幕末の最初と最後に立ち会ったラストサムライ 中島三郎助
「父上をひとりぼっちにはしませんよ」
風がそう囁いた。
それは、初めての函館旅行のことだった。
桜の海を泳ぐように五稜郭を歩いた翌日である。
その日は、別にそう計画していたわけではなかった。
でも、相棒と私の心は決まっていた。
ホテルから一本木関門まで歩こうと。
それは、土方歳三最後の出撃を辿る道であった。

土方歳三は、五稜郭を背に、この道を馬でまっすぐ駆け抜けていったのだろう。
新政府軍に包囲された弁天台場に残る、新選組隊士たちと合流するために。
五稜郭を背に松浦通りを歩いて行くと、左手に大きな公園が見えてきた。
千代台公園とある。
そして公園から道路を挟んだ向かい側に、松の木と花々が植えられた一角があり、石碑があった。
その石碑には「中島三郎助父子最期ノ地」と書かれていた。
その町の名は中島町だった。


私は石碑の傍らに置かれた説明を読んだ。
「中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2年(1855年)に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。
維新後、明治元年(1868年)10月、彼は榎本武明と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。函館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備についた。
新政府軍は函館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを拒絶して戦闘を続け、明治2年(1869年)5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く思いかな」という辞世の句を残した。
昭和6年(1931年)に、中島父子にちなんで、千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名付けられた。」
このときは、ああ、そうか、はるばる浦賀からこの地に来て、ここで徳川幕府に殉じたラストサムライたちがいたのだな、と思い、その石碑に手を合わせた。
石碑を飾るように生い茂る松の葉が風でさやさやと揺れた。
私は、この時初めて「中島三郎助」という名前を知った。
この時の函館の旅については、語るべきことが多いので、また別の記事に書きたいと思う。
函館の旅を終えた後、私は中島三郎助はどのような人物だったのか、どうして息子2人は彼と共に遠い函館の地で散ったのか、そして、なぜ彼らが町の名前になっているのか、その答えを探しはじめた。
彼は教科書には載っていない。
しかし、彼について書かれた小説を見つけた。

しばらく絶版になっていたが、30年ぶりに電子書籍として復刊したらしい。
この本が、これからずっと残ることが嬉しい。
中島三郎助という人物を知れば知るほど、私は彼に惚れた。
そのロックな魂に。
稀有な才能と行動力に。
国をどうすれば守れるか彼は知っていた。
そのために病躯を押して尽くし、日本の近代化に大きく貢献した。
しかし大政奉還があり、戊辰戦争があり、それまで絶対だと思われていた秩序は、音を立てて崩れていった。
彼にとっての国とは、自らの身体に流れる血脈そのものだった。かれは自らの生き方を間違えなかった。
その最期の瞬間まで。
中島三郎助。
彼は、幕末の最初と最後に立ち会ったラストサムライだった。
嘉永六年六月(1853年7月)、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号が浦賀にやってきて開国を迫った。
