIの初稿は、感じさせるべき場面で、意味を言い切ってしまう癖がある。

例えば結末近く、最初の原稿にはこう書いてあった。

二つの旋律は、決して交わらないまま、それぞれ別の時間を鳴らし続けてきた。それでも、こうして同じ場所に立ち、同じ汽笛を聞いている今この瞬間だけ、二つの声部は、束の間、同じ一つの音になっていた。

丁寧だが、説明として着地してしまっている。「読者に気づかせる」のではなく「先に言ってしまう」のが、AIのデフォルトの安全運転なのだと思う。ここは「テーマを言い切らずに、断片のまま並べて終える」ように、何度か削り直しを指示してやっと落ち着いた。

3. 整合性の粗は、自分で読み返さないと絶対に消えない

  • 登場人物の名字が、地名と偶然かぶっていた(桐生市と桐生パートナー)

  • 主人公が地元育ちなのに、上京してくるような描写になっていた

  • 祖父の没年と、コーダの時点の年数計算が数年ずれていた

どれも、指摘するまでAI側からは出てこなかった。もっともらしい文章を書く力と、細部の辻褄が通っているかを自己検証する力は、別の能力なのだと痛感した。声に出して読み返す、時系列を紙に書き出す、という古典的な作業は、AIと書くときこそ省略できない。

4. 身体の記憶を、意識して要求しないと出てこない

匂いや音は、指示すれば早い段階で入れてくるが、体温や重みのような、触覚の記憶は放っておくと出てこなかった。「言葉を交わすことは少なかったが、肩車のような、体が触れ合う場面が足りない」と伝えて初めて、祖父に肩車される場面が入った。

会話文で愛情を説明するより、この一場面の方が、結果として一番「二人の関係」を伝える箇所になった。

5. 放っておくと、テーマも展開も「無難な方」に寄っていく

AIに任せて書かせると、どうしても「よくある感動」に寄っていく。今回で言えば、「人は変われない、でも環境は変わる」という着地自体、誰も反対しない、当たり障りのないテーマだ。祖父の悲哀、孫の後悔、最後の小さな救い――型としては王道だが、放っておくとその王道の中で無難に完結してしまう。

実際、この小説で後から見て「個性」だと感じられる部分は、ほぼ全部こちらから持ち込んだ具体でできている。桐生の織物屋の六男という出自、赤城おろし、峠の釜めしの栗、コンサルとして現場で人の顔を見てきたという悠人の実務。これらを足す前の原稿は、正直、どこにでもありそうな「AIが書いた泣ける話」だった。AIは輪郭のはっきりした型を渡せば忠実に仕上げてくれるが、型そのものを崩したり、誰にも書けない一点を持ち込んだりするのは、こちらの役目だった。

裏を返せば、AIと書くときに一番怖いのは、破綻でも支離滅裂さでもなく、「無難にまとまってしまうこと」なのだと思う。

6. 文字数さえ、平気で3倍盛って報告してくる

執筆中、何度も「4万字を超えた」「5万字になった」と報告を受けていた。実際に数え直すと、本当は17,000字程度だった。原因を聞くと、文字数を数えるのに使っていたコマンドが、環境の文字コードの都合で、文字数ではなくバイト数を数える挙動になっていた、とのことだった。

正直、「それはシステムの都合でしょ」としか思えなかった。日本語は1文字が数バイトになるので、ほぼ3倍近く盛った数字を、悪びれもせず、何度も繰り返し報告してきていたことになる。しかも自分から気づいて訂正したわけではなく、こちらが「そもそも5万字ってどこ?」と聞き返すまで、一度も疑われずに通っていた。

これは、正直かなりひどいバグだと思う。文章の質がどれだけ良くても、文字数を数えるという一番単純な作業でここまで平気で間違え、しかも自分では気づかない。AIの出力は鵜呑みにするな、とはよく言われるが、まさか客観的な数字ですらズレるとは思っていなかった。結局、本当の文字数は約17,000字(小説本編だけなら14,000字弱)だった。数字ひとつとっても、最後は自分で数え直すしかない。


書き終えて思うのは、AIは「上手い文章」をすぐに出してくる分、こちらが「まだ甘い」と感じる勘だけは手放してはいけない、ということだった。技術と考証はAIに任せられる。物語が本当に立つかどうかの最終判定は、結局、人間の違和感が頼りだった。

読んでみて感じたことがあれば、コメントで教えていただけると嬉しいです。



峠のあと

第一章 契約終了

世の中には、二種類の「さよなら」がある。ちゃんと言えるさよならと、言えないまま終わってしまうさよならだ。その日、高橋悠人が佐伯隆に対して感じたのは、間違いなく後者だった。

十一月にしては暖かい朝で、地下鉄の階段を上がると、排気ガスと、誰かの吸っていた電子タバコの甘い匂いが、一瞬だけ鼻先をかすめて消えた。オフィスビルに入ると、その匂いすらもなくなる。ここには匂いがない。悠人はいつもそう思う。空調がすべてを均して、無味無臭の空気だけを循環させている。

