潮境『茶ヲ乞ウ12』
「戻る方法は」
宗介が訊いた。
水野彰は茶碗の縁を指でなぞった。
「ある」
「なら戻してください」
「戻って何をする」
「戦争を止める」
彰が鼻で笑った。
「お前は昔からそれを言う」
「昔?」
「俺にとってはな」
宗介は立ち上がった。
「じゃあ教えてください。二〇二六年八月十六日に何が起きた」
彰は黙っていた。
「五年後の話じゃない。今日です」
千鶴が静かに言った。
「話してあげなさい」
「あなたは知っているでしょう」
「私の知っている歴史と、あなたの歴史が同じとは限りません」
彰の人工眼が千鶴を見た。
やがて諦めたように息を吐いた。
「午前六時十二分。日米共同の量子航法実験が始まった」
瑞穂丸。
宗介はすぐに分かった。
「ところが装置は航法信号ではなく、過去からの信号を拾った。四鹿角印だ」
形名が目を伏せた。
「それを日米双方が相手の侵入だと判断した?」
榊が訊く。
「最初は違う。両国の技術者は現象を共有しようとした」
「なら、なぜ」
「市場だよ」
彰が言った。
その言葉だけが妙に現代的だった。
「過去と通信できる。情報だけでも送れる。それが分かった瞬間、軍より先に政府と企業が動いた」
宗介は背筋が寒くなった。
「未来の相場を過去へ送れる……」
「為替、株価、資源価格、選挙結果、台風の進路。何でもだ」
榊が呟いた。
「世界経済が成立しなくなる」
「だから日米は共同封印を決めた。表向きはな」
彰は笑った。
「その日の午後、東京は米国が秘密実験を続けている証拠を掴む。ワシントンも日本が続けている証拠を掴む」
「どちらが?」
「両方だ」
誰も何も言わなかった。
あまりにも人間らしい答えだった。
「午後七時十三分、日米緊急首脳茶会が予定されていた」
宗介は時計を見た。
六時四十七分。
あと二十六分。
「茶会?」
「ホノルル中立府の海上回線でな。だが開催されなかった」
「なぜ」
彰が宗介を見る。
「日本側の茶使が殺された」
「誰です」
彰は答えなかった。
その沈黙で、宗介には分かった。
「……俺?」
千鶴が目を閉じた。
「二〇二九年に殺されたんじゃなかったのか」
「俺たちの歴史ではな」
彰が言った。
「歴史が動いている」
外で汽笛が鳴った。
未来艦隊ではない。
港に停泊する古代の毛野船だった。
形名が立ち上がる。
「潮が変わる」
海面に一本の白い線が走っていた。
まるで海そのものが裂けていくように、港から水平線へ伸びていく。
その向こうに夜景が見えた。
高層建築。
無数の灯。
宗介には一目で分かった。
東京だった。
「道が開いた」
形名が言った。
榊は拳銃を確認する。
冬嗣は短刀を腰へ戻した。
千鶴は立ち上がらなかった。
「ばあちゃんは?」
「私は行けません」
「なんで」
千鶴は少し笑った。
「私は一九七八年に一度、潮を渡ったから」
宗介は初めて理解した。
祖母が昔から約定を知っていた理由を。
「どこへ?」
「六六三年」
「ここ?」
「そう」
「何しに」
千鶴は形名を見た。
「白村江へ行く毛野の船を止めに」
宗介は息を呑んだ。
また一つ、自分の知っている歴史が崩れた。
「なぜ」
「それは戻ってから話します」
「ばあちゃんも戻るんだろ」
千鶴は答えなかった。
宗介は祖母を見つめた。
千鶴はいつものように襟元を直してやった。
「宗介」
「何」
「交渉で一番やってはいけないこと、覚えてる?」
子供の頃、何度も聞かされた。
宗介は答えた。
「相手の面子を潰すこと」
「その次」
「自分だけ正しいと思うこと」
「その次」
宗介は少し考えた。
「席を立つこと」
祖母は頷いた。
「そう。戦争というのはね、みんなが席を立ったあとに始まるの」
海の裂け目が大きくなった。
向こう側の東京で、警報が鳴っている。
宗介は靴を履いた。
彰も立ち上がる。
「俺も行く」
榊が銃を向けた。
「あなたは未来の軍人です」
「だから行くんだ」
彰は三つ帆の徽章を外し、畳の上へ置いた。
「今度こそ、父を戦争に行かせない」
宗介は海へ踏み出した。
水ではなかった。
硬いガラスのような感触が足裏にあった。
東京まで、白い道が続いている。
その途中に一つだけ、茶室が見えた。
灯がともっていた。
入口には二枚の札。
一枚には日の丸。
もう一枚には星条旗。
そして戸の前に、誰かが倒れていた。
宗介は走った。
あと十八分だった。
