潮境 『茶ヲ乞ウ4』
「触らないで」
榊の声が飛んだ。
宗介の指は画面の一寸上で止まった。
海況室では技術員たちが次々に端末を切り離していた。壁面海図も消え、窓から入る夏の日差しだけが室内を照らしている。さっきまで世界中の船を映していた部屋が、突然、百年前の事務所のようになった。
「茶ヲ乞ウ、って何です」
宗介が訊いた。
水野が答えた。
「遭難信号だ」
「そんな符号、聞いたことありません」
「当たり前だ。最後に使われたのは海商戦争の頃だ」
海商戦争。
十八世紀末、日本と英国の商船団がマラッカで衝突した、教科書の中の事件だった。
榊が宗介の端末を透明な遮断袋へ入れた。
「正確には遭難信号ではありません」
「じゃあ?」
「保護を求める符号です。敵味方を問わず、これを掲げた船への攻撃を止め、交渉を始める」
宗介は眉をひそめた。
「茶を飲むから?」
「昔の人はそう決めたんです」
水野が鉄瓶を見た。
「茶席に入った者は、話が終わるまで斬らない」
宗介は冗談だと思ったが、誰も笑わなかった。
「でも、なぜ瑞穂丸がそんな古い符号を?」
榊は答えず、紙を一枚取り出した。
紙だった。
宗介が会社に入ってから、業務で紙を見たのは数えるほどしかない。
「瑞穂丸には独立短波機があります。電子網を経由しない」
「それで呼びますか」
「いいえ」
榊はペンを走らせながら言った。
「向こうから来ます」
その言葉から三分もしなかった。
部屋の隅に置かれていた災害用受信機から雑音がした。
ザーッという海のような音。
全員が黙った。
やがて声が聞こえた。
『……こちら、第八……瑞穂丸……』
宗介は立ち上がった。
「船長?」
『位置……不明。航法不能。機関正常……乗員十九名、全員無事』
室内に安堵が走った。
だが声は続いた。
『本船は現在……外国軍艦と接触中』
榊が受話器を取った。
「国籍を確認せよ」
雑音。
長い沈黙。
『確認できません』
「艦型は」
『該当なし』
榊の眉が動いた。
「旗は?」
また雑音が走った。
『旗……あります』
「何旗だ」
返事がない。
宗介には、受信機の向こうで誰かが息をしているのが聞こえた。
やがて船長が言った。
『毛野です』
誰も動かなかった。
「もう一度」
『鹿角旗です。白地に黒の四鹿角』
宗介は思わず水野を見た。
毛野宗家の旗ではない。
現在の毛野家が祭礼で使うのは白鹿紋だ。
四鹿角は、宗介でも知っている。
千年以上前、上毛野軍が日本海へ進出した時代の軍旗だった。
「復古主義者か?」
水野が呟いた。
榊は首を振った。
『それから……』
船長の声が震えた。
『先方から人が来ます』
「乗せるな!」
榊が叫んだ。
遅かった。
雑音の向こうで金属音がした。
誰かが話している。
日本語だった。
しかし宗介にはほとんど聞き取れなかった。
古い。
寺で聞く祝詞よりも、さらに古い響きだった。
そして突然、明瞭な現代語が聞こえた。
『尾張の者はいるか』
宗介の背筋が冷えた。
誰も答えていない。
それなのに声は続いた。
『南海交易の者でよい』
榊が宗介を見る。
水野が首を横に振った。
受信機の向こうの男は、ゆっくりと言った。
『上田へ伝えよ』
雑音が激しくなった。
『海の約定は破られた』
そこで通信は切れた。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて榊が椅子に腰を下ろし、初めて疲れた人間の顔をした。
「今日の鹿島海鎮祭が中止になった理由が分かりました」
宗介は彼女を見た。
榊は紙の上に、四つの鹿角を描いた。
「今朝五時四十分、上田の毛野別家から、一族の印璽が消えています」
窓の外では、伊勢湾を出ていく海軍艦艇が、白い航跡を東へ伸ばしていた。