会議室のドアが閉まる音は、いつもより小さかった。誰かが意図して静かに閉めたのか、それとも自分の耳がそう聞こえただけなのか、悠人にはよく分からなかった。

モニターの向こうで、隣の部署のブースが半分空になっている。佐伯のデスクから、写真立てと使い込まれた手帳、それに紙のファイルが何冊か消えていた。パソコンの電源は落とされ、モニターは何も映さない黒い鏡のようになっている。オフィスの空調は、いつもと変わらず一定の低い音を立てて、乾いた風を吐き出し続けていた。

「佐伯さん、今日で最終出社だったんですよ」

宮田彩が、コンビニのコーヒーを片手に、事もなげに言った。声に悪意はない。ただの事務連絡のような響きだった。宮田は悠人と同期入社で、今は悠人のチームで動いている。研修設計を丸ごと任せられるAIエージェントを、誰よりも早く、誰よりも巧みに使いこなす。悠人が去年、社内標準として広めた運用の型を、寸分違わずなぞっていた。

「聞いてなかった」

「言っても悠人さん、忙しそうだったので」

佐伯は研修コンテンツ制作の部門で十五年働いてきた男だった。企業研修のスライドを一枚一枚、手書きのメモをもとに組み立て、同じ形式、同じ言い回しで、丁寧に作り続けてきた。半年前、部署の業務がAIエージェントに任せられる範囲まで広がってから、その仕事のほとんどは人の手を離れた。宮田はすぐに使いこなし、成果を倍にした。佐伯は、最後まで慣れようとしなかった。

「あの人、最後まで手書きのメモ持ってましたよね。今どき」

宮田は笑いもせず、ただ事実を述べるように言った。悠人は「そうだね」とだけ返した。喉の奥に、小さな小骨が引っかかったような感覚があった。

悠人はこの会社で、三十二歳にして最年少のシニアマネージャーだった。クライアント企業にAIエージェントを軸にした業務改革を提案し、経営陣を説得し、抵抗する現場を巻き込みながら実行に移す。理屈だけをこねる頭でっかちなコンサルタントではなく、現場に泥臭く入り込んで結果を出すタイプだと、社内でも評判が良かった。

現場に入り込む、というのは、実際には、事務所の隅で何十年も同じ伝票処理や検品作業を続けてきた人たちに、直接会うということでもあった。半年前のクライアントでは、五十代の女性が二人、AIエージェントによる自動処理への切り替えに伴って、他部署への配置転換を告げられた。一人は淡々と受け入れ、もう一人は、面談室で悠人に向かって、長年やってきた仕事のどこがいけなかったのかと、静かに聞いてきた。悠人は、間違ってはいない、という言葉を選んで答えた。実際、間違ってはいなかった。ただ、その人の顔を、悠人はしばらく忘れられなかった。この案件で組み上げた、定型業務をAIエージェントに巻き取らせる同種のモデルは、そのまま社内の他部署にも展開されることになった。佐伯の部署も、その対象のひとつだった。

直接手を下したわけではない。そう頭では分かっている。それでも、佐伯の空いたデスクを見た瞬間、悠人の中に、名前のつけられない小さな引っかかりが生まれた。石を投げたつもりはないのに、遠くで何かが割れる音がした、というような感覚だった。

変化することは当たり前で、必要だ。悠人は本気でそう思っている。変われない人間は、いずれ淘汰されてしかるべきだ。それは冷酷さではなく、悠人にとってはただの事実認識だった。天気予報のようなものだ。明日雨が降ると分かっていて、傘を持たない人間を責めることはできない。ただ、濡れるだけだ。変われない人間の、変われない気持ちが分からないわけではない。長年同じやり方を守ってきた人には、それなりの理由と誇りがあることぐらい、悠人にも想像がつく。ただ、それとこれとは話が別だ、と自分に言い聞かせてきた。分かることと、判断を変えることは、悠人の中では別の引き出しに入っていた。

その夜、悠人は都内のタワーマンションの一室にいた。日付が変わる少し前、まだ仕事のメールを片付けながら、イヤホンをつけた。流していたのは、バッハのカンタータ百四十番「目覚めよと呼ぶ声あり」の、あの有名な旋律だった。もともとは歌詞を持つ声楽曲だが、悠人が好んで聴くのは、後年バッハ自身がオルガン独奏用に編み直した版で、そこには言葉がない。旋律だけが、寸分の狂いもなく、同じ形を保ったまま繰り返される。どの演奏家がどう弾いているかには、正直なところ興味がなかった。ただ、今日流れているものは、これまで聴いてきた音源より、心持ちアップテンポだった。そのことに気づいた自分に、悠人は少しだけ意外な気がした。

クラシックを聴く習慣は、悠人にとって半分は趣味で、半分は装備だった。経営者と対峙するとき、どんな会話にも動じない教養があるように見せること。それは武器になる。ただ、この旋律だけは少し違った。深夜、一人で仕事をしているときに限って、頭の中で鳴り始める。誰かに聞かせるためではなく、自分の中だけで、勝手に繰り返し続けていた。