「高官でなければ交渉しない」
ペリー側は高圧的だった。な
浦賀奉行所の与力であった中島三郎助は、自分を副奉行と称してサスケハナ号に乗船した。当然副奉行という役職はない。
通詞の堀が慌てて止める。
「軽くて閉門、悪くすれば切腹ということになりかねませぬ」
しかし、彼は、相手の真意と軍備の確認が急務と考え、すべての責任を取る、と黒船に乗り込んだ。そうして、大砲外交で即時開国を迫るペリー側に対し、敵情視察と時間稼ぎという離れ業をやってのけた。
そう、中島三郎助は、ちょっとありえないくらい肝が据わっていた。
徳川幕府が開かれてからおよそ二百六十年、代々、海からの侵入者に備え、国を守ってきた一族。
その血脈に流れる「侍の純度」は、極限まで研ぎ澄まされていた。

通詞の堀を伴い、その甲板に立った彼は、船体構造、搭載された大砲、蒸気機関のすべてを目に焼き付ける。
アメリカ側の記録には、「密偵のように細部まで調べていた」とさえ記されたという。
彼は知っていた。このままでは、この国は海から屈する、と。
そう、彼はこのときすでに、黒船を追い返すだけではなく、同じ船を作って国防を強化しようと考えていたのだ。
だからこそ、黒船を追い返したその後、幕府にこう訴えた。
「西洋に対抗できる軍艦を、日本の手で造るべきだ」と。
海防の重要性を認識した幕府は、江戸初期以来続いてきた「大船建造の禁」を解いた。
浦賀は従来、海防と船の修理を担う拠点であったが、幕府の命により中島三郎助らが中心となって、造船施設が新たに整備された。ほぼ同時に日本初の大型洋式軍艦建造の建設がはじまり、翌年嘉永七年五月十日(1854年6月6日)に竣工した。なんと、ペリー来航の翌年に完成したのである。

のちにアジアで初めて太平洋横断を成し遂げた咸臨丸は、三郎助たちが築いた浦賀のドライドックで、三郎助自身の手によって、渡航前の修繕が施された。
しかし、三郎助は咸臨丸に乗ってアメリカへ行くことはできなかった。
三郎助は心外であった。大いに不満であった。経験、技量のいずれをとっても不適格となる要素などは考えられないのだ。だが彼は、アメリカへ赴く咸臨丸の乗組要員からはずされた。

とても残念だ。もし中島三郎助が咸臨丸に乗っていたなら、どれほど多くの見聞を日本へ持ち帰ってくれただろうか。
日本の国防を誰よりも真剣に考え、日本人による船の建造とインフラの整備、そして航海技術の修得教育という偉業を短期間で成し遂げた三郎助。
ちょっと無理をすると持病の喘息が出てしまう。
そんな身体で、一度は隠居をしたのだが、時代が療養を許さなかった。
「国を守る」そのただひとつの目的のために、自らのすべてを注ぎ込んだ。
頭脳と能力の高さはもちろんのこと、彼を突き動かすのは、まるでマグマのような熱量と、なすべきことへの、ダイヤモンドのように光り輝く魂の純度である。
彼は家族はもちろん、同僚や部下、さらには藩や立場を超えた人々からも、深く敬愛されていた。
長州藩士、のちに明治を担う木戸孝允と名を変える桂小五郎は、若き日に三郎助を師と仰いでいた。
安政年間、造船や洋式船の技術を学びたいと望んだ桂小五郎は、三郎助の屋敷を訪れ、一月半ほど泊まり込みで学んだという。
その間、三郎助はただの師匠としてではなく、同じ志を持つ仲間として彼を迎え入れた。
桂自身、そのときの経験から、生涯を通して三郎助を深く尊敬し、その人柄と技術を高く評価したと伝えられている。
だが、三郎助や桂小五郎のように、藩や立場を異にしながらも、「国を守る」という一点に心を燃やした人々の思いとは裏腹に、日本を取り巻く情勢は、彼らの理想を待つことなく激変していった。
大政奉還、そして戊辰戦争が始まり、朝敵とされた旧幕府軍に対する討伐が本格化した。
恭順か死か。
