潮境第二部『席ヲ空ケヨ13』

「来ぬ者?」

 宗介が聞き返した。

 カタシロは頷いた。

 それ以上の言葉を探しているようだったが、諦めたらしい。空席の敷物を軽く叩き、全員を見回した。

 佐伯が宗介に小声で言う。

「亡くなった人でしょうか」

「分かりません」

「祖先とか」

「それなら『来ぬ者』とは言わない気がします」

 汐里は黙っていた。

 空席ではなく、敷物の端を見ている。

「どうしました?」

「これ」

 指先に小さな刺繍がある。

 三本の線。

 その上に、角のような形。

 宗介も息を止めた。

 柱にあった印。

 汐里の家の古い海図にもあった印。

「同じですね」

「ええ」

 佐伯が覗き込む。

「何の印です?」

「分かりません」

 汐里は答えた。

 今度は隠さなかった。

「私の家にもあります」

「家に?」

「古いものに。同じ印が」

 佐伯が何か聞こうとしたが、カタシロが手を叩いた。

 一度。

 人々が動き始める。

 木の椀が運ばれてきた。

 中には透明な液体が入っている。

「酒?」

 宗介が匂いを嗅ごうとすると、佐伯が止めた。

「飲まないでください」

「まだ飲んでません」

「成分が分からない」

「向こうも飲んでますよ」

「だから安全とは限りません」

「大変ですね、自衛隊」

「あなた方が大雑把なんです」

「海務院はもっと大雑把ですよ」

「否定できません」

 汐里が言った。

 佐伯がため息をついた。

 カタシロは椀を持ち上げた。

 飲まない。

 まず隣の男へ差し出す。

 男も受け取らず、手を添えた。

 次の者も。

 椀は人から人へ渡っていく。

 最後にカタシロへ戻る。

 そこで初めて一口飲んだ。

「回した?」

 宗介が呟く。

 次の椀が宗介の前に置かれた。

 カタシロが手を添える。

 宗介も真似をした。

 佐伯を見る。

「飲むなと言いましたよ」

「まだです」

 宗介は椀を佐伯へ差し出した。

「触るだけみたいです」

 佐伯は迷った末、手を添えた。

 汐里へ。

 三浦へ。

 海務官へ。

 衛生担当者へ。

 そして宗介へ戻ってきた。

 全員の手を経た椀。

 宗介はカタシロを見る。

 カタシロが頷く。

 宗介はほんの少し口をつけた。

「水です」

「本当に?」

 佐伯が聞く。

「たぶん」

「たぶんで飲まないでください」

 カタシロが笑った。

 周囲の人々も笑う。

 言葉は通じなくても、何を笑われたのか宗介には分かった。

「昔からこうするんですか」

 汐里が身振りを交えて尋ねた。

 カタシロは理解できなかった。

 汐里は椀を指す。

「これ」

 手から手へ渡す仕草をする。

「なぜ?」

 カタシロは考えた。

 やがて宗介の手を取った。

 その手を佐伯の手の上に置く。

 二人とも固まった。

「何してるんですか」

「私に聞かないでください」

 カタシロは自分の手も重ねた。

「敵」

 と言った。

 三人の手を離す。

 もう一度重ねる。

「まだ、敵でない」

 宗介はカタシロを見た。

 佐伯も黙っている。

 戦わない、と言っているのではない。

 味方だ、と言っているのでもない。

 ただ、決めていない。

 それだけだった。

 汐里が小さく言った。

「席に着いている間は、決めないんだ」

 カタシロが彼女の声に反応した。

 意味を理解したのかは分からない。

 だが、何度も頷いた。

 そして空いた敷物を指した。

「来ぬ者も」

 今度は少し滑らかに言った。

「敵と、決めぬ」

 宗介は空席を見た。

 まだ会ったこともない者。

 どこにいるかも分からない者。

 存在するかさえ分からない者。

 そのために、席を残しておく。

 カタシロは砂の上に指で文字を書いた。

 古い字だった。

 宗介には読めない。

 だが、その下にもう一度、今度は彼らに分かる文字を書いた。

 席ヲ空ケヨ

 汐里が息を呑んだ。

 宗介は、その四文字をしばらく見つめていた。

 茶よりも古い時代から、人はこうして座っていたのだ。

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