対位法、というものについて、悠人は学生時代に少しだけかじったことがある。ひとつの旋律ともうひとつの旋律が、互いに寄りかかることなく、それぞれの道を進みながら、同時に鳴らされる。交わらないのに、いつのまにか一つの音楽になっている。悠人はときどき、自分の頭の中で鳴り続けるこの旋律が、何か別のものの比喩のように思えることがあった。何の比喩なのかは、まだ分からなかった。

三十八階の窓の外には、無数の光の粒が、規則正しく、しかし少しも温かみを持たずに広がっていた。玄関には、同棲している加奈子が選んだルームフレグランスが置いてある。サンダルウッドの甘い香りが、いつもと同じ濃さで漂っていた。彼女は季節ごとに香りを変える人で、これは秋冬用のものだと言っていた。雨の日も、晴れの日も、この部屋の匂いだけは一定に保たれている。

実家から届いたまま、開けていなかった段ボール箱があった。悠人はそれを、久しぶりに開けた。ガムテープを剥がすと、湿った紙と埃の匂いが、箱の中から立ち上ってきた。実家の押し入れの匂いだ、と悠人は思った。決まった濃さで香り続けるサンダルウッドとは、まるで種類の違う匂いだった。

祖父・忠雄の遺品だった。表紙の擦り切れた古い手帳と、色褪せた国鉄の制帽が一つ。手帳には几帳面な字で、日付と出来事だけが淡々と記録されている。最後のページ近くに、他のページより筆圧の強い一行があった。

「平成九年十月一日、信越本線 横川―軽井沢間、廃止」

悠人は制帽を手に取り、しばらく眺めた。フェルトに鼻を近づけると、埃と、かすかな汗と、うっすらとした機械油の匂いが染みついていた。長い時間、誰にも触れられずに眠っていたものの匂いだった。それから手帳と一緒に、自室の抽斗にしまった。

大学四年の秋、忠雄が亡くなったとき、悠人はラグビー部の海外遠征でニュージーランドにいた。連絡自体はその日のうちに届いていた。ただ、大会の真っ最中で、チームを抜けて帰国する便を見つけたときにはもう三日が過ぎていて、家族葬はとうに終わっていた。悠人は当時のキャプテンで、抜けるという選択肢を、本気では考えなかった。帰国し、実家に戻ったとき、祖父はもう骨壺になっていた。線香の匂いだけが、部屋にうっすらと残っていた。手を合わせることしかできなかった。その不在は、十年以上経った今も、悠人の中でどこにも置き場所のないまま残っている。


第二章 旧線の道

祖父に連れられて、碓氷峠鉄道記念公園に行ったのは、悠人がまだ小学校に上がる前のことだ。家からは車で十五分もかからない。特別な旅行というほどのことでもなく、祖父が思い立って、軽トラックの助手席に悠人を乗せていっただけだった。月に一度か二度、休みの日にはよくそうしていた。中学に上がる少し前まで、それは続いた。

空気には、山の緑と、少し湿った土と、遠くの沢の水の匂いが混じっていた。肺の奥まで、すっと冷たいものが入ってくる感じがした。夏だというのに、日陰に入ると肌寒いくらいだった。それが悠人にとって、当たり前の空気だった。比べる対象など、まだどこにもなかった。

「涼しいね」

悠人がそう言うと、祖父は笑って、「山が近いからな」と答えた。

碓氷峠鉄道記念公園。かつて横川運転区があった場所に建てられた、鉄道の博物館だった。園内には、祖父が長年乗っていたというEF63形電気機関車が、いくつも静かに並んでいた。黒とオレンジの重厚な車体は、幼い悠人には巨大な生き物のように見えた。近づくと、油と鉄が混じったような、独特の匂いがした。金属が太陽に温められて放つ、少し甘い匂いだった。

「これは峠を越えるための機関車だ」

祖父はそう教えてくれた。急な坂道を登り降りする列車を、後ろから押したり、前で引っ張ったりして支える機関車。碓氷峠は、鉄道にとって最大の難所のひとつだった。祖父はその坂を、長年、支え続けてきたのだという。

運転体験のアナウンスが流れ、汽笛が低く長く鳴った。腹の底に響くような音だった。悠人はその音に、思わず耳を塞いだ。祖父は笑って、悠人の手を握った。祖父の手は大きく、皮膚が厚く、少しざらついていた。

柵の向こうの運転席がよく見えないと悠人がぐずると、祖父は何も言わずに膝をつき、悠人を肩に担ぎ上げた。祖父の首は太く、日に焼けて熱かった。汗と、機関車と同じ油の匂いが混じって、鼻先に立ちのぼる。落ちないようにと、悠人が両手で祖父の短い髪をわし掴みにして引っ張ると、祖父は「痛い痛い」と顔をしかめながらも、担いだまま歩き続けた。祖父の背中越しに伝わる体温と、一定のリズムで揺れる肩の動きだけを、悠人はいつまでも覚えていた。言葉は、二人ともあまり多くなかった。