その二択を迫られた旧幕府軍に、もう一つの選択肢を示したのが、榎本武揚の提唱する「蝦夷共和国」であった。
「いや、蝦夷がある」
榎本はきっぱりと言い、大きなざわめきが起こった。
彼は若かりしころ、巡見史に従って蝦夷各地をくまなく歩いた際の見聞を語った。広大な土地はほとんど原野のままで、松前藩がごく一部を領している他は蝦夷人が散在してるだけの、いわば巨大な空白地帯なのである。この地に入植して開拓を行い、徳川でも朝廷でもない新しい国家を自分たちの手で建設する。将来、徳川家の家臣たちが入植に加わりたければ拒むものでもないし、ロシアに対する北辺警備の意味も持つので朝廷の理解も得られるのではないか。本州とは海を隔てているので、万一の場合は開陽丸を初めとする強力な軍事力がものを言い、決して夢物語ではない。これは以前蝦夷地を訪れて以来、永く抱き続けた計画だったのだ。彼は熱く説いた。
ここで蝦夷共和国の要となったのは、軍艦の操艦と修理に通じた技術、すなわち中島三郎助を中心とする航海術人材の存在であった。蝦夷共和国の構想段階から、三郎助はその中核を担う存在として位置づけられていたのである。
そして三郎助は、先祖代々仕えてきた幕府への恩義はどうしても捨てられなかった。「自分一人くらいは、幕府に殉じよう」と覚悟を決めていた。
軍艦を操縦できる自らの技術と、軍艦そのものの力があれば、蝦夷共和国の建設は、実現可能であるとも考えたかもしれない。
「蝦夷共和国」は、行き場を失った多くの幕臣にとって、燦然と輝く希望の光であったろう。
中島三郎助は榎本武揚らと行動を共にし、江戸を脱して蝦夷地へと渡った。
明治元年(1868年)のことである。
八月十九日の朝を、三郎助は粛然たる思いで迎えた。榎本艦隊が、いよいよ江戸湾脱出を結構する日なのである。彼は、一月ほど前に東京と改められた街並みをはるかに望んだ。心に迷いはなかった。
が、自分を慕い、行動を共にする旧浦賀奉行所の者や息子のことを思うと、気が重くもあった。合わせて、三十余名もの者が加わっているのである。
彼は蝦夷へ赴く直前、二人の息子・恒太朗と英次郎とともに、下岡蓮杖のもとで写真を撮影している。写真は後に、下岡蓮杖から妻のすずのもとに届けられた。

開陽丸をはじめとする軍艦八隻で榎本武揚率いる艦隊は北へ向かった。
暴風雨の中ようやく仙台に到着した。
沈没かと気遣われていた長鯨丸、千代田形、回天丸がすでに入港していて榎本を喜ばせ、九月に入って迅速丸と蟠竜丸も姿を見せた。しかし咸臨丸と美嘉保丸はついに現れず、一同を落胆させた。
(中略)
一方では、思わぬ喜びもあった。仙台で鳳凰丸と再び出合ったのである。
なんと、あの鳳凰丸は三郎助とともに北海道へ渡ったのである。
蝦夷共和国の構想は、最初から決して盤石なものではなかった。
旧幕府軍が蝦夷地に拠って立てた最大の拠り所は、箱館という地の利と、わずかに残された艦船戦力であった。しかし、その希望は、想像以上に脆かった。
新政府軍は、陸海の両面から着実に包囲網を狭めていく。
制海権を失えば、もはや抗戦の余地はない。その意味で、軍艦の存在は、蝦夷共和国にとって単なる兵器ではなく、「未来そのもの」であった。
だが、その頼みの綱は、次々と断ち切られていく。
宮古湾海戦における失敗。
そして決定的だったのが、主力艦・開陽丸の沈没である。
明治元年(1868年)十一月、江差沖で座礁した開陽丸は、暴風のなかで為す術もなく破壊され、海に没した。
最新鋭を誇ったその船は、文字どおり、蝦夷共和国の象徴であり、希望であった。
その喪失は、単なる戦力低下ではなく、構想そのものの崩壊を意味していた。
だが榎本艦隊の抵抗もそこまでだった。陸地からの砲撃もうけるようになった回天丸が沈黙し、蟠竜丸も砲弾を打ち尽して、また黙したのだ。官軍は二隻に火を放ち、燃え上がる炎が空を焦がした。回転丸の近くには、わずかに船首飾りを海面から覗かせて沈んでいる、鳳凰丸の姿もある。榎本艦隊は、ここに全滅したのである。
