潮境 『茶ヲ乞ウ8』
扉が開くと、潮の匂いが入ってきた。
千鶴は本当にそこにいた。
紺の割烹着に、いつもの草履。朝、庭先で見た姿と何も変わらない。ただ、その背後には六六三年の港が広がっていた。
「ばあちゃん、ここ……」
「降りてから話します」
「いや、それより」
「靴」
宗介は足元を見た。
「何?」
「茶席ですよ」
千鶴はそれだけ言って歩き出した。
宗介は榊を見た。
「どうします」
「行きます」
榊は拳銃を抜き、弾倉を確かめた。
「それは置いて」
千鶴が振り返りもせず言った。
「しかし——」
「茶席に刃物を持ち込まない。海務院なら知っているでしょう」
榊の顔が固まった。
冬嗣が小さく笑い、腰の短刀を機内に置いた。
「従った方がいい。千鶴さんは昔からこうだ」
「昔からって、いつから知ってるんです」
宗介が訊いた。
「一九七八年」
「ばあちゃん、当時二十歳ですよ」
「そうだったな」
千鶴が足を止めた。
「冬嗣さん」
「はい」
「余計なことを言わない」
七十を越えた毛野宗家の使者が素直に頭を下げた。
宗介はますます分からなくなった。
港へ向かう。
周囲の人々は奇妙な服を着ていた。古墳の壁画から抜け出したような者もいれば、唐風の衣を着た者もいる。
しかし誰も軍用機を珍しそうに見ない。
宗介たちの方を見ようともしなかった。
「見えてない?」
榊が呟いた。
千鶴が答えた。
「見えています。でも、見ない約束なんです」
「誰との?」
「海との」
榊が何か言いかけ、やめた。
丘を少し登ったところに小さな建物があった。
外見は古い。
だが戸口の横に、見覚えのあるものが埋め込まれていた。
認証端末。
千鶴が掌を当てる。
緑の光。
戸が開いた。
宗介はもう驚かなかった。
中は四畳半だった。
畳。
床の間。
炉。
そして一人の男が座っていた。
三十歳くらいだろうか。
髪を後ろで束ね、白い麻衣を着ている。
その前に、黒い箱が置かれていた。
第八瑞穂丸に積まれていたものと同じ型だった。
甲特二七。
量子航法器。
「お連れしました」
千鶴が座った。
男が頭を下げる。
「小県宗介殿」
発音は古い。
しかし言葉は分かった。
宗介も座った。
榊と冬嗣が続く。
「あなたは誰です」
男は答えず、茶杓を取った。
湯が注がれる。
茶筅の音だけが室内に響いた。
やがて茶碗が宗介の前に置かれた。
「飲め、と?」
「茶を乞うたのはこちらです」
宗介は茶碗を手にした。
妙に重かった。
一口飲む。
苦い。
そして驚くほど旨かった。
男が初めて笑った。
「尾張の者は、まだ茶を忘れていない」
「質問に答えてください」
「よろしい」
男は背筋を伸ばした。
「私は毛野形名」
冬嗣が息を呑んだ。
宗介にも、その名には覚えがあった。
学校で習った。
六世紀の上毛野氏の祖。
蝦夷との戦いで名を残し、毛野軍事権力の礎を築いたとされる人物。
だが、生没年すら定かではない。
宗介は男を見た。
「あなたが?」
「正確には違う」
男は黒い箱に手を置いた。
「私は、あなた方が毛野形名と呼ぶことになった者です」
榊の顔から血の気が引いた。
男は続けた。
「そしてあなた方の歴史は、一度すでに変更されている」
炉の炭が、ぱちりと鳴った。
千鶴だけが静かに茶を飲んでいた。
「榛名の山が噴いた日、本来なら毛野は滅びるはずだった」
宗介は茶碗を置いた。
男はまっすぐ彼を見た。
「我々が、それを止めた」