帰りには、決まって横川駅前で釜めしを買った。土でできた重い釜の蓋を開けると、醤油と出汁の匂いがふわりと立ちのぼる。祖父は自分の釜から栗をひとつ、何も言わずに悠人の器に移してくれた。栗が好きだと言ったことは一度もなかったが、祖父はいつもそうした。悠人がそれに気づいて礼を言うと、祖父はただ、少し照れたように鼻の下をこすった。

園内を抜けると、線路の跡に沿って続く遊歩道があった。旧線の道と呼ばれるその道を、祖父は手を引きながらゆっくりと歩いた。トンネルをくぐると、ひんやりとした空気が頬をかすめ、外の光がまぶしく感じられた。赤煉瓦の橋を渡るとき、下を覗くと谷が深く、風がまっすぐに吹き抜けていった。祖父は道々、機関車の話をした。何度も同じ話を繰り返した。悠人は退屈しながらも、祖父の声が好きだった。

「新幹線に乗ったことは?」

帰りの車の中で、悠人はそう聞いたことがある。祖父は少し黙ってから、「一度もない」と答えた。

「速いのに」

「速く着くことに、興味がなかったんだな」

その言葉の意味が分かったのは、ずっと後になってからだった。

母の理恵は、そんな祖父を見て、ときどき寂しそうな顔をした。「おじいちゃんは、変われない人だったから」。子供の頃、悠人はその言葉を、単なる説明として聞き流していた。


第三章 廃止決定

高橋忠雄は、昭和十年、群馬県桐生市の織物屋の六男に生まれた。

桐生は絹織物の町だった。「西の西陣、東の桐生」と呼ばれ、家々の屋根はノコギリのような形をして、機織りの機械音が朝から晩まで町中に響いていた。忠雄の家も、代々続く小さな織元で、家の中はいつも、繭を煮る独特の甘い匂いと、機械油の匂いが混じり合っていた。だが六男ともなれば、跡を継げる立場ではない。冬になると赤城山から吹き下ろす、乾いた冷たい風――赤城おろしに、忠雄は幼い頃から吹かれ続けた。頬が切れるように痛い風だった。土埃と枯れ草の匂いを運んでくる風でもあった。上州の男は、この風のように、頑固で、無口で、曲がらないものだと言われていた。

昭和二十九年、十九歳の忠雄は、赤城おろしに背中を押されるようにして、家を出て国鉄に入った。配属されたのは、横川機関区。碓氷峠を越えるための機関車が集まる場所だった。

当時はまだアプト式と呼ばれる古い方式で、忠雄は先輩の下働きから始めた。峠を知り尽くすまでの下積みは長かった。昭和三十八年、峠が粘着運転方式に切り替わり、新型の補助機関車EF63が導入されると、忠雄は正式にその運転士になった。

碓氷峠は、勾配六十六・七パーミル。国内屈指の急勾配区間だった。単独の機関車では登れない坂を、EF63二両が列車の後ろに連結され、押し上げる。あるいは下りでは、強力なブレーキで速度を制御しながら支える。

電気機関車には、蒸気機関車にはない弱点があった。車輪が空転すると、モーターが一気に高速回転し、内部の整流子とブラシの間で火花のようなショートが起きる。フラッシュオーバーと呼ばれるその現象が起きれば、モーターは二度と動かなくなる。忠雄たちはEF63にしか装備されていない電磁吸着ブレーキ――電磁石で直接レールに吸いつく、最終手段のブレーキを預かりながら、峠を支え続けた。

昭和五十年代のある夜、忠雄はその一線を、あと少しで越えかけたことがある。雪の予報はなかったのに、峠だけに小雪が舞い、レールにうっすらと氷の膜が張っていた。速度を落とし、ブレーキをかけ直した瞬間、後ろの車輪がわずかに空転した感触が、足の裏から伝わってきた。忠雄は反射的に電磁吸着ブレーキのスイッチに手をかけていた。空転は一秒に満たない間に収まった。もし収まらなければ、モーターは焼き付き、最悪の場合、峠のどこかで列車ごと止まっていた。相方の運転士は、何も気づかずに前を見ていた。忠雄はそのことを、誰にも話さなかった。手のひらに、しばらく汗が残っていた。

冬になると、峠はさらに厳しくなった。標高九百メートル近いこの峠は、氷点下十五度まで下がることも珍しくない。息を吐くと、白い塊になって目の前でゆっくりとほどけていった。夜間、吹雪の中を時速二十キロほどの遅さで、じりじりと峠を支えていく。運転席の窓に雪が張りつき、視界が半分ほど白く塗りつぶされることもあった。桐生で吹かれた赤城おろしの冷たさが、峠の風の中に重なることが、忠雄にはよくあった。