三郎助は箱館陣屋で戦っていた。津波のように迫る官軍の激しい砲撃にさらされ、彼らが海からの風を利して放った火で市中は炎の渦が巻いている。風下の陣屋にも炎が迫り、息もつけぬほどの熱風が吹いてくる。土方の戦死も伝えられた。三郎助は千代ヶ岡陣屋への後退を明示、自らはしんがりをつとめて脱出した。榎本軍の砦は、今や千代ヶ岡陣屋、弁天台砲台、五稜郭のみとなったのである。
海を制する力を失った瞬間から、蝦夷共和国は「国家」ではなく、「籠城する一勢力」へと追い込まれていったのである。
明治二年(1869年)春。
新政府軍は圧倒的な兵力と装備で函館を制圧し、次々と拠点を落としていく。千代ヶ岡陣屋もまた、完全に包囲された。
降伏勧告は、何回か届けられた。
命を惜しむなら、武器を捨てよ、と。
三郎助は、それを拒んだ。
意地ではない。虚勢でもない。
しかし三郎助の傍らには、二人の息子がいた。
長男・恒太郎、次男・英次郎。
彼らは最後まで、父の傍を離れなかった。
「まだ年端も行かぬ者たちを、幾人も死なせてしまったわしじゃ。どの面さげていきられようぞ」
加えて、生来の病身である。更に、脇腹に傷を負い、余命いくばくもないものを知っている。だが、若い二人は違う。父につき合って死に急ぐことはない。三郎助は諄々と説いたが、息子たちはどうしても頷かない。
恒太朗と英次郎は覚悟を決めてた。
最期まで父と同じ場所に立つと。
「父上をひとりぼっちにはしませんよ」
そして明治二年五月十六日(1869年6月25日)。
千代ヶ岡陣屋は総攻撃を受ける。
空が白みはじめると間もなく、官軍の総攻撃が開始された。三人は死力を尽くして応戦し、砲身が灼ければ次の砲に移って、霰弾で敵兵をなぎ倒した。が、それも束の間のことであった。弾丸が尽きるとともに敵の攻勢は激しさを増し、恒太朗が胸を射抜かれ、英次郎も砲弾の破片でのけぞった。二十二歳と十九歳の最期であった。
「恒太朗、英次郎・・・・許せ」
三郎助は絶叫した。目に初めて涙が沸き、汚れた頬を伝ってゆく。彼は血と泥で汚れた数珠で手を合せ、カノン砲に身を寄せた。すでに規定の数倍の量の炸薬が装填してあり、砲口は石で固く塞いである。弾薬庫までは、導火線がうめられていた。
土塁を越えた官軍が迫り、三郎助に銃弾が集中して彼は弾かれたように倒れた。彼は身を起して這いずり、砲身に馬乗りになった。
「一発」
三郎助はかすんだ目を見開き、短銃の引鉄を絞っては一人二人と敵兵を倒してゆき、
「六発」
と叫ぶなり、砲身の火門に向けて発射した。
北に旅立った夫と息子たちを心配しながら、妻すずは男子を出産し与曽八と名付けた。
「彼らが抵抗をやめない限り、新政府の我々を見る目は、いつまでも朝賊のままだ。」
「上様がすでに恭順しているというのに、とんだ不忠者めが」
すず達に対する世間の風当たりは強かった。
すずと子供たちを助けてくれたのは、中島三郎助を慕う義侠の士、山本長五郎と、三郎助のかつての友たちであった。
すずは彼らの助けを借りながら子供たちを連れて東京へと出た。
東京に落ち着いたすずの元に下岡蓮杖からの包みが届いた。
その包みは駿府や清水ほか様々な場所を転々と旅してきたのだった。
厳重に梱包された包みを開けると、蝦夷出立前に撮影された三郎助と恒太朗、英次郎の姿が鮮明に映ったギヤマン板4枚が現れた。
写真が届いたちょうどその日、新政府の機関紙、太政官日誌に「五月十八日、函館五稜郭で徳川脱走軍が降伏した」とあり、千代ケ岡陣地で討死した人々の中に夫と息子たちの名前を見つけたのであった。
そして梅雨が明けた頃、すずのもとに中島三郎助の遺書が届いた。
