潮境第二部『席ヲ空ケヨ4』

『じゃあ、そっちは何なんだ』

 通信室に雑音だけが残った。

 宗介はマイクを握ったまま考えた。

「日本です」

 結局、それしか出てこなかった。

 向こうで誰かが息を吐く音がした。

『……こちらもです』

「でしょうね」

『困りましたね』

「困りました」

 艦長が宗介を見た。

 宗介は肩をすくめた。

 どうやら外交史に残る最初の会話は、ひどく間の抜けたものになりそうだった。

『そちらの代表者と話したい』

「代表者?」

『政府の方です』

「私は政府の人間ではありません」

『では、なぜあなたが話しているんです?』

「私も聞きたいです」

 通信士がとうとう吹き出した。

 宗介はマイクを手で塞いだ。

「笑わないでください」

「すみません」

 向こうから声がした。

『小県さん』

「はい」

『漢字は?』

 宗介は答えた。

『珍しい名字ですね』

「そうですか?」

『少なくとも私は初めて聞きました』

 妙なところで、宗介は初めて違和感を覚えた。

 言葉は同じだった。

 発音もほとんど違わない。

 東京という街もある。

 なのに、自分の名字を知らない。

「そちらの方のお名前は?」

 少し間があった。

『海上自衛隊二等海佐、佐伯直哉です』

「佐伯さん」

『はい』

「佐伯なら、こちらにもいます」

『でしょうね』

 二人とも少し笑った。

 それだけで宗介は肩の力が抜けた。

 知らない日本の人間が、急に一人の男になった。

     *

 通信が終わると、宗介は甲板へ出た。

 汐里がいた。

 暗い海に向かって、小型の観測器を調整している。

「どうでした?」

「日本人でした」

「それは聞いてます」

「佐伯さんっていう人でした」

「普通ですね」

「普通でした」

 宗介は手すりにもたれた。

「もっと変な感じがすると思ってました」

「角でも生えてると思ったんですか」

「そうじゃなくて」

 言葉が見つからない。

「同じなんですよ。喋り方も。たぶん顔も。それなのに海務院を知らない」

「私だって南海交易の部署なんて知りませんよ」

「そういう話じゃないんです」

「分かってます」

 汐里は観測器を海へ落とした。

 細い索が暗闇へ吸い込まれていく。

「でも、似てるものほど違いが気になるんじゃないですか」

「どういう意味です?」

「外国なら、違って当然でしょう」

 索を止める。

「同じ日本だから、違うことが怖い」

 宗介は返事をしなかった。

「深度?」

 汐里が端末を見た。

 表情が変わった。

「おかしい」

「何が」

「底がない」

「底?」

「この辺なら二千八百くらいで拾うはずなのに」

 さらに索を送る。

 三千。

 三千五百。

 四千。

 反応なし。

「機械は?」

「正常です」

 汐里の声から、昼間の明るさが消えていた。

 だが恐れているというより、集中しているように見えた。

「艦長を呼びます」

「待って」

 汐里が海を見た。

 宗介もつられて見る。

 何もない。

 月のない夜だった。

「音が違う」

「音?」

「波」

 宗介には同じに聞こえる。

 汐里はしばらく耳を澄ませていた。

「速力を落としてもらってください」

「どうして」

「分かりません」

 それでも彼女は迷わなかった。

「分からないからです」

     *

 《秋津》は六ノットまで減速した。

 十五分後。

 レーダー員が声を上げた。

「前方に反応」

 艦橋へ駆け込んだ宗介は、暗い海の向こうを見た。

 最初は光が一つ。

 次に二つ。

 三つ。

 やがて水平線に、街の灯のような光が並んだ。

「例の艦ですか」

「違う」

 艦長が双眼鏡を下ろした。

「陸だ」

 汐里が海図を開く。

 宗介にも分かった。

 そこには何も描かれていない。

 汐里は海図と水平線を何度も見比べた。

 そして、誰に言うでもなく呟いた。

「知らない海だ」

 宗介は彼女が怖がると思った。

 違った。

 汐里の目は、光っていた。

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