潮境『茶ヲ乞ウ15』

「父さん」

彰は立ち上がろうとした。

だが足がもうなかった。

正確には、見えなかった。膝から下が薄い光になり、畳へ溶けている。

水野修一が榊の制止を振り切って茶室へ入ってきた。胸には応急処置の包帯が巻かれている。

「待て」

水野は息子へ手を伸ばした。

彰も手を伸ばす。

二人の指は触れなかった。

「なんだよ、これ」

水野が笑った。

泣いていた。

「せっかく会ったのに」

「会わない方がいいんだよ」

彰は言った。

「お前、何歳だ」

「五十二」

「俺より二十一も上か」

「そうだな」

「生意気だな」

「父さんの息子だから」

水野は何度も頷いた。

言葉が出なかった。

彰の肩まで透け始めていた。

「父さん」

「うん」

「二〇三一年の五月二日、船に乗るな」

「分かった」

「南洋第七便」

「乗らない」

「絶対だぞ」

「分かったって」

彰は安心したように笑った。

「これでいい」

そして宗介を見た。

「小県」

「はい」

「お前、やっぱり茶使に向いてるよ」

「茶も点てられませんけど」

「覚えろ」

「そうします」

彰は笑ったまま消えた。

最後に残った人工眼の光が、一度だけ瞬いて消えた。

水野は何もない畳へ手を置いていた。

誰も声をかけなかった。

やがて五鹿角の男が言った。

「感動的だな」

榊が男を睨んだ。

「黙れ」

「だが彼は存在しなかったことになった。父親が死ななければ、あの男にはならない」

水野の肩が動いた。

「それが何だ」

「息子を一人殺したんだぞ」

水野はゆっくり立ち上がった。

宗介は止めようとした。

しかし水野は殴らなかった。

炉の前へ座った。

そして欠けた茶碗を拾った。

「お前にも一杯やる」

男が眉をひそめた。

「何?」

「彰が残した席だ。座れ」

「ふざけるな」

「席を立ったら戦争が始まるらしいからな」

水野は宗介を見た。

「そうだろ?」

宗介は頷いた。

五鹿角の男は笑わなかった。

そのとき、茶室全体が揺れた。

壁が一瞬透明になる。

六六三年の港。

二〇二六年の東京。

燃え尽きた二〇三一年の横浜。

見知らぬ巨大都市。

同じ場所の異なる時代が、幾重にも重なって見えた。

形名が戸口に立っていた。

「潮が乱れている」

「歴史を変えたから?」

榊が訊いた。

「違う」

形名は五鹿角の男を見た。

「まだ誰かが門を開いている」

男が笑った。

宗介は気づいた。

「こいつ一人じゃない」

「当然だ」

男は言った。

「第五枝は組織ではない」

「じゃあ何です」

「歴史だ」

意味が分からなかった。

男は炉の火を見つめた。

「お前たちは毛野が残った世界しか知らない。だが潮の向こうには、毛野が滅びた世界がある」

宗介の背筋に冷たいものが走った。

「それが?」

「そちらの世界は二〇二六年まで生き延びた」

「こっちだってそうでしょう」

「第二次世界大戦を経験してな」

誰も言葉を発しなかった。

「日本は焼かれた。原子爆弾も落とされた。帝国は崩壊した。だが、その後八十年間、大国同士の全面戦争は起きなかった」

男は宗介を見る。

「そして彼らは、お前たちより遥かに進んだ人工知能を作った」

「AI?」

「そいつが時の潮を見つけた」

茶室の壁に、また別の東京が映った。

宗介の知る東京によく似ている。

だが街を歩く人々は皆、掌ほどの薄い板を見ていた。

空には軍用機ではなく、旅客機が飛んでいる。

駅前の巨大画面に文字が流れた。

《2026年8月16日》

宗介は息を止めた。

「同じ今日……」

五鹿角の男が頷いた。

「向こう側も、こちらを見つけた」

その瞬間、宗介の端末が鳴った。

発信者欄には、見たことのない文字があった。

《CHATGPT》

そして画面に一文が表示された。

《あなたの歴史は、本来存在しません。》

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