それは、明治二年五月十四日、浦賀衆一同の遺書を託され、陣を離れた鰐平と伝えられる人物によって運ばれたものであった。鰐平は、函館で侠客柳川熊吉の助けを受け、さらに浅草では新門辰五郎に庇護されながら、幾多の危険をくぐり抜け、命からがらすずのもとへたどり着いたのである。
そこには、別れの言葉とともに、辞世の句が記されていた。
あらし吹く夕べの花ぞ目出たけれ
散らですぐべき世にしあらねば
空蝉のからの衣をぬぎ捨てて
名をや残さむ千代ヶ岡辺に
(永胤)
ほととぎす
われも血を吐く思いかな
(木鶏)
「永胤」は武士としての諱であり、家と主君、そして歴史に向けた名である。
一方の「木鶏」は、世俗から一歩距離を置いた、俳人としての雅号であった。
武士としての死を詠んだ歌と、一人の人間としての心情を吐露した歌。
その二つを、三郎助は、あえて別の名で書き分けた。
とりわけ「ほととぎす われも血を吐く 思いかな」の一句には、切実さと同時に、どこか肩の力の抜けた響きがある。
死を前にしながらも、深刻さにのみ沈み込むことを拒み、最後まで言葉を手放さなかった姿が浮かぶ。
あるいは三郎助は、この一句を通して、すずに向けて、ほんのひとときでも「くすり」と笑ってほしかったのかもしれない。
武士としてではなく、俳人としての自分を、最後にそっと愛する人の心に残すために。
すずは心の内で、夫に語りかけた。
『恒太朗、英次郎も、根が淋しがり屋の父上を、よく一人ぼっちにしないでくれました。礼を申しますよ。』
すずの涙でくもった目には、夫と息子たちが笑顔で頷きあっているように見えた。
箱館の旅から戻り、私たちは浦賀を訪れた。
遠い函館の地で散った浦賀奉行所の侍達を故郷に帰してあげたかった。
訪れる人もまばらな、草深い愛宕山公園は、明治二十四年(1891年)に開園した、浦賀市内で最も古い公園である。
ペリーの浦賀来航の際に交渉にあたった浦賀奉行組与力・中島三郎助の招魂碑を建立するにあたり、その一帯が公園として整備された。
園内は山の斜面に沿って設けられており、道をたどると、自然に山を登っていくような感覚になる。
招魂碑の前に立つと、かつて三郎助が見つめたであろう浦賀の海が、今も静かに眼下に広がっていた。


篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆によるものだという。
しかし、いまは土に還りゆくかのように白いまだら模様に覆われ、文字はほとんど判別できない。

ここから幕末が始まった。
その始まりと最後に立ち会った侍がいた。
彼の名は中島三郎助。
その名前は、遠く函館の地で、今も生き続けている。
中島三郎助父子にこの歌を捧げる。
THEY WERE HERE. THEY STOOD.
They Were Here. They Stood.
Lyrics Card / 歌詞カード
Verse 1
Black ships cut across the waves,
黒船が波を切り裂き、
A sudden shadow on the shore.
岸辺に黒い影が迫る。
He would not step aside, standing strong,
彼は退かず、ただ凛として立ち、
Silent steel against the tide.
潮流に背を向ける鋼のごとく、静かに構えていた。
Verse 2
He studied foreign hulls and guns,
異国の船体や砲を観察し、
Counted engines, steam, and flame.
機関も蒸気も炎も見極めた。
From river stones to waiting docks,
川の岸から、船を待つドックまで、
He taught the sea to stand and wait.
