見出し画像

小説│Not a Bad Morning

午前六時四十五分。都市の朝は、静寂と喧騒のグレーゾーンから始まる。

私はいつもの始発駅のホームに立っていた。足元の黄色い点字ブロックの内側、乗車位置目標の「2」番の前に引かれた白線。その先頭から三番目が、私の定位置だ。サラリーマンにとって、朝の通勤電車における「着席」とは、単なる休息ではない。これから始まる長い一日を生き抜くための、戦略的資源の確保と同義である。座れるか、座れないか。その一点が、午前中のパフォーマンス、ひいてはその日の精神状態までをも左右する。

ホームに入線してきたのは、折り返し運転となる当駅始発の急行電車だ。ステンレスの車体が朝日を鈍く反射させながら、重々しいブレーキ音とともに滑り込んでくる。車内にはまだ、到着したばかりの乗客が数名残っていた。

「車内点検を行います。ご乗車のお客様、今しばらくお待ちください」

駅員のアナウンスが、冷ややかな空気を震わせる。この放送は、開戦の合図を待つ兵士たちへの、最後通牒のようなものだ。

降車が終わり、車内が空っぽになる。清掃員が手際よくゴミを拾い、忘れ物がないかを確認する。その数分の間、ホームに並ぶ私たちの列に、奇妙な変化が起きる。

誰も列を乱してはいない。表面上は、秩序正しい日本のサラリーマンたちだ。しかし、その実態は違う。
「今しばらくお待ちください」というアナウンスが繰り返されるたび、列全体がまるで巨大な尺取り虫のように、じり、じりと、センチメートル単位でドアの方へと縮まっていくのだ。前の人の背中に吐息がかかるほどの距離。鞄と鞄が触れ合う摩擦音。誰もが、一ミリでもドアに近い場所を確保しようと、重心を前に傾けている。

私の狙いは、ドアを入ってすぐ右側、七人掛けシートの端、もしくはその隣だ。そこが無理なら、真ん中でもいい。とにかく、あの柔らかいモケットに尻を沈め、目を閉じる権利を得ること。それだけが、今の私の全思考を占めていた。

「点検終了しました。一旦、ドアが閉まります」
プシュー、という音と共に、半開きだったドアが一度完全に閉まる。

ここだ。ここからの数秒間。
世界から音が消える。
呼吸音さえも憚られるような、真空のような静寂。
誰もが視線をドアの合わせ目に固定し、全身の筋肉を硬直させる。ふくらはぎに力が入り、鞄を持つ手が白くなる。

それはまさに、オリンピックの百メートル走決勝、スターターがピストルを構えた瞬間の緊張感そのものだった。私の心臓が、早鐘を打つ。

プシュッ、ガァッ。
ドアが開いた。

その瞬間、秩序という名のタガが外れる。
「我先に」という言葉を具現化した光景だった。怒号はない。しかし、凄まじい「圧」を伴った沈黙の雪崩が、車内へと流れ込む。私もその濁流の一滴となり、前の男の背中を風除けにして車内へ踊り出た。

視線が高速でスキャンする。
右端、埋まった。左端、埋まった。その隣も、次々と背広姿の男たちやオフィスカジュアルの女性たちによって占領されていく。
ないか。今日は立ちんぼか。落胆が胸をかすめたその時だった。

見えた。
車両の中ほど、七人掛けシートのど真ん中に、ぽっかりと空いたエアポケットのような空間。

あそこだ!
私は本能に従って動いた。走ればマナー違反だ。しかし、競歩選手のような不自然かつ迅速な足取りで、その空白地帯へと肉薄する。
距離、あと二メートル。いける。私の勝利だ。今日の睡眠時間は確保された。

座れそう、と思ったその瞬間だった。
反対側のドア、つまり私の死角となっていた方向から、まるで鏡写しのように、その「最後のひとつ」を目指して近づいてくる影があった。

黒い影。
私は反射的に歩を早める。相手もまた、吸い寄せられるように速度を上げる。
交錯する軌道。このままではぶつかるか、あるいは醜い椅子の奪い合いになる。
負けてたまるか。昨日の残業の疲れが、腰に重くのしかかっているんだ。この席は、私の正当な報酬だ。
あと一歩。私は体を滑り込ませようと、最後の踏み込みの準備に入った。

ふと、その「影」の正体が目に入った。
女性だった。
ベージュのトレンチコートを着ているが、私よりも頭一つ分以上背が低い。そして何より、彼女の肩には、その華奢な体には不釣り合いなほど大きく、重そうなトートバッグが食い込んでいた。中には資料か、あるいはPCが詰まっているのだろうか。彼女の表情には、私と同じような、あるいはそれ以上の疲労の色と、必死さが滲んでいた。

時が止まったように感じた。
私の脳内で、冷静な計算が走る。
これから電車は都心に向かう。乗車率は一八〇パーセントを超えるだろう。鮨詰め状態の箱の中、男の私でさえ呼吸が苦しくなるほどの圧力がかかる。
身長の低い彼女が、その大きな荷物を抱えたまま、サラリーマンたちの壁に挟まれ、もみくちゃにされる光景。吊革に手が届くかどうかも怪しい位置で、揺れに耐える一時間。
それは、私にとっての「辛い」よりも、物理的に遥かに過酷な「キツい」状況だろう。
熱くなっていた頭から、すうっと血の気が引いていくのがわかった。

「座りたい」という動物的な渇望が、「人としてどうあるべきか」という理性によって鎮火されていく。
私は、あと半歩で座席に届くというところで、ピタリと足を止めた。
突如として動きを止めた私に、彼女は驚いたように目を見開き、一瞬たじろいだ。ぶつかると思ったのだろう。

私は何も言わずに、スッと右手を横に広げ、どうぞ、と道を開ける仕草をした。
彼女は状況を理解するのにコンマ数秒を要したようだったが、すぐに恐縮したように何度も小さく頭を下げた。
「す、すみません……ありがとうございます」
消え入りそうな声だった。
彼女は遠慮がちに、しかし安堵のため息と共に、その最後の席へと腰を下ろした。重そうなバッグを膝の上に抱え直すその仕草を見て、私は自分の判断が間違っていなかったことを確信した。

プシュー、とドアが閉まる音が響く。
発車ベルが鳴り終わると、電車はガタンと大きく揺れて動き出した。
私は、彼女の座る席から少し離れたドア付近のスペースへと移動した。
結局、一時間の立ちんぼだ。吊革を掴む右腕には、すでに微かな重みを感じる。
これからさらに人が乗り込み、車内は地獄のような混雑になるだろう。

窓の外を流れる景色を眺める。朝日はいつの間にか高く昇り、ビルの窓ガラスを眩しく照らしていた。
足は疲れるかもしれない。けれど、胸の奥には、座席を確保した時よりもずっと質の良い、温かな充足感があった。
私は吊革を握り直し、少しだけ背筋を伸ばした。
悪くない朝だ、と心の中で呟いて、私は今日という一日の始まりを受け入れた。


いいなと思ったら応援しよう!