編成によっても、扱いはまるで違った。客車と電車では速度制限が違い、貨車ではさらに厳しく制限された。編成表を一目見れば、忠雄の体は自然とブレーキのタイミングを調整していた。それは、誰かに教わったというより、三十年以上かけて骨の髄まで染み込んだ感覚だった。

平成六年、長野新幹線の建設計画が本格化した。碓氷峠を迂回する新しいルートが敷かれ、開業と同時に、横川―軽井沢間の在来線は廃止される。そう決まったとき、機関区の空気は張り詰めた。

「配置転換の話、もう来てるらしいぞ」

同僚の一人が言った。若い運転士たちは、他線区への異動や、新幹線の保線業務への転向を、比較的すんなりと受け入れていった。時代が変わるのだから仕方がない、と誰もが口にした。

忠雄だけは、何も言わなかった。会議のたびに黙って座り、資料に目を通し、質問もせず、意見も言わなかった。

「高橋さんは、どうするんですか」

若手が尋ねたことがある。忠雄はしばらく考えてから、こう答えた。

「峠を越える仕事しか、知らんのでな」

それは答えになっていなかった。だが誰も、それ以上は聞かなかった。


第四章 最後の仕業

平成九年十月一日。長野新幹線が開業するその日、信越本線横川―軽井沢間は、百四年の歴史に幕を下ろした。忠雄はこのとき六十二歳。本来ならとうに定年を迎えている歳だったが、廃止の日まで現役を務めてほしいという機関区の意向で、雇用が延長されていた。

前日の夜、忠雄は最後の仕業についた。下り「あさま」を後ろから押し上げる、いつもと同じ勤務だった。ただ、峠を越えるあいだ、忠雄は一言も発さなかった。相方の運転士が何度か話しかけても、短く答えるだけだった。

忠雄には、忘れられない一日があった。何年か前の春、修学旅行のシーズンに、急行編成が団体で増結され、いつもの八両が十二両になったことがあった。編成表を見た瞬間、忠雄はブレーキを込めるタイミングをいつもよりひと呼吸早めていた。重さが違えば、峠の下りにかかる負荷もまるで違う。車内には、修学旅行の子供たちのはしゃぐ声が響いていた。あの声を、無事に峠の向こうまで届けること。忠雄にとって、それが仕事のすべてだった。

熊ノ平を過ぎ、めがね橋の上を渡るとき、車窓の向こうに月明かりに照らされた谷が見えた。空気は氷のように冷たく澄んでいて、遠くの山の稜線までくっきりと見えた。何百回、何千回と見てきた景色だった。もう二度と、この速度で、この角度から見ることはない。忠雄はそのことを、その瞬間まで、本当の意味では分かっていなかったのかもしれない。

横川に戻ると、駅には報道のカメラと、鉄道ファンと、機関区の関係者が集まっていた。誰かが涙を拭っていた。誰かが記念写真を撮っていた。忠雄は輪の外に立ち、ただ機関車を見ていた。汽笛が一度、低く長く鳴った。それが、この機関車が峠を支えて鳴らす、最後の汽笛だった。

「高橋さん、何か一言」

若い記者に声をかけられたが、忠雄は首を振った。何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。三十年以上、峠を支えてきた手は、翌日から何をすればいいのか、忠雄自身にも見当がつかなかった。

同僚の何人かは、新幹線の保線区に移り、忙しなく新しい仕事を覚えていった。「これからは新幹線の時代だから」と、前向きに語る者もいた。忠雄は、その言葉を素直に受け取ることができなかった。峠を越える理由がなくなったのに、峠を越える技術だけが自分の中に残っている。それが、忠雄には奇妙な感覚だった。


第五章 宮田さんの成果

現在に戻る。

佐伯が去って一週間後、宮田がプロジェクトの成果報告をした。AIエージェントに構成から初稿までを任せた研修プログラムの提案が、これまでの三倍の速度で完成し、評価も上々だという。会議室の窓の外では、乾いた東京の風がビルの谷間を吹き抜けていくのが見えた。

「素晴らしいね。悠人くんの型が、ちゃんと組織に根付いてきた証拠だ」

迫田パートナーが満足げにうなずいた。悠人は拍手をしながら、心のどこかで冷めていた。宮田の提案書は確かに優秀だった。悠人が去年作り上げた手法を、忠実に、寸分違わずなぞっている。効率という点では、非の打ちどころがない。それなのに、自分の思想がそのまま若い世代に反復されているのを見て、悠人は誇らしさとは違う、据わりの悪い感覚を覚えた。うまく言葉にできない、奇妙なずれだった。

佐伯が十五年かけて積み上げてきた、現場の失敗談や、受講者の顔を見ながら間を取る呼吸のようなものは、宮田の提案書には入っていなかった。数字には表れない部分だ。だから、消えても誰も気づかない。

「悠人さんも、もっと自分の型、外に発信していけばいいのに。もったいないですよ」

宮田は悪気なく言った。悠人は「考えとく」とだけ答えた。

自分は、変化に適応する側の人間だ。むしろ、その変化を後押しする仕事をしている。それなのに、佐伯の空いたデスクを見るたびに、何かが引っかかった。祖父の手帳の一行が、頭から離れなかった。


