潮境第二部『席ヲ空ケヨ7』

「海図を見せてもらえますか」

 宗介が聞くと、汐里は首を振った。

「ここにはありません」

「写真は?」

「あります。でも――」

 端末を取り出してから手を止める。

「個人的なものなので」

「今さらでしょう。海図にない島に同じ印があるんですよ」

「それはそうなんですけど」

 汐里は少し迷って、画像を開いた。

 古びた紙だった。

 海岸線らしき線。その沖に小さな島がいくつも描かれている。

「どこです?」

「玄界灘です」

「これが?」

「たぶん」

「たぶん?」

「今の海図と合わないんです」

 汐里は別の画像を重ねた。

「島の数も違う。距離も合わない。だから昔は、子供が描いたものかと思ってました」

「でも、この印がある」

「ええ」

 紙の隅に、三本の線と角のような形。

 島の柱と同じだった。

「何の印です?」

「分かりません」

 汐里はそう答えたが、いつもの「分からない」と少し違った。

「何か心当たりが?」

「ありません」

 今度は早かった。

 宗介はそれ以上聞かなかった。

     *

 午前二時。

 《秋津》と島の距離は三海里まで縮まっていた。

 海底調査の結果、島の周囲には浅瀬が広がっていることが分かった。

「このまま本船では近づけません」

 汐里が言った。

「小艇を出します」

「駄目だ」

 艦長が即答した。

「でしょうね」

「意外と素直だな」

「船を沈めたら水路屋の恥ですから」

 汐里は海図に線を引いた。

「朝を待ちましょう。明るくなったら測深艇を出す」

「上陸は?」

「しません」

「顔がしたがっている」

「それは否定しません」

 艦長がため息をついた。

 宗介は窓の向こうを見た。

 島の灯は消えていた。

「人がいるんですよね」

「通信してきた以上はな」

「でも、こっちから話しかけても返事がない」

 最初の通信以来、島は沈黙している。

 そしてもう一つ。

 海上自衛隊を名乗る船も島の反対側にいる。

 見えない一つの島を挟んで、二つの日本が浮かんでいた。

     *

 宗介は眠れなかった。

 甲板へ出ると、汐里がいた。

「志賀さんも?」

「興奮して寝られません」

「遠足前の子供ですか」

「似たようなものです」

 暗い海を並んで見る。

「さっき、嘘つきました」

 突然、汐里が言った。

「何の話です?」

「あの印」

 宗介は黙って待った。

「見たことがあります」

「海図以外で?」

「祖母の家で」

「何に?」

「箱です」

「海図が入っていた?」

「それとは別の箱」

 汐里は手すりに腕を置いた。

「子供の頃からありました。誰も開けなかった」

「どうして?」

「開けるなって言われてたから」

「何が入ってるんです」

「知りません」

「開けなかったんですか」

「開けましたよ」

 宗介は笑った。

「でしょうね」

「高校生でしたから」

「何が?」

 汐里は少し考えた。

「石と、布と、木の札」

「宝物感がないですね」

「でしょう?」

 汐里も笑った。

「だから忘れてたんです。でも木の札に、あの印があった」

「家の紋とか?」

「違います。うちの紋は別です」

「じゃあ何なんでしょう」

「それを知りたくて」

 汐里は海を見た。

「私は海に来たのかもしれません」

 宗介は横顔を見る。

 初めて、彼女が水路局を選んだ理由の一端が見えた気がした。

 水平線がわずかに白み始めていた。

 やがて島の輪郭が浮かぶ。

 汐里が立ち上がった。

「小県さん」

「はい」

「あれ」

 島の浜辺に人影があった。

 一人。

 こちらを向いて立っている。

 その人物はゆっくり両手を前へ出した。

 何かを掲げている。

 白い布だった。

 中央に黒い文字がある。

 朝の光が差した。

 宗介は双眼鏡を覗いた。

 今度の文字は読めた。

 たった四文字だった。

 船ヲ寄セ。

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