潮境第二部『席ヲ空ケヨ5』
「停船」
艦長の声で《秋津》の機関音が変わった。
汐里はすぐに海図を机へ固定した。
「位置をもう一度ください」
航海士が座標を読み上げる。
汐里が書き込む。
「ないですね」
「何が」
「全部です」
宗介は窓の外を見た。
光は十数個まで増えていた。
電灯だ。規則正しく並んでいる。島影らしい黒い稜線も見える。
「人がいるんですか」
「電気を使う何かはいますね」
「人でしょう」
「決めつけない」
汐里はそう言ったあと、自分で笑った。
「なんて、一度言ってみたかったんです」
「楽しんでません?」
「少し」
「正直ですね」
「だって、海図にない島ですよ」
汐里は双眼鏡を取った。
「水路屋がこれで興奮しなかったら、職業を間違えてます」
艦長が振り返った。
「志賀君。上陸はさせないぞ」
「分かってます」
「顔が分かってない」
「測るだけです」
「駄目だ」
「まだ何も言ってません」
「小艇を出したい顔をしている」
宗介は吹き出した。
「分かりやすいんですね」
「うるさいですよ、茶使」
*
午前零時を回った。
《秋津》は島から五海里の位置を保ったまま、海底と潮流の観測を続けていた。
宗介には仕事がない。
食堂へ行くと、汐里が一人で遅い夕食を食べていた。
「まだやってたんですか」
「交代しました」
丼の中には魚の煮付けが残っている。
「海の人って、船でも魚食べるんですね」
「陸の人は陸で牛を食べないんですか」
「食べますね」
「じゃあ同じです」
宗介も向かいに座った。
「志賀さん」
「はい」
「どうして水路局なんです?」
汐里の箸が止まった。
「前にも聞きませんでした?」
「海務院しか受けなかったってところまで」
「ああ」
しばらく煮付けをつついていた。
「高校二年のとき、祖母が亡くなったんです」
唐突だった。
「片付けを手伝ってたら、古い箱が出てきて」
「宝物?」
「だったらよかったんですけどね」
汐里は笑った。
「紙ばっかり。読めない字で、地名と数字がずっと書いてある」
「何だったんです?」
「分からなかったから、調べました」
そこで彼女の顔が少しだけ変わった。
「海図だったんです」
「お祖母さんが?」
「違います。もっと昔」
「どれくらい?」
「それも、まだ分かりません」
宗介は「まだ」という言葉が気になった。
「調べ続けてるんですか」
「ええ」
「仕事にするほど?」
汐里は窓の向こうの暗い海を見た。
「家では誰も興味なかったんです。父なんか、捨てればって」
「志賀さんだけ?」
「私も最初は捨てようと思いました」
少し笑う。
「でも一枚だけ、変な海図があった」
「変?」
「知ってるはずの海なのに、島の位置が違ったんです」
宗介は身を起こした。
「どこの?」
汐里が答えようとした瞬間、船内放送が鳴った。
『小県特別茶使、至急通信室へ』
「特別茶使」
汐里が笑う。
「やっぱりいい肩書ですね」
「続き、あとで聞かせてください」
「気が向いたら」
*
通信室では佐伯の声が待っていた。
『小県さん。そちらにも見えていますか』
「島なら」
雑音。
『こちらの海図にもありません』
宗介は黙った。
「そちらにも?」
『ええ。それと――』
佐伯の声が低くなる。
『島から通信がありました』
「何語です?」
『日本語です』
宗介は目を閉じた。
「なんと言ってるんです」
長い雑音のあと、佐伯が答えた。
『我々にも分かりません』
「日本語なのに?」
『古すぎるんです』
そして佐伯は言った。
『毛野という言葉だけは、聞き取れました』
宗介の手が止まった。
