潮境第二部『席ヲ空ケヨ9』
「帰れる、って……どこへ?」
宗介が聞いた。
男は答えなかった。
聞き取れなかったのかもしれない。
代わりに、背後の一人へ何かを告げた。
若い男が走り去る。
「小県さん」
汐里が小声で言った。
「これ以上近づかない方がいい」
「でも話が」
「話すのと、船を座礁させるのは別です」
宗介は頷いた。
浜の男は二人をじっと見ていた。
やがて、自分の胸に手を当てた。
「カタシロ」
「カタシロ?」
「名じゃないですか」
宗介も胸に手を置く。
「ソウスケ」
自分を指す。
「ソウスケ」
男が繰り返した。
次に汐里。
「シオリ」
「シホリ」
「惜しい」
「通じてるんだからいいでしょう」
男――カタシロが笑った。
初めて、時代の向こうの人間ではなく、ただの人に見えた。
*
やがて若い男が戻ってきた。
手に木の板を持っている。
カタシロがそれを掲げた。
文字が並んでいた。
宗介には半分も読めない。
「写真撮ります」
汐里が端末を向けた。
「読めそうですか?」
「専門外です。でも地名らしいものがあります」
拡大する。
「筑紫……かな」
「こっちは?」
「阿波?」
その下に、宗介にも見覚えのある字があった。
「尾張」
二人とも黙った。
カタシロが板を指し、海を指す。
また板を指す。
「航路?」
汐里が呟いた。
表情が変わった。
彼女は夢中で画像を拡大している。
「これ、港の順番かもしれない」
「分かるんですか」
「並びが変なんです。筑紫から阿波へ行って、それから尾張……いや、違う。これ潮待ちかも」
言葉が速くなる。
「もし季節風なら、この順番でも――」
「志賀さん」
「はい?」
「楽しそうですね」
「すみません」
「謝らなくていいですけど」
汐里は少し照れた。
「古い航路って、残らないんですよ。道みたいに遺跡にならないから」
木板を見る。
「でも人は、確かにそこを通った」
宗介はその言葉が妙に心に残った。
道がなくても、人は通った。
*
そのとき無線が入った。
『測深艇、応答せよ』
《秋津》だった。
『島の南東より艦艇接近。先方の日本艦と思われる』
宗介は振り返った。
水平線に灰色の船影が見える。
もう一つの日本。
カタシロたちも気づいた。
表情が変わる。
若い男が何か叫び、浜の奥へ走った。
「怖がってる?」
汐里が言った。
カタシロが宗介へ向かって激しく何かを訴える。
「分からない!」
宗介は叫び返した。
カタシロは木板を砂へ置いた。
指で何かを描き始める。
二隻の船。
島。
そして二隻の間に一本の線を引いた。
その中央に丸を描く。
「何だ?」
丸の周囲に小さな印をいくつか描く。
汐里が息を呑んだ。
「これ……」
「分かるんですか」
「席じゃない?」
宗介は見直した。
確かに、人が囲む場所のようにも見える。
カタシロは自分を指した。
宗介を指した。
遠くの灰色の艦を指した。
そして丸を指す。
「一緒に?」
カタシロが何度も頷く。
それから宗介の目を見て、ゆっくり言った。
「争う、前」
一語ずつだった。
「共に、座る」
宗介は息を止めた。
カタシロは砂の丸を指した。
「席」
そして、その隣にもう一つ、小さな丸を描いた。
誰もいない場所だった。
