潮境 『茶ヲ乞ウ5』

「印璽って、博物館にあるあれですか」

宗介は訊いた。

「博物館ではありません。上田別家の祭庫です」

榊は四鹿角の横に小さな四角を描いた。

「六世紀末のものと伝わっています。真贋については議論がありますが、毛野が信濃を越えて日本海側へ出る際、上田家に軍権を預けた証だとされている」

「そんなもの盗んで、何ができるんです」

「今なら何も」

水野が窓際から言った。

「法律上はな」

榊が頷いた。

「ですが、法律より古い約定が残っている場所があります」

立体海図の代わりに、彼女は壁の白板へ手で地図を描き始めた。

日本列島。台湾。呂宋。そして南へ伸びる線。

「日本が南海へ出始めた頃、政府なんてものは今ほど強くありませんでした。商館の安全を保障したのは毛野の武力です。その際、各地の港湾勢力と結んだ軍事保護契約の一部に、四鹿角印が使われています」

「何百年前の契約でしょう」

「古いから無効とは限らない」

宗介は思わず笑いそうになった。

「まさか」

「あなたの会社が一番よく知っているはずです」

榊の言葉に、水野が渋い顔をした。

南海交易会社の創業は一五九一年。ただし会社自身は、その前身である尾張海商座から数えて「創業六百八十七年」と称している。

そして南方では、古い契約ほど妙に大事にされた。

港の使用権。水利権。倉庫地。寺院敷地。共同墓地。

電子登記以前の約定が、現代の巨大企業の権益の根になっていることさえある。

「四鹿角印を持つ人間が、昔の軍事契約を復活させようとしている?」

「分かりません。ただ——」

榊の携帯無線が鳴った。

彼女は短く応答し、顔を上げた。

「瑞穂丸から人が降りました」

「どこに?」

「与那国です」

宗介は時計を見た。

「そんな馬鹿な。さっきまで巴士海峡でしょう」

「海上保安庁が保護しました。男一名。船は確認できていません」

「軍艦は?」

「それも消えました」

室内に重苦しい沈黙が落ちた。

水野がようやく鉄瓶に手を伸ばした。

「茶にしよう」

「今ですか?」

「今だからだ」

誰も反対しなかった。

水野は急須に湯を注いだ。茶葉が開く匂いがした。

宗介は自分でも驚くほど喉が渇いていた。

榊にも茶碗が渡された。

彼女は一口飲んでから言った。

「宗介さん」

初めて名前で呼ばれた。

「はい」

「与那国へ行ってください」

「私が?」

「保護された男が、あなたを指名しています」

茶碗を置く音が妙に大きく響いた。

「会ったこともない人間が、なぜ私を知ってるんです」

「それを調べます」

「軍が調べればいいでしょう」

「男は軍とは話さないと言っています」

「じゃあ会社の役員を」

榊は首を振った。

「二十五歳の航路掛と話す、と」

宗介は黙った。

二十五歳。

その言い方に引っかかった。

「名前まで?」

「名前は知りません。ただ、こう言っています」

榊は紙を見た。

「南海交易会社で、今年二十五になる者。父が船乗りで、祖母と暮らしている男を寄越せ、と」

宗介の手から茶碗が滑りそうになった。

「祖母とは暮らしてません。隣です」

水野が呆れた顔をした。

「そこじゃないだろう」

榊だけは笑わなかった。

「もう一つあります」

「何です」

「あなたのお祖母様の旧姓を確認したい」

宗介は答えた。

「小県です。小県千鶴」

榊の表情が変わった。

水野も茶を飲む手を止めた。

宗介だけが、その意味を知らなかった。

「何なんです」

榊はしばらく黙っていた。

やがて窓の外へ目を向けた。

西日を受けた伊勢湾に、無数の商船が停泊している。その向こうを海軍艦が進んでいた。

「小県は姓ではありません」

「は?」

「上田で、毛野宗家から最初に軍権を預かった家の名です」

宗介は笑った。

今度こそ冗談だと思った。

しかし榊は続けた。

「そして四鹿角印を最後に使用した家でもあります」

その瞬間、宗介の端末が遮断袋の中で光った。

通信は切ってある。

電源も落としたはずだった。

黒い画面に、白い文字が一行だけ浮かんでいた。

《茶席を設けよ。今度は海ではない。》

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