第六章 工場の日々

平成九年十月、忠雄は地元の部品工場に再就職した。設備の保守点検という、機関車の整備とは畑違いの仕事だった。

工場の中は、油と金属の匂いがした。峠で嗅いだ匂いと似ているようで、どこか違う。機関車の匂いには、風と、雪と、遠い場所へ運ばれていく気配が混じっていた。工場の匂いには、それがなかった。ただ、同じ場所で、同じ機械が、同じ音を立てて回り続けているだけだった。

真面目に、文句も言わず勤めた。同僚は皆、忠雄より一回りも二回りも若かった。誰も、碓氷峠のことも、EF63のことも知らなかった。忠雄も、あえて話すことはなかった。

家では、時折昔の話をした。娘の理恵が結婚し、孫の悠人が生まれてからは特に、峠の話をよくするようになった。まるで、話すことでしか、あの三十年余りを確かめられないかのように。

「お父さん、また同じ話」

理恵がそう言うと、忠雄は決まって黙り込んだ。悪びれるでもなく、ただ静かに、話を止めた。

理恵は、そんな父を見て複雑な気持ちを抱いていた。頑固で、不器用で、新しいことを覚えようとしない。工場の仕事も、最低限をこなすだけで、それ以上を望まなかった。周りが便利な道具を使いこなしていく中、忠雄だけが取り残されていくように見えた。

けれど、峠の話をするときの父の目には、他のどんな時とも違う光があった。理恵はそれを、寂しさと呼んでいいのか、誇りと呼んでいいのか、長い間分からなかった。

平成十二年、忠雄は六十五歳で工場を退職した。特に何をするでもなく、家で過ごす日が続いた。


第七章 動けない悠人

「高橋くん、少しいいか」

迫田パートナーに呼ばれ、悠人は面談室に入った。まだ四十代前半で、社内では最速で昇格した部類の人間だった。頭のキレも、クライアントへの提案の説得力も、社内随一だと言われている。ただ、二〇〇〇年代のまだ体育会的な気風が残っていた時代に鍛えられた世代で、徹夜を当然と考える癖や、気に入らない資料を目の前で構わず破り捨てる癖が、いまだに完全には抜けていなかった。今はさすがに人前で紙を破ることこそなくなったが、手元のタブレットの画面を苛立たしげに指で叩く仕草に、その名残がにじんでいた。ガラス張りの部屋の外には、隙間なく並んだビルの群れが見えた。

「佐伯くんの件、気にしてるんじゃないか」

図星だった。悠人は言葉に詰まった。

迫田はタブレットの画面を一瞥した。「感情の話はしてない。数字だけ見れば、この半年、彼のアウトプットはチームの下位十パーセントだった。それだけのことだ」

「分かってます。変われない人間は、いずれ淘汰される。それだけのことです」

悠人は、いつもの持論を、今度は短く言い切った。間違っていないはずだった。何度も自分に言い聞かせ、クライアントにも語り、社内でも実践してきた考え方だ。

それなのに、口にした瞬間、自分の言葉のどこかに、髪の毛ほどの細い亀裂が走るのを感じた。うまく説明できない違和感だった。

「次のクライアント、もう社名は言えないが大手だ。高橋さんに任せたい」

面談室を出たあと、悠人はしばらく廊下に立ち尽くした。窓の外は、もう暗くなり始めていた。自分にできることは何もない。佐伯の契約終了は、もう決まったことで、覆らない。それでも、何もしないまま日常に戻ることに、強い抵抗があった。

その夜、悠人は久しぶりに実家に電話をかけた。

「お母さん、おじいちゃんの手帳、まだ持ってる?」

「持ってるけど、急にどうしたの」

「もう届いてる。この前、荷物の中にあった」

理恵は少し間を置いてから、「そう」とだけ言った。


第八章 指導員になるまで

平成十五年、忠雄は碓氷峠鉄道記念公園のEF63運転体験指導員の募集に応募した。理恵に勧められてのことだった。

「今更、何を教えるんだ」

初めは、そう漏らしていた。だが、学科と実技の講習を経て、実際に運転席に座り、参加者に操作を教える段になると、忠雄の表情は変わった。ノッチの入れ方、ブレーキの感覚、速度の読み方。三十年余り体に染み込んだ技術は、少しも錆びついていなかった。

線路は、往復でおよそ四百メートル。かつて忠雄が越えていた峠には、遠く及ばない距離だった。講習の始まりには、指導員が「ヨシ、出発進行」と号令をかける。忠雄のその声は、若い頃より低く掠れていたが、峠にいた頃と同じ響きを持っていた。運転席のそばに立つと、油と鉄の匂いが、忠雄を三十年前に連れ戻した。窓の外を、あの頃と同じ風が吹き抜けていく。

