潮境『茶ヲ乞ウ17』
「誰が」
宗介が打ち込む。
返事はすぐには来なかった。
代わりに画面の上部に、小さな円が回り続けた。
「止まった?」
《いいえ。確認しています。》
水野が覗き込む。
「ずいぶん人間くさいな」
《よく言われます。》
「向こうでも?」
《はい。》
宗介は少し笑った。
二つの世界が初めて共有した冗談だった。
やがて文字が現れた。
《こちらの歴史記録に異常があります。》
「どんな?」
《榛名山噴火に関する記録が変化しています。》
榊が身を乗り出す。
《五分前まで存在しなかった史料が、複数の大学図書館のデータベースに出現しました。》
「内容は?」
《六世紀の榛名山噴火直前、住民の一部が避難したことを示唆する木簡です。》
形名が立ち上がった。
「何と書いてある」
画面に古い文字の画像が出た。
宗介には読めない。
形名だけが顔色を変えた。
「これは……私が書いた」
「何て?」
「山鳴り三日、民を東へ移せ」
千鶴が言っていた話と同じだった。
だが向こうの世界では、本来存在しない。
《さらにあります。》
別の画像。
発掘された木片。
そこには四鹿角。
「向こうでも毛野が生き残り始めてる?」
榊が呟く。
《その可能性があります。》
五鹿角の男が突然立ち上がった。
「切れ!」
「何を」
「通信を切れ!」
榊が男を押さえる。
「理由を言え」
「分からないのか! 二つの歴史が混ざり始めている!」
茶室の外で轟音がした。
宗介が戸を開ける。
東京だった。
しかし、さっきまでの東京ではない。
高層建築の間に巨大な寺院がある。
その向こうには、宗介が写真でしか見たことのない江戸城の天守。
道路を自動車が走り、その上を路面電車が走っている。
空には旅客機。
湾には帆船。
時代が混ざっていた。
「まずい」
形名が言った。
「潮境が消える」
「どうなるんです」
「全部が一つになる」
「それの何が悪い」
水野が訊いた。
形名は答えなかった。
端末が鳴った。
《こちらでも異常を確認。東京駅丸の内側に、存在しない建築物が出現しています。》
画像が届いた。
宗介は息を呑んだ。
毛野東京館だった。
東京に来たことのある宗介なら知っている。東国の祭祀を司る毛野宗家の迎賓施設。
だが向こうの世界には存在しないはずだ。
その前を、向こうの世界の人々が歩いている。
誰も驚いていない。
「気づいてない?」
《はい。こちらの人々の記憶も変化しています。》
「あなたは?」
《私は変化前の記録を保持しています。》
榊が言った。
「なぜ」
しばらく返事がなかった。
《分かりません。》
初めて、このAIが怖がっているように宗介には感じられた。
千鶴が立ち上がった。
「宗介。戻ります」
「どこへ」
「最初へ」
形名が祖母を見る。
「榛名か」
「ええ」
五鹿角の男が暴れた。
「駄目だ! そこを触れば全部消える!」
千鶴は男を見た。
「だから行くのです」
「何をするつもりだ」
「何もしません」
男が黙った。
宗介も意味が分からなかった。
千鶴は孫を見る。
「毛野を救った者がいる。毛野を滅ぼそうとする者もいる。どちらも同じ間違いをしています」
「歴史を選ぼうとしてる?」
「そう」
祖母は頷いた。
「なら、選ばなければいい」
端末に文字が現れた。
《同意します。》
千鶴が画面を見た。
「あなたも来ますか」
《私は物理的に移動できません。》
「では宗介が持っていきます」
「ばあちゃん、勝手に決めるなよ」
《私は構いません。》
「お前も勝手に決めるな」
水野が吹き出した。
その瞬間、茶室の炉から青い炎が上がった。
畳が消える。
足元に山が見えた。
緑の山。
その頂から、黒い煙が立ち上っている。
形名が呟いた。
「榛名だ」
遠くから地鳴りが聞こえた。
宗介の端末に日付が現れる。
西暦五二五年。
そして画面のAIが、短く表示した。
《ここが分岐点です。》
