潮境 『茶ヲ乞ウ7』
「六六三年?」
宗介は腕時計を叩いた。
「故障です」
榊は即座に言った。
「全端末を確認」
宗介は会社端末を開いた。通信圏外。日付は二〇二六年八月十六日のままだった。
「こっちは正常です」
「私もです」
冬嗣だけが黙っていた。
宗介は自分の時計を見た。祖父の形見だった。電子式ではない。文字盤の下に小さな暦板があり、月日だけを示す古い機械時計だ。
「そもそも西暦なんて表示できないじゃないか」
榊が言った。
宗介は凍りついた。
確かにそうだった。
文字盤には、本来存在しないはずの数字が浮かんでいる。
663.8.27。
「八月二十七日……」
冬嗣が呟いた。
「何の日です?」
宗介が訊くと、老人は答えなかった。
代わりに榊が言った。
「白村江」
その言葉だけは宗介も知っていた。
百済復興を支援した倭国軍が、唐・新羅連合軍に壊滅的敗北を喫した戦い。
しかし、この世界では意味が少し違う。
ヤマトの敗北。
そして東国の毛野が、中央に対して軍事的発言力を決定的に強めた契機。
「戦いは二十七日から始まったとされている」
榊の声が低くなった。
宗介は眼下を見た。
「じゃあ、ここ朝鮮半島なんですか」
冬嗣が首を振った。
「違う」
「なぜ分かるんです」
「船を見ろ」
港を出ていく一隻を老人が指した。
細長い船体。高い舳先。
帆の下に人影が並んでいる。
そして船尾に四鹿角旗。
「毛野の船だ」
「六六三年に?」
「あるはずがない」
榊が言った。
その通りだった。
この時点の毛野は東国勢力ではあっても、独自の外洋艦隊を持って朝鮮海域へ進出していたという記録などない。
少なくとも宗介が習った歴史には。
操縦席から声がした。
『着陸します』
「待ってください!」
榊が前方へ走った。
『燃料表示が異常です。飛び続けられません』
眼下の港では、人々がこちらを指さしていた。
当然だ。
六六三年の空に軍用機が飛んでいる。
ところが逃げない。
鐘も鳴らない。
むしろ岸壁に人が集まってくる。
その中央で、白い服の男が旗を振っていた。
「着陸場所なんてないでしょう」
宗介が言った。
冬嗣は窓を見たまま答えた。
「ある」
港の北側。
水田のように見えていた場所に、一本の直線があった。
土を固めただけの道。
だが不自然なほど長い。
まるで——
「滑走路?」
榊が戻ってきた。
顔色が変わっていた。
「地上から誘導信号が出ています」
「六六三年に?」
「現代の航空周波数で」
宗介はもう笑うこともできなかった。
機体が降下を始める。
家々が近づく。
港には見たことのない古代船。その奥には瓦屋根の大きな建物があり、さらに丘の上には神社とも寺ともつかない建物が建っていた。
だが宗介が目を奪われたのは、滑走路の端だった。
そこに一人の女が立っていた。
白髪。
小柄な身体。
杖をついている。
「……ばあちゃん?」
聞こえるはずもないのに、声が出た。
小県千鶴だった。
今朝、宗介が家を出たとき、隣家で洗濯物を干していた祖母。
その祖母が、千三百六十三年前の島に立っていた。
機体が地面に触れた。
激しく揺れる。
停止する。
誰も動かなかった。
やがて扉の外から、三回、音がした。
コン、コン、コン。
茶室の戸を叩く作法だった。
そして祖母の声がした。
「宗介。お客様を待たせるんじゃありません」
冬嗣が目を閉じた。
榊は拳銃に手をかけた。
宗介だけが、なぜか子供の頃のように答えていた。
「今、行くよ」