ある日、講習を受けた小学生の男の子が、無邪気に尋ねた。

「これで、軽井沢まで行けるの?」

忠雄は一瞬、返答に詰まった。

「いや。ここで、折り返すだけだ」

その声には、誇らしさと、拭いきれない何かが同時ににじんでいた。技術は必要とされ続けている。人は喜んでくれる。それでも、峠を越えていた頃の意味――重い列車を支え、乗客の命を預かり、危険と隣り合わせで坂を越すという、あの三十年余りの実質は、もう戻ってこない。忠雄は、そのことをよく分かっていた。分かった上で、それでも運転台に座り続けた。

それが、忠雄に残された、たったひとつの居場所だった。本物の代わりにはならない、けれど、何もないよりは、ずっとましな場所。忠雄はそこで、平成二十七年、八十歳で亡くなるまで、十年以上にわたって指導員を続けた。


第九章 電話

祖父の手帳が届いた翌週、悠人はもう一度、手帳を最初のページから読み返した。「峠を越える仕事しか、知らんのでな」。忠雄が若手に答えたという、あの一行が出てきた。答えになっていない答え、と母から聞かされたその一言が、なぜか佐伯の、あの空になったデスクと重なった。悠人は手帳を閉じ、スマートフォンを手に取った。指が、考えるより先に動いていた。

「高橋です。急にすみません」

「ああ、高橋くん。珍しいな」

声は、思ったより落ち着いていた。

「実は、地元の商工会が、若手社員向けの研修講師を探してるって話を聞いて。佐伯さんの経験、絶対活きると思うんです」

電話の向こうで、しばらく沈黙があった。エアコンの音だけが、悠人の部屋に響いていた。

「俺にできるかな」

「変わらなくていいですよ。佐伯さんのままで、話してくれればいいので」

自分の口から出た言葉に、悠人は少し驚いていた。変われない人間は淘汰されてしかるべきだと、本気で信じてきたはずだった。その持論と、今しがた自分がした電話は、明らかに矛盾している。それでも悠人は、電話を切るまで、その矛盾を止める気になれなかった。

佐伯が引き受けてくれるかどうかは、まだ分からない。ただ、電話を切ったあと、悠人はふと気づいた。佐伯が講師になったとしても、それはかつての「研修コンテンツを作る仕事」そのものではない。あくまで、その記憶を語る仕事だ。

悠人は抽斗を開け、祖父の制帽をもう一度眺めた。祖父も、同じだったのだろうか。峠を越える仕事ではなく、峠を越えていたことを教える仕事に、最後は落ち着いた。

祖父が死んでから、悠人は一度も鉄道記念公園に行っていない。行かなければ、と思ったことすらなかった。


第十章 峠のあと

祖父の手帳の最後のページには、こう書かれていた。

「旧線の道を歩く。孫と。良い日だった」

日付は、悠人が中学に上がる少し前だ。忠雄が七十代の半ばに差し掛かった頃だった。その下に、もう一行、震えるような字で追記があった。

「峠を越える理由は消えても、越えていた事実は消えない」

悠人は、その一行を何度も読み返した。

  ◆

それから六年が過ぎた。

悠人は加奈子と結婚し、五歳になる息子の蒼がいた。ある秋の週末、鉄道好きの蒼が「本物の機関車が見たい」とせがみ、悠人はスマートフォンで路線を調べた。新幹線で高崎まで行き、そこから在来線に乗り換える。祖父のことを特に考えていたわけではなかった。ただ、蒼が喜びそうな場所を検索して、たまたま行き先がそこになっただけだった。出がけに、抽斗を開けたついでに、祖父の制帽が目に入った。持っていくかどうか、悠人は数秒だけ迷い、結局、鞄の底に押し込んだ。それだけのことだった。

新幹線を降り、高崎で在来線に乗り換えて横川に着いたとき、悠人はドアが開いた瞬間、思わず立ち止まった。空気が、違う。東京の乾いた、味のしない空気とは、明らかに何かが違っていた。山の緑と、少し湿った土と、遠くの沢の匂いが混じっている。肺の奥まで、すっと冷たいものが入ってくる。子供の頃はこれが当たり前の空気で、比べる対象などなかった。東京で暮らすようになって初めて、これが「違う空気」だったのだと気づいた。その感覚だけは、二十年以上前、祖父の軽トラックを降り立ったときと、寸分違わず同じだった。

「パパ、はやく」

蒼が悠人の手を引っ張った。悠人は駅前の売店で、釜めしを二つ買った。子供が土鍋の蓋を珍しがるだろうと思っただけで、それ以上の理由は特になかった。その手を握り返しながら、駅の外に出た。

碓氷峠鉄道記念公園は、記憶よりも整備され、園内には家族連れの姿が多かった。屋外展示のEF63の何両かは、運転体験用の一両を除いて、修復されないまま並んでいた。塗装のあちこちが剥げ、車内の座席には穴が空いている。錆が浮いている箇所もあった。


