潮境第二部『席ヲ空ケヨ11』
佐伯直哉は、宗介が想像していたより普通の男だった。
三十代半ば。短い髪。日に焼けた顔。制服だけが見慣れない。
肩章を見ても階級が分からない。
佐伯の後ろから男女二人が入ってきた。
「航海長の三浦です。こちらは通信士の森」
三人が一礼する。
宗介側は艦長と宗介、そして汐里。
「水路局の志賀です」
「水路局?」
佐伯が反応した。
「あります?」
「あります。海上保安庁に」
「海上保安庁」
汐里が嬉しそうに繰り返した。
「何をするところです?」
「海難救助、警備、海洋調査、航路標識――」
「うちだ」
「志賀さん」
「だいたいうちですよ、小県さん」
佐伯たちが顔を見合わせた。
最初の緊張が少しだけほどけた。
「まず座りましょう」
宗介が言った。
六人が席につく。
空席だけが残った。
宗介は茶を注いだ。
佐伯が湯呑みを見る。
「これは?」
「茶です」
「それは分かります」
「ならよかった」
佐伯が一口飲む。
その顔を見て宗介は少し安心した。
「同じですね」
「何がです?」
「味」
佐伯は笑った。
「違ったら怖いですよ」
汐里も飲んだ。
「産地は?」
「狭山」
「それ、向こうにもあります?」
佐伯が頷いた。
「埼玉県の狭山茶」
宗介はまた知らない言葉を聞いた。
「埼玉県?」
「はい」
「武蔵じゃなくて?」
佐伯の湯呑みが止まった。
「武蔵?」
「武蔵州」
「……埼玉県です」
しばらく誰も喋らなかった。
同じ茶を飲んでいるのに、その茶が育った土地の名前が違う。
宗介は妙な可笑しさを感じた。
「こうしましょう」
佐伯が言った。
「違うところを探し始めたら終わらない。まず同じところから確認しませんか」
「賛成です」
宗介は端末を開いた。
「言語、日本語」
「同じ」
「西暦二〇二六年」
「同じ」
「国名、日本」
「同じ」
「東京」
「ある」
「京都」
「あります」
「天皇」
佐伯が頷いた。
「います」
宗介は少し安心した。
「今上陛下は?」
佐伯が名前を言った。
宗介は聞いたことがなかった。
今度は宗介が名前を答える。
佐伯たちが黙った。
「違いますね」
「違います」
同じものを探していたはずなのに、また一つ道が分かれた。
佐伯が続ける。
「総理大臣は?」
「何です?」
「内閣総理大臣」
宗介は艦長を見る。
「首政のことですかね」
「たぶんな」
「首政?」
佐伯が聞き返す。
「政務院の首政です」
「政務院……」
佐伯は手元に書き込んだ。
「では、国会は?」
「国会?」
「議会です」
「ああ。国議院と諸州院」
「二院制?」
「三院です」
「三?」
今度は佐伯側の三人が同時に顔を上げた。
宗介は笑った。
「ほら。やっぱり終わらない」
そのとき汐里が口を開いた。
「毛野を聞いてみたら?」
佐伯が首を振る。
「先ほど艦内の資料で調べました」
「ありました?」
「ありました」
宗介は身を乗り出した。
「あるんですか」
「ただ――」
佐伯が端末を見る。
「我々の歴史では、古代の氏族です。上毛野氏、下毛野氏。東国に勢力を持っていたらしい」
「らしい?」
宗介には、その言い方の方が衝撃だった。
「今は?」
「今?」
「毛野宗家は?」
「ありません」
「上野府は?」
「群馬県です」
「赤城祭祀院は?」
「知りません」
一つずつ、自分の世界が消されていくようだった。
佐伯は宗介の顔を見て、少し言いにくそうに続けた。
「上毛野氏は、歴史の中で……」
言葉を選ぶ。
「大きな政治勢力ではなくなったようです」
宗介は湯呑みを見た。
狭山の茶。
同じ茶だった。
同じ山もある。
同じ東京もある。
それなのに、毛野だけがいない。
ふと、佐伯が空席を見た。
「ところで」
「はい」
「やっぱり気になるんですが」
七つ目の湯呑みは置かれていなかった。
「その席、誰のためなんです?」
宗介が答えるより先に、
汐里が言った。
「まだ来ていない人のためじゃないですか」
佐伯は意味が分からない顔をした。
宗介にも分からなかった。
ただ、その言葉を聞いた瞬間。
島の方角から、低い鐘の音が響いた。
