潮境 『茶ヲ乞ウ6』
与那国行きの軍用機は、日が沈む前に小牧を離陸した。
宗介は窓際に座らされていた。向かいには榊、その隣には毛野宗家の使者だという老人がいる。
名を、上毛野冬嗣といった。
白い麻の上着に灰色の袴。宗介が想像していた「宗家の人間」とは違い、コンビニで新聞を買っていそうな老人だった。
「小県千鶴さんのお孫さんか」
冬嗣は言った。
「祖母をご存じなんですか」
「昔な」
「何者なんです、祖母は」
老人は窓の外を見た。
「それは本人に訊くべきだ」
「朝からみんなそればっかりですね」
榊が咳払いした。
冬嗣は笑った。
「尾張の会社に勤めると、そういう口になるのか」
「今日は二度目です、それ言われるの」
機内がわずかに揺れた。
眼下には紀伊半島が見えている。その先には、夕暮れの海がどこまでも続いていた。
宗介は子供の頃、この海の向こうには外国があると思っていた。
学校へ行くようになって、それが間違いだと知った。
海の向こうにも日本語を話す町があり、茶屋があり、寺があり、日本人墓地がある。高雄にも北呂宋にも、尾張商人が何百年も前に建てた蔵が残っている。
海は国を隔てるものではない。
つなぐものだ。
少なくとも、昨日まではそう思っていた。
「海の約定って何です」
宗介が訊いた。
冬嗣はしばらく答えなかった。
「学校では習わなかったか」
「習っていたら訊きません」
「そうか。消したんだな」
榊が老人を見る。
「何をです」
「歴史からだよ」
冬嗣は宗介へ向き直った。
「三百二十一年前、日本と英国は戦争になりかけた」
「マラッカ海商戦争でしょう」
「そう呼ぶことにした」
「違うんですか」
「戦争になりかけた相手は英国ではない」
機内の空調音だけが聞こえた。
「では、どこと?」
冬嗣は答えなかった。
代わりに懐から小さな布包みを出した。
開くと、黒ずんだ銅貨が一枚入っていた。
中央に穴があり、その周囲に文字が刻まれている。
宗介には読めなかった。
「これは?」
「新羅銭だ」
「そんなものが?」
「ないよ」
老人は平然と言った。
「歴史上、新羅は独自の銅銭をほとんど鋳造していない。だから、これは存在してはいけない」
宗介は銅貨を手に取った。
冷たかった。
裏返す。
四つの鹿角が刻まれていた。
「毛野?」
「違う」
冬嗣が言った。
「毛野が、この印を使い始めるより古い」
宗介は顔を上げた。
榊も初めて聞いたらしく、老人を凝視している。
「では四鹿角は毛野の紋ではない?」
「借りたんだ」
「誰から」
冬嗣が答えようとした、そのときだった。
機内の照明が赤く変わった。
操縦席から警告音が響く。
榊が立ち上がった。
「何があった!」
機内放送が入った。
『航法系統に異常。衛星測位を喪失』
宗介は窓の外を見た。
雲しかない。
『慣性航法へ移行します』
冬嗣だけが落ち着いていた。
「始まったか」
「何がです」
老人は銅貨を宗介の手から取り戻した。
「昔の航路が開く」
その直後、機体が大きく傾いた。
雲を抜ける。
海が見えた。
そして宗介は息を呑んだ。
夕暮れだったはずの空に、太陽があった。
真昼の光だった。
眼下には島がある。
与那国ではない。
港には木造船が何十隻も浮かんでいた。
帆柱の先で、白い旗が揺れている。
四つの黒い鹿角。
その港を囲む丘の上から、一本の煙が上がった。
冬嗣が立ち上がった。
「上田へ連絡しろ」
榊が怒鳴った。
「通信は全部死んでます!」
「なら記録しろ。時刻だけでもいい」
「何をです」
老人は窓の下の港を見つめた。
「我々が、どこへ来たかを」
宗介の手元の腕時計は、正常に動いていた。
ただし日付だけが変わっていた。
西暦六六三年八月二十七日。
