潮境『茶ヲ乞ウ13』
倒れていた男は、宗介ではなかった。
「水野さん!」
宗介が駆け寄った。
いつもの紺の背広。朝、十一階で「茶にしよう」と言った上司だった。
水野修一は胸を押さえていた。指の間から血が滲んでいる。
「宗介……?」
「しゃべらないで」
榊が膝をつき、傷を見る。
「銃創。貫通しています」
「助かる?」
「ここでは無理です」
彰が立ち尽くしていた。
「父さん」
水野が目を開けた。
「誰だ……」
彰は答えられなかった。
三十一歳の父と、五十を越えた息子。
あり得ない二人が白い海の上で見つめ合った。
水野は彰の顔をしばらく見て、人工眼で止まった。
「彰か」
今度は彰が息を呑んだ。
「なんで」
「その目……子供の頃と同じだ」
「この目は戦争で——」
「癖だよ。困ると右目を触る」
彰の手が、無意識に人工眼へ伸びていた。
水野が笑った。
「老けたな」
「父さん……」
「泣くな。気持ち悪い」
宗介は思わず顔を背けた。
榊が止血帯を締めながら訊いた。
「誰に撃たれました」
水野の表情が変わった。
「日本人だ」
「所属は?」
「知らん。鹿角をつけてた」
冬嗣が眉をひそめる。
「毛野?」
「違う」
水野が首を振った。
「鹿角が五つあった」
彰が立ち上がった。
「第五枝……」
「知ってるんですか」
宗介が訊く。
彰は答えなかった。
代わりに冬嗣が呟いた。
「あり得ん」
「何が」
「毛野の古い伝承だ。四鹿角から外れた五番目の家があった」
「どこに?」
「記録では、ない」
「またそれですか」
宗介は苛立った。
「ないものばっかり出てくる」
「消されたんだ」
彰が言った。
「誰に」
「俺たちに」
遠くで鐘が鳴った。
七時。
あと十三分。
茶室の中から声が聞こえた。
英語だった。
続いて日本語。
怒鳴り合っている。
宗介は戸に手をかけた。
「待て」
彰が腕を掴む。
「中には日米の代表団がいる」
「だから入るんでしょう」
「暗殺者もいる」
宗介は彰を見た。
「じゃあ、なおさらだ」
「お前はここで死ぬかもしれない」
「さっきから俺、何回死んでるんですか」
彰が一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「そういう奴だった」
「知ってるなら離してください」
彰の手が緩んだ。
宗介は戸を開けた。
茶室は異様に広かった。
畳の上に日本側六人、米国側五人。
中央に一つの炉。
誰も座っていない。
日本代表が宗介を見た。
「誰だ君は」
「南海交易、南洋航路管理部、小県宗介です」
「会社員?」
米国代表の女性が呆れたように英語で言った。
宗介は英語で返した。
「茶使として来ました」
室内が静まった。
「茶使は先ほど撃たれた」
日本代表が言う。
「だから代わりです」
「資格がない」
宗介は腹が立った。
「じゃあ戦争してください」
全員が宗介を見た。
榊が後ろで小さく「おい」と言った。
「ただ、その前に」
宗介は炉の前へ座った。
「茶くらい飲めるでしょう」
誰も動かない。
宗介は茶釜を見た。
困った。
茶を淹れたことがない。
毎朝、母か祖母がやっていた。
「どうすんだ、これ」
背後から彰が吹き出した。
そのとき米国代表の女性が立った。
「貸してください」
流暢な日本語だった。
彼女は宗介の向かいに座り、茶筅を取った。
「祖母が京都人です」
「助かります」
湯が注がれた。
茶筅の音がする。
日本代表がため息をつき、座った。
一人、また一人。
米国側も座る。
最後まで立っていた日本の外務卿も、時計を見て腰を下ろした。
七時六分。
あと七分。
そのとき宗介は気づいた。
米国代表団の最後列。
一人だけ茶席に入らず、壁際に立っている男がいる。
胸元に、小さな銀色の徽章。
鹿角が、五つ。
男と目が合った。
男は微笑んだ。
そして懐へ手を入れた。
