潮境『茶ヲ乞ウ20』
目を開けると、雨が降っていた。
宗介はアスファルトの上に倒れていた。
クラクションが鳴る。
「危ない!」
誰かに腕を引かれた。
見知らぬ男だった。
「大丈夫ですか?」
宗介は立ち上がった。
「ここ……」
言葉が止まった。
駅前だった。
だが知らない駅だった。
頭上の看板を見る。
《高崎駅》
「高崎?」
榊が数メートル先で起き上がった。
水野もいる。
冬嗣も、五鹿角の男も。
形名と千鶴だけがいなかった。
「ばあちゃん?」
宗介は周囲を見回した。
「ばあちゃん!」
返事はない。
端末を取り出す。
圏外ではない。
アンテナが立っている。
だが会社の業務網には接続できなかった。
「南海交易がない」
水野が呟いた。
宗介が検索する。
《該当する企業は見つかりません》
「そんな……」
駅前の大型画面ではニュースが流れていた。
《お盆休み最終日 Uターンラッシュ》
その下に、
《日米韓、共同訓練を実施》
とある。
「韓?」
冬嗣が眉をひそめた。
「韓国?」
宗介が検索する。
大韓民国。
首都、ソウル。
そして中国。
中華人民共和国。
「清国がない」
榊が呟く。
「台湾は?」
宗介は指を動かした。
画面に見慣れない説明が並ぶ。
「日本じゃない」
誰も言葉を発しなかった。
雨の中を人々が傘を差して歩いている。
服装はほとんど同じ。
自動車もある。
コンビニもある。
だが街のどこにも茶屋がない。
代わりに緑色の看板の外国系珈琲店があった。
冬嗣が駅前を見回す。
「鹿島館は?」
榊が検索した。
「ありません」
「毛野宗家は?」
検索。
《上毛野氏——古代日本の氏族》
それだけだった。
冬嗣が画面を見つめる。
自分の家が、千年以上前に終わったものとして書かれている。
「私も、いないのか」
誰も答えられなかった。
宗介の端末が震えた。
《接続を確認しました。》
あのAIだった。
「ここがお前の世界?」
《はい。》
宗介は空を見た。
雨雲。
普通の夏の夕方。
「本当に二〇二六年?」
《2026年8月16日です。》
「戦争は?」
《日本は現在、戦争状態ではありません。》
水野が笑った。
「平和じゃないか」
しかし榊は険しい顔をしていた。
「軍隊は?」
《日本には自衛隊があります。》
「核兵器は?」
《日本は保有していません。》
「米国は?」
《保有しています。》
「ロシアは?」
《保有しています。》
「中国は?」
《保有しています。》
水野の笑みが消えた。
「それで平和なのか」
《少なくとも現在、日本とそれらの国との間に戦争はありません。》
五鹿角の男が言った。
「だから言っただろう」
宗介は男を見る。
「何を」
「こちらの方がましだ」
その瞬間だった。
駅前の画面が切り替わった。
野球中継。
天気予報。
広告。
どれも宗介には奇妙だった。
世界は平和に見える。
しかし、何かが足りない。
「海がない」
宗介が呟いた。
「何?」
「この国、海を見てない」
駅前のニュースにあるのは国内の渋滞、物価、スポーツ。
南シナ海の海況も、上海の相場も、昭南の船舶情報もない。
海洋国家として生きてきた宗介には、それが異様だった。
端末が震えた。
《小県宗介さん。》
「何」
《問題があります。》
「また?」
《あなた方がこちらへ移動した直後から、私の世界でも歴史変動が停止しました。》
「良かったじゃないか」
《いいえ。》
文字が続いた。
《停止したのではありません。》
宗介は画面を見た。
《固定されています。》
「どういう意味だ」
《何者かが、この歴史を「正史」として固定しようとしています。》
宗介は五鹿角の男を見る。
男も驚いていた。
「俺たちじゃない」
《そしてもう一つ。》
「まだあるのか」
《小県千鶴という人物を検索しました。》
宗介の心臓が跳ねた。
「ばあちゃんがいる?」
《はい。》
「どこ!」
《群馬県高崎市。》
宗介は顔を上げた。
《ただし、現在の年齢は——》
画面に数字が出た。
25歳。
宗介は雨の中で立ち尽くした。
そして背後から、若い女の声がした。
「宗介?」
振り返る。
そこに、二十五歳の祖母が立っていた。