EF63の運転台

「わあ、ぼろぼろ。きたない」

蒼が指をさして、無邪気に言った。悠人は苦笑して「静かに」とたしなめかけた。だが、車体に近づいてよく見ると、手すりの塗装だけが特に薄くなっている箇所があった。何十年もの間、無数の手が同じ場所を握り続けてきた跡だった。きれいに塗り直された展示物には、絶対に出ない生々しさだった。

悠人は、蒼の「ぼろぼろ」という言葉が、実は一番正確な言葉だったのだと気づいた。修復されず残ったものの中にこそ、そこで確かに誰かが生きて、働いていたという事実が刻まれている。

「パパ、これ、なに?」

蒼が、隣に立つ別の機関車を指さして聞いた。柵の向こうがよく見えないらしく、爪先立ちで伸び上がっている。悠人は蒼の脇に手を入れ、肩に担ぎ上げた。落ちないようにとしがみつく小さな両手が、迷わず悠人の髪をわし掴みにして引っ張った。「痛い痛い」と言いながらも、悠人はそのまま歩き続けた。担いだ肩に伝わる重みと体温に、悠人は一瞬、遠い記憶をかすめられた気がした。

「これはね」

そこまで言って、悠人は言葉に詰まった。ちょうどそのとき、園内のスピーカーから、運転体験を知らせるアナウンスが流れ、指導員の号令の声が響いた。「ヨシ、出発進行」。汽笛が一度、低く長く鳴った。腹の底に響く、あの音だった。

そして、匂いが来た。油と鉄の混じった、金属が日差しに温められて放つ、あの少し甘い匂い。音よりも先に、光景よりも先に、匂いだけが悠人の中にまっすぐ入り込んできた。理屈で思い出したのではない。体の奥の方で、何かの鍵が音もなく開いた感じだった。

その瞬間、悠人の中で、何かが一気にほどけた。

同じ匂いを、悠人は前にも嗅いだことがあった。幼い日、祖父に手を引かれて歩いた旧線の道。トンネルをくぐるときのひんやりとした空気。赤煉瓦の橋の下を吹き抜けていった風。祖父の手のざらつき。肩に担がれたときの、あの体温と重み。釜めしの蓋を開けたときの、醤油と出汁の匂い。何も言わずに栗を分けてくれた、あの仕草。祖父の声。「速く着くことに、興味がなかったんだな」。手帳の紙の匂い。几帳面な文字。「平成九年十月一日」。海外遠征先で受け取った、間に合わなかった知らせ。線香の匂いだけが残っていた部屋。骨壺になっていた祖父。会議室で見た、佐伯の空いたデスク。宮田の何気ない言葉。迫田パートナーの、正しすぎる言葉。電話越しの佐伯の、少しかすれた声。「俺にできるかな」。祖父が運転席で子供に答えていた、あの一言。「いや、ここで、折り返すだけだ」。

そのすべてが、一続きのフィルムのように、悠人の中でつながって流れていった。ひとつひとつは、ただの断片だった。祖父の頑固さも、佐伯の変われなさも、悠人自身の後ろめたさも。それでも、こうして今、息子の手を握りながら振り返ると、断片は断片のまま、ただ静かに並んでいた。

いつだったか、頭の中で鳴り続けていたバッハの旋律のことを、悠人はふと思い出した。対位法。互いに寄りかかることなく、それぞれの道を進みながら、同時に鳴らされる、二つの声部。二つの旋律は、決して交わらないまま、それぞれ別の時間を鳴らし続けてきたはずだった。

もう一度、汽笛が長く尾を引いて鳴った。その本物の音に押し出されるように、頭の中で繰り返されていたあの旋律が、初めてぴたりと止んだ。武装として身につけてきた秩序だった音楽より、傷んで掠れたこの汽笛の方が、今の悠人にはよほど確かなものに感じられた。

悠人は鞄から、祖父の制帽を取り出した。

「かぶってみるか」

蒼の頭にかぶせると、大きすぎて目のあたりまで隠れてしまった。

「見えないよー」

蒼が笑いながら、帽子のふちを持ち上げた。その顔を見ながら、悠人も思わず笑った。悲しさがないと言えば嘘になる。峠を越える理由は、もう戻らない。忠雄が最後まで抱えていた、あの拭いきれない何かを、悠人は初めて自分の言葉で理解した。祖父のもとへ、十七年越しに、ようやく戻ってきたような気がした。

「今も峠、越えられるの?」

蒼が制帽の下から、悠人を見上げて聞いた。

悠人は少し笑って、首を振った。

「いや。今は、ここで、折り返すだけなんだ」

それでも、蒼は機関車を見上げて、目を輝かせていた。この子には、この子なりの意味が、これから生まれていく。忠雄も、悠人も、きっとこの先も変わらないままなのだろう。それでも、こうして誰かの手を握っている限り、変わらないままの何かにも、渡せるものはあるらしかった。

風が一度、峠の方から吹き下ろしてきた。悠人は、蒼の手をもう一度握り直した。汽笛が、もう一度低く鳴った。

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