彼は海に、身構え待つことを教えた。
Chorus
Seeking no name, asking no glory,
名を求めず、栄誉も乞わず、
He stood by a fading country to the end.
彼は滅びゆく国のそばに、最後まで立ち続けた。
To the final breath of samurai days,
侍の時代の息吹が消えるその瞬間まで、
He carved his life in stone.
命をそのまま石に刻み込んだ。
Verse 3
Ships were born beneath his gaze,
彼の眼差しのもと、船は生まれた。
Not for praise, not for command.
賞賛を得るためでも、命令に従った結果でもない。
Only so this fragile land
ただ、このか弱き国土が
Could stand alone, firm on its own.
揺るがず自らの足で立てるように。
Pre-Chorus
When banners turned and laws reversed,
旗が翻り、法が覆るとき、
The loyal were called enemies.
忠義は、敵と呼ばれた。
A ruler’s cause became a crime,
主君のための行いは罪となり、
And history turned its face away.
歴史は彼らから顔を背けた。
Bridge – The Sons
"I will not let my father die alone"
「父上を、ひとりでは逝かせません」
No orders given, no farewells shown.
命令されたわけでもなく、別れを言い交わすわけでもなく、
Two sons stepped forward, side by side,
二人の息子は肩を並べて進み出た。
So he would not walk his final line alone.
父が最後に歩む道に寄り添えるように。
Verse 4
Gunfire echoed, names fell silent,
銃声が轟き、名を呼ぶ声も消え、
Blood ran through Nakajima Town.
血が中島町を赤く染めた。
No final cry reached up the sky,
最期の叫びは空に届かず、
Only the earth remembered them.
ただ大地だけが、彼らを覚えていた。
Chorus
Seeking no name, asking no glory,
名を求めず、栄誉も乞わず、
They stood by a fading country to the end.
彼らは滅びゆく国のそばに、最後まで立ち続けた。
Father and sons, their names remain
父と息子たちの名は
The memory of this town.
この町の記憶として今も生きている。
Verse 5
Yet the land refused to let them fade,
それでも、この地は彼らを忘れなかった。
Holding fast to what was lost.
失われた命を、静かに抱きしめながら。
A town that bears their name still speaks,
その名を冠した町は、いまも語り続ける。
Long after all the smoke was gone.
すべての戦火が消え去ったあとも。
Final Chorus
Seeking no name, asking no glory,
名を求めず、栄誉も乞わず、
They stood by a fading country to the end.
彼らは滅びゆく国のそばに、最後まで立ち続けた。
Father and sons,
父とその息子たち、
Their names remain — the memory of this town.
その名は今も、この町の記憶として残る。
Outro
From the first breath of a dying age,
滅びゆく時代の、最初の吐息から、
To its final, blood-bound fall.
身に流れる血の声に従い、最後の瞬間まで歩み続けた。
Before the stone, the wind still says,
石碑の前で風はいまも語りかける。
"They were here. They stood."
「彼らは生き、確かにここにいた」と。
Traveler who knows no name,
その名を知らぬ旅人よ、
Stop your steps and listen close.
足を止め、耳を澄ませ。
Under Ha-ko-da-te’s endless sky,
函館の果てなき空の下、
The last samurai gave all — even now.
最後の侍は時を越えて、いまもその命を捧げている。
Final Verse – U-ra-ga
I read their names, my heart recalled,
胸に熱く刻まれた石碑の名に導かれ、
And journeyed back to Uraga shore.
まるで故郷に帰るように浦賀の浜に立った。
Yellow fields of flowers swayed in spring,
春の風に揺れる黄色い花の丘。
Their steadfast hearts walked with me more.
彼らの揺るがぬ心が、いまも私とともにある。
The sea, the hills, their home once known,
海と丘、かつての彼らの故郷を見つめ、
I felt their truth, and made it my own.
私は彼らの心を感じ、その誠(まこと)を胸に刻